切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

六波羅蜜寺・・・空也上人   京都市東山区      2022.6.24

2022-06-28 23:53:44 | 撮影
 

『六波羅蜜寺

天曆五年(九五一)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十七番札所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。
 空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。
 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛坐像、長快作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、 本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶坐像も所蔵している。
 年中行事として、正月三が日の皇服茶、八月の萬燈会、かくれ念仏として知られる十二月の空也踊躍念仏(国の重要無形民俗文化財)が有名である。
  京都市』  (駒札より)

   

 六波羅蜜寺は京阪電鉄の清水五条駅から、北東の方向数百mのところにある。周辺はお寺だけでなく住居等の密集地であり、細い通りが縦横に走る。そんな場所に突然派手な色彩のお寺が現れる。周囲をまるで西洋風の壁と柵に囲まれ、内部には赤と白の結構派手な建物がすぐ目の前に見える。日本の仏教にしても神道の神社の建物にしても、原色を使ったかなり派手な色に塗られたものが多いが、六波羅蜜寺の建物は全体的に創建以来このような派手な色で、そのまま今に至るものと思われる。

 元々は平安時代に現れた空也上人によって開かれた、真言宗の寺院であり、多くの人々の信仰を得てきた。空也上人は踊り念仏で知られており、また自ら称名念仏を唱え、ずっと後の浄土宗の専修念仏につながるものとされる。この空也上人が自ら彫ったと伝えられる十一面観音立像が本尊とされ、これも今現在に至っている。
 空也の称名念仏というのは、空也上人像が口から棒状のものを出しているものがあり、それは「南無阿弥陀仏」を意味している。つまり信仰において、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えれば願いが叶うということを広めたものであり、後の浄土宗の法然たちに繋がっていくことになる。

 

 このような仏教の教えは極めて簡単なものであり、人々の信仰を集め空也の死後、元のお寺を改名して六波羅蜜寺となった。お寺は大いに栄え広大な寺領をもつまでに発展した。平安時代末期には平家との繋がりが強くなり、寺の周囲には平家の人々の住宅が多数建設された。
 しかし後に平家は滅び、その際六波羅蜜寺も炎上したが、本堂だけは類焼を免れそのまま残った。源氏が権力を握り鎌倉に幕府を開くと、朝廷の見張りのためにこの地に六波羅探題をおいた。その後本堂は建て直され、南北朝時代に改めて完成している。今現在の本堂はその時のものであり、完成以来約700年近く経っている国の重要文化財だ。

 

 寺の名前になっている「六波羅蜜」というのは、仏教において修行を通して悟りを得るのに、六つの教えがあり、その教えの内容を表す言葉だ。元はインド仏教におけるサンスクリット語の発音を漢字に当てはめたもので、意味としては「完全」といったふうなものになると言う。

 

 受付で参拝及び宝物館の入場券を購入する。非常に安価だ。重要文化財の本堂にお参りをする。内部は暗くて国宝の十一面観音を見ることはできなかった。建物はとても700年も経っているとは思えないほどで、もちろん全体の色は何度も塗り直されているはずだ。そのために比較的新しいように見える。柱や上部構造物のデザインなどもおそらく再建当時のものが、そのまま今に伝えられているんだろうと思われる。
 続いて宝物館へ入る。全てが国の重要文化財に指定されている多くの仏像等を拝見することができる。空也上人像は口から南無阿弥陀仏の言葉を発している形式をとっており、中学や高校の歴史教科書にも写真が載っているケースが多い非常に有名なものだ。仏像等のほとんどは平安時代から鎌倉時代にかけて造られたものであり、十分に長い歴史を感じさせる。一度にこれだけ多くの仏像などが見られるところはそう多くはない。これらを拝見するだけでも非常に貴重な経験だと言える。

 この日は平日だったが有名なお寺とあって、結構を人が来ていた。私のような仏像ファンにとってみれば、たまらないほどいいところだ。

   

  (仏像等の画像はパンフレットより)
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《 ロシアによるウクライナへの侵略という暴挙 》 ㉓  2022.6.26

