切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《相模原市の津久井やまゆり園障害者施設19人殺害事件の初公判がようやく行われた》

2020-01-09 23:38:00 | 社会

● 初公判がようやく始まった
 今年の7月で事件から4年。初公判までなんでこんなに年月がかかるのか。精神鑑定、公判前の準備書面作りなどなどあるとは言え、再精神鑑定も行われ、結局これだけの年月が費やされた。
 精神鑑定の結果は「個人愛性パーソナリティー障害(人格障害)」と言うことで、再鑑定でも同じ結果だったと言う。もちろん専門家が鑑定したんだろうが、普段テレビはあまりにも見ない私としては、わずかな情報から得た知識で書いている。
 それによると鑑定人の中に精神科医はいなかったと耳にした。おそらく心理学者とか臨床心理士などが鑑定を行ったんだろうか。その辺どうにも腑に落ちない。そして第一回目の公判が開かれ、被告の植松聖はスーツ姿で現れたと言う。19人の殺害と26人の傷害罪については全て認めたと言う。
 検察側は極めて計画的で周到な準備のもとに行われた計画的な大量殺人が成立する、と主張し、弁護側は予想通り、「心神耗弱」状態の中での行為であり、無罪を主張。しかし公判中に植松被告が突然自分の指を噛んで暴れたために、退廷させられ、後半の審理については本人抜きで進められたとのこと。少ない情報の中で、私にはこれだけの事しかわからない。



● 「パーソナリティ障害」と言うものの難しさ
 精神鑑定の結果は信頼に足りるものなのか。そして「個人愛性パーソナリティ障害」と言う診断は、何をどのような基準にして結論が出されたのか。
 パーソナル障害と言うのはいろんな資料を見てみると、日本国民のほぼ10数%に見られると言う情報があった。このパーソナル障害そのものも様々な種類があって、精神医学上はそれ相応の特徴に応じて分類され、〇〇パーソナリティ障害と言うふうに名称が付けられているようだ。
 ただこれが本当に「障害」と呼べるものなのかどうか。この辺かなり微妙なところだと思う。
 個々人の思考や性格、あるいは自らの思い込み、あるいは演技などなど含め、いろんな形での表出の仕方がおそらくあるだろうと思う。今回の事件の一連の流れから、このように判断されたのか、あるいは幼い頃からの生育歴を通して形成されたものとして判断されたのか。その辺もさっぱり情報がなくてわからない。そういった意味でパーソナリティ障害と言う括りを示すと言うことが、本当に正しいのかどうか。私にとっては大いに疑問を感じるところだ。
 さらに「個人愛性パーソナリティ障害」と人格障害の特定の種別まで断定している。これが個々人の人間の行いのあり方に大きな影響与え、その個人の責任能力が取れないほどに、障害がその個人を支配していると言うような判断になるとすれば、さらに疑問を覚える。
 「障害」といってもその範疇は極めて広く、きわめて多様で、まだまだ明らかになっていない部分も多くあるだろう。かつては、身体障害・精神障害と言うかなり単純でおおまかな括りで扱われていた障害ではあるが、特にイギリスやアメリカ等での医学的研究が進む中で、様々な障害の特徴が明らかにされ、今現在のような分類状態になっているようだ。



● 「障害」による責任問題と言うのはどのように扱われるべきなのか
 肉体的な、あるいは精神的な障害に基づく該当個人の行いが、触法行為として行われた場合に、その責任問題と言うのは、障害ゆえになされたものの場合、その責任は取れない、と言う法律上の条文がある。法律の詳しいことは知らないが、刑法上にそのようなことが記されていると言うことだ。
 従って事の状況によっては、「無罪」と言うことになることも十分にあり得ると言うことになる。仮に無罪でなくても減刑の対象になり得ると言うことだ。ただ万引きとか盗撮とか、一般的に軽犯罪と言うように扱われるようなものでは、このような事件は社会的にも納得が得られるのかもしれない。
 しかし今回の事件は、京都アニメーション放火殺人事件が起こるまでは、戦後最大の大量殺人事件として、日本社会に大きな衝撃を与えた。しかもこれが単なる無差別殺人事件ではなく、明確に「障害者」を意図的に狙い撃ちにした大量殺人事件であるだけに、簡単なヤケになって起こした事件とか、ストレス発散の事件とか、そんな単純な形で済まされるものでは無い事は、世間としても同意できるだろう。
 だがしかし、意図的な計画を定めて行われた大量殺人事件であるだけに、被疑者が「自己愛性パーソナリティ障害」によって、本人の理性が支配され、精神的に障害者を殺せ、と思い込まざるをえなくなったと考えるのは、果たしてそれでいいんだろうか。自己愛性パーソナリティ障害についてネットで調べてみると、いろいろな情報がたくさん出てくるが、簡単にまとめられた文章として次のようなものがあった。

『自己愛性パーソナリティ障害患者は自尊心の調節に困難を有するため,賞賛および特別な人物または機関との関係を必要とする;優越感を維持するために,他者を低く評価する傾向もある。』

 これは比較的簡単にまとめられた文章ではあるが、これを読んでみてこの内容が、「障害」と言うように定義され得るものなのかどうか、専門家でない私には何ともわからないとしか言いようがないが、専門家とされる人々の長年にわたる精神鑑定によって、このような障害があるとされたのは事実だし、それを元にしながら、今後の裁判が進められることになる。
 植松被告が公判の場で突然自分の指をかんだと言うのは、被害者の遺族にとってみれば、「自分は精神障害があると言うことを示す単なるパフォーマンスに過ぎない」と言う批判の言葉となる。当然だろう。こういう場面をみんなに見せつけて、自分は障害者なので「無罪」、あるいは「有罪でも執行猶予がつく」なんて主張されればたまったもんではない。
 一般的には誰が考えても、19人殺害と言うのは「死刑」以外にはありえないと考えるだろう。
 この事件で誰もが思い出したのは、もうずいぶん前になるが、大阪教育大学附属池田小学校での無差別殺人事件だろう。当時も宅間被告が精神鑑定にかけられたが、結果的には責任能力ありと言うことで死刑判決を受け、すでに執行されている。オウム真理教事件でも麻原彰晃達も後半開始までにかなり長い年数がかかっており、恐らく精神鑑定では何らかの「精神障害」と言う結果が出ていたのかもしれない。
 しかしオウム真理教による大量殺人も、洗脳うんぬんよりも、責任能力ありとの判断で死刑判決が下され、昨年一気に処刑された。そういった事例を見ると、今回の事件における裁判員裁判の結果ははっきり言って、既に見えているだろうといってもいい位だ。そしていわゆるテレビなどで顔出している識者と呼ばれる人々の中には、これはあくまでも植松被告個人の問題として、捉える必要があると言う意見がよく出されている。
 でも実際には、その背景にあるものを共に考えていかないと、いわゆる「人権尊重」と言うものの崩壊が始まっているこの日本社会のあり方と言うものを分析し、きちっとを見ていく必要があるのではないかと思えて仕方がない。
 その観点を含め、次回には裁判の流れとともにそのことも追って考えてみたいと思う。
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