2022-06-27 00:24:23 | 社会


◆ ロシアによる侵略から4か月 現状は 東南部戦線におけるロシア軍の支配の固定化

 日本において報道されるウクライナ情勢については少しずつだが、扱いが減少しているように感じられる。たまたま参議院選挙の公示があり、日本社会における関心が特に報道関係はそちらの方に向いているようで、そのぶんだけウクライナ問題が遠のいているような印象を受けるのだ。
 戦闘状況はウクライナ軍の徹底的な抗戦によって、侵略者ロシア軍は東南部に焦点を合わせて軍事力を集中させ、ドネツク州やルバンスク州を事実上掌握したという形になっている。その地ではいわゆる「ロシア化」が進められ、言語のみならず社会生活も通貨のルーブル使用、ロシア政府によるパスポート発給など掌握された地域が、すでにロシアであると言う既成事実化が着々と進められている。



 一方この地域で最後までウクライナが抗戦していた、ゼロドネツクから撤退したことをゼレンスキー大統領は発表する。その街がすでに徹底的に破壊され、ここで交戦していても意味がないと判断したということだろう。
 他方ではゼレンスキー大統領は、掌握されたドネツク州やルガンスク州を必ず取り返すと宣言している。これまで西側諸国に最新兵器の貸与を申し出ていたが、その一部がウクライナへ到着しつつある。これらの使用訓練を経ておそらく7月から8月にかけて、ウクライナ側の総反撃が開始されるものではないかと考えられる。


 
 ロシアがクリミア半島をすでに自国の領土にしている実態に対して、黒海沿岸部を全て押さえることが、ウクライナを内陸化して力を弱めるのに大きな戦略的価値があると判断しているのは明らかであり、この地域についても今後、ウクライナ軍の反撃が行われるものと見られる。その意味では夏場にかけての両国の戦闘はかなり激しいものになることが予想される。
 
 先日の国連の発表によれば、ウクライナ軍の戦死及び民間人の犠牲者は約4600人余り。負傷者が5000名以上となっている。実際には混乱した状況の中でつかめない部分もあるので、ウクライナ側の死者は優に1万人を越しているものと考えられている。
 同時にロシア側の発表がないので詳細は不明だが、ロシア軍の兵士の死者はおそらく15000人を大きく越えているものと考えられている。特にロシア軍においては一人一人の兵士の意欲の低下が指摘されており、厭戦気分が広がっていると言われている。
 そんな中つい先日、ロシアの友好国であるとされるベラルーシが要求していたロシアの最新鋭ミサイルが供与されることになった。そのミサイルは通常弾頭だけではなく、核弾頭を装着できるものであり、事と次第によってはベラルーシが軍隊をロシアに協力する形でウクライナへ派遣、同時に核による脅しで西側に手を出させない狙いがあるのではないかと考えられる。ベラルーシが自力開発でなくとも、核弾頭をロシアから購入すれば即「核保有国」ということになる。核拡散防止条約どころの話ではなくなるのだ。
 さらにロシアはプーチン大統領が、先日改めて「ロシアには核兵器があるのだ、最新鋭ミサイルがあるのだ。」と改めて演説で述べて西側諸国の支援体制にくさびを打とうとした。



 こういったところから夏場の戦闘状況によれば、再度ロシアによる核兵器の使用が現実味を帯びてくる。その場合に西側諸国の核保有国及びアメリカが、報復攻撃をすることになるのかどうかが大きな焦点となってくる。今やロシア、そしてプーチン大統領はまさしく狂気の沙汰といった状態にあるのだ。もはやあげた拳を収める機会は無いものと思われる。つまりあげた拳は勝利の拳として、ロシア国民に示さなければならないのだ。その最低限の中身がウクライナの南東部及び黒海沿岸地域の完全掌握ということになる。

◆ 経済制裁の結果「エネルギー資源」「穀物資源」の世界的な不足の問題が顕在化

 西側による経済制裁は時間はかかるものの、じわじわと効き目を出しているのではないかと考えられている。プーチン大統領は通貨ルーブルの価値が一時的に落ちただけで、今現在では元に戻っているとして制裁の影響はほとんどないに等しい、と国民に話した。しかし様々な日常生活用品等の不足、及び値上がりと言ったインフレは確実に進行しているようだ。ロシアは決して豊かな国ではない。一般市民の国民生活の実態はごく一部の裕福層を除いて後は、中産階級まではいかない国民が大半だと思われる。そういった意味では日常生活用品や様々な商品の値上がりというのは必ず大きく効いてくるはずだ。

 しかし一方では、ロシア及びウクライナはエネルギー資源においても穀物資源においても世界有数の生産地であり、同時に輸出国でもある。
 この間ロシアは中国と急速な接近を見せており、最近では他にインドや南アフリカなどいくつかの国を集めてリモートで経済会議を行っている。ロシアにとってみれば、中国やインドといった13億14億の人口を抱える国に輸出すれば、それなりにやっていけるということになるだろう。少なくとも中国は西側の経済制裁には真っ向から反対しており、ロシアとの経済関係を密接にすることには前向きであり、これからどんどん進めると宣言している。
 これらのことはとりもなおさず、世界にはいくつかのウクライナ侵略戦争を追認する国があるということを意味しており、その中で一般人に対する人権侵害をなんら気にしない国があるということを意味する。やはり国と国の間の利害関係というのは究極のところ、個々人の人権は何ら保障されないし、虐殺だろうが何だろうがそういうものは関係ないということなのだ。



 そしてウクライナについては、小麦の大輸出国であり主要な輸出港であるオデーサが、ロシアによって封鎖されており、事実上輸出ができない状態に置かれている。そのためにオデーサの倉庫などには莫大な量の小麦が置かれたままになっているとのことだ。もちろんロシアも同様に小麦など穀物類の大輸出国であるが、西側制裁による報復措置で友好国以外への輸出を止めている。
 このことによって日本では、小麦価格が大きく上昇し、うどんやラーメン、パンなどなど主要な食べ物が大きく値上がりする。あるいは販売不可能になると言った心配をする声が出ている。同時にロシアのエネルギー資源である天然ガスは、ヨーロッパにとって欠かせないものであるが、この輸出がストップされるという事態になっている。当然その分は OPEC諸国 の方に、またアメリカに協力を仰がざるを得なくなるのが確実だ。
 日本においてはすでにガソリン価格の大幅な上昇を現段階では、国費を出して押さえ込んではいるが、これは税金を使っているということであり、車のガソリンを使う者と使わない者では不公平が出るような仕組みになっている。
 このような状況にある日本では、火力発電所の再稼働や原子力発電所の再稼働を急いで行うべきだと言う声が強まっている。しかしまがりなりにも先進国だと言われている日本においては、現在の生活水準を保つために様々な政策をとったりしているが、日本のようにあまり危機感のないような、のんびりした言い方では済まない国々が世界には圧倒的に多いのだ。



◆ 世界規模でのエネルギー危機と食料危機が目の前に迫っている

 ロシアによるウクライナへの大義なき侵略戦争の結果、今現在世界は「核の脅威」にさらされている。そしてさらにじわじわと「エネルギー危機」「食糧危機」が今以上に悪化すると言う脅威にさらされている。
 日本や西ヨーロッパ諸国などのいわゆる先進諸国においては、かなり発展した2次産業3次産業の実態から、様々なエネルギーというのはどうしても必要としか言いようがない。地理的な要因で自国ではエネルギーを産出できない国が、その中には多い。従って地理的に恵まれた地域から輸入という形で補うわけだが、先進国の中でもアメリカとなると、自国でエネルギーが賄えるという条件がある。こんなに強い立場の国というのはそうざらにはない。そういった意味では西側諸国の中でも、ロシアを非難する言葉の内容も若干違ってくることがあるようだ。
 
 それでもまだ先進国といわれる国々はまだいい方だろう。アフリカや南アジア、更には発展途上国と呼ばれているが、事実上「貧困国」と言わざるを得ないような国々が多数ある。特にアフリカにおいては長年にわたり、アフリカ大陸各地で部族間や宗教対立などなど様々な原因で、局地的な紛争が続いており、特に天然資源のある地域では、バックに欧米各国などが付いて武器供与などをしながら、利権の争奪戦が行われてきた。
 その結果は形式的なな独立国は多いものの、実質的には民主主義が確立せずに国の経営が困難であり、当然経済的にも困難であり、一部の権力者が軍隊を伴って強圧的な支配を続けている国々が多数見られる。

 かつてそのような、争いに国連が国連軍を投入して収めようとしたが、逆に大きな被害を出してしまい、最終的には国連軍も撤退せざるを得ないほどの事態に陥ったケースもあった。こういった国々は地理的な条件も恵まれておらず、穀物原料などは輸入や支援に頼らざるを得ない事態となっている。そういう事態にある中で、穀物の輸出大国が事実上輸出ができなくなるということは、これらの国々に大変な「飢餓」をもたらす事が容易に予想される。その結果各地で大勢の人々が餓死するような状態が現れるのが時間の問題となっている。
 ただ南アジアやアフリカ諸国に対しては、中国がかねてより一帯一路政策により大金を投じて、それらの国々に支援するということを名目に、インフラ整備を行い、事実上該当国の港湾施設や空港などを整備しながら実効支配し、軍事拠点化するということを行ってきた。そしておそらく食料支援を行うことによって、さらに中国への依存度を高め、友好国というものを増やしていく動きが出てくるのは間違いないだろう。
 一帯一路政策は手詰まり感があるという声もあるが、決して侮ってはいけないと思う。国連における各国の持っている一票というものは、先進大国であれ小さな途上国であれ、同じなのだ。これがいざという場合に何らかの形で反映されることになるという可能性が十分にある。



◆ ウクライナ情勢は、7月から8月に大きな山場を迎えることになるだろう

 上にも記したように、アメリカを中心とする西側諸国の最新鋭兵器を含む様々な武器がウクライナに届き始めている。アメリカのミサイルはピンポイント攻撃が可能だと言う。今や人工衛星からの情報によって、軍隊の動きや基地の場所、移動の様子などはそれこそピンポイントで刻一刻全て把握できる状態だ。その位置座標を入力するだけでミサイルはその場所へ飛んで行く。すでにロシア側はそのようなミサイルを使用して、今日も首都のキーウに10数発のミサイルを打ち込んでいる。幼稚園にも命中したと言う。相手が軍人であれ民間人であれ、子供であれ関係なしだ。誰を殺してもいいというのがロシアの立場だ。
 何としても国を守る、取り返すというウクライナ人たちは、この4ヶ月間で受けてきた残虐なやり方に激しい憤りを持っている。そのぶん新たな兵器を得て局地的な攻撃をあちこちで始めるだろう。
 そんな中である意味何が起こっても不思議ではない。どこの国の人も「事と次第によっては」ということを考えておかなければならないという状況にあるのだと思う。

  (画像はTVニュースより)
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紫陽花の花々満開 智積院  京都市東山区    2022.6.23

2022-06-24 22:58:20 | 撮影


『智積院
 真言宗智山派の総本山で全国に三〇〇〇余の末寺がある。もと紀州根来山の学頭寺智積院であったが、豊臣秀吉の焼き討ちに遭い、学頭玄宥僧正は、難を京都に避け、後に徳川家康の帰依を受けて慶長六年(一六〇一 ) に豊国神社境内の坊舎と土地を与えられ、智積院を再興した。その後、祥雲禅寺を拝領し現在に至っている。
 祥雲禅寺は、秀吉が長男鶴松 (棄丸)の菩提を弔うため建立した寺で当時は都第一といわれた。
 収蔵庫にある豪華な襖絵 (国宝)は祥雲禅寺以来のもので、長谷川等伯並びに一門の筆といわれ、桃山時代の代表的障壁画として知られている。このほか、張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の瀧図 (重要文化財)をはじめ、仏画・経巻など多数の指定文化財を蔵している。
 庭園 (名勝)も同じく桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる池泉観賞式庭園で京洛名園の一つに数えられている。
 京都市』 (駒札より)

   

 東大路七条にある智積院。これまで何度も訪れて撮影をしているところだ。中でも春の梅、桜、そして秋の紅葉は広大な境内に、巨大な本堂などの建物とともに非常に写り映えのする見事な風景が楽しめる。
 この智積院に「あじさい」の花が大量に咲いているというのを知って、早速訪れることにした。これまで何年間もここにやってきて、紫陽花については全く知らなかった。境内の小さな池にはハスの花も見られる。

 門を入って駐車場に車を置く。境内が広いだけあって駐車場もかなり広い。つい最近は宿泊施設が全面建て替えになって、非常に綺麗な立派な施設がオープンしたばかりだ。今現在はその向かい側に宝物館が建て替え新築中だ。
 ここから門のほうへ戻り、いつも通り正面入り口から境内内部を撮影。広すぎて本堂が見えない。そして周りを見回すと、平日にもかかわらず意外にも多くの人々が来ている。無論信者として参拝に訪れている人もいるが、私と同様にカメラをぶら下げて撮影に訪れる人がかなり多い。表門からまっすぐ続く本堂への参道に沿って行くと、その両サイドに桔梗の青い花が綺麗に咲いている。無論これも撮影。若い女性たちはスマホや一眼カメラで一生懸命接写している。やはり若い人にとってみればこのような花は映えるのだろう。
 ほどなく巨大な本堂の前に到着。智積院の本堂などの建物は実は鉄筋コンクリート製だ。かつてのものは失われ昭和の時代に、コンクリート造りで再建された。そういった意味ではお寺としても歴史的な古さというのは感じられない。
 その本堂の北側に紫陽花の花が密集している場所があった。何人もの人が撮影している。やはり紫陽花というのは様々な色があるというのが、ひとつの魅力であり、場合によっては一株の花に桃色から紫色に変化していくような状態になっているものもある。一般的には紫陽花の花を見に行った時に、ハート型の花があったということが話題になりがちだが、そういう花にはあまり興味がなく、やはり花の色に惹かれていく。

       

 本堂横の紫陽花の花を撮り終わると続いて、本堂を大きく回ってその背後に行く。古い墓地があり、そこにかなり広い紫陽花の花畑が広がる。これは桜にしても同様だった。やはりこれだけあるとなかなか見事なもので、撮影する方としても期待が高まる。 大勢の人々があちこちで撮影していた。大半は若い女性の数名のグループ。中高年の夫婦といった人が多く、私のように老人一人で撮っているというのはなかった。学生らしき若者が一人で撮影しているというケースを何人か見かけた。
 最も期待していた真っ赤な色の紫陽花の花は、残念ながら見られなかった。宇治の三室戸寺にはその真っ赤な紫陽花の密集地があって、ハッとするような美しさだったが、これがここにもあれば最高だったのがひとつ残念な点だ。しかしさまざまな色の花々、そして一般の紫陽花からいわゆる日本の発生種としてのガクアジサイも見られて十分満足できた。

    

 ちなみに「あじさい」という名前はどこから来たのか、ということについてはよく分かっていないらしい。紫陽花そのものが日本の固有種であり、それが後年世界に広がっていったということのようだ。その日本で記録に登場する古いものが、おそらく「万葉集」の歌の中にあると言われている。一つは橘諸兄が歌ったもので、万葉集においてはいわゆる万葉仮名と言う表音文字としての漢字が当てはめられており、そこから紫陽花の意味を汲み取ることはできない。今現在では紫という文字が使われているが、これも諸説あるものの、おそらく藍色が多く集まったものとして、この文字が当てはめられているのではないかと考えられているようだ。

    
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建仁寺塔頭 両足院    京都市東山区     2022.6.10

2022-06-21 23:01:09 | 撮影
 

 建仁寺は四条通りと五条通りの中間、また東大路通と鴨川のあいだにある。住宅や商店その他が密集する中に、広大な敷地を持つ大寺院だ。臨済宗の禅寺であり、鎌倉幕府が誕生してまもなく2代将軍源頼家が援助し、栄西によって創建された。当時は現在よりもさらに広大な境内を持つ巨大寺院で、50余りの塔頭寺院を有していた。創建された年が建仁2年であったところから、その年号をとって建仁寺とされた。俵屋宗達の風神雷神図はあまりにも有名。

     

 現在では塔頭寺院の数は大きく減っているが、両足院はその塔頭の一つである。元は鎌倉時代に創建された知足院があり、その別院として創建されることになった。
 本尊は鎌倉時代作の阿弥陀如来立像。文化財指定は受けていない。また境内の毘沙門天堂には毘沙門天像が安置されている。これは黒田官兵衛の息子である黒田長政が関ヶ原の戦いで身につけていたものとされており、開運勝利のご利益があるとされている。

     

 この日はたまたま特別公開の期間であり、内部に入ることができた。塔頭寺院というのは大概が外からはよく分からないが、内部に入ってみると予想以上に広大な敷地を持ち、本堂や方丈だけではなく、見事な庭園を有するところが多い。この両足院も順路に従って方丈や書院などの建物を順に巡っていく。目の前には見事な庭園が広がり、これは「半夏生(はんげしょう)の庭」として知られている。途中で庭園に降りることができて、やはり道に沿って回遊することができる。撮影する上では建物内からの撮影だけでなく、庭園から建物を撮影といったふうに、様々な構図を楽しむことができる。この庭園は京都市の名勝庭園に指定されている。

 また両足院は、かつて中国から日本へ帰化した僧が、日本に初めて饅頭を伝えたところとしても有名だ。寺には京都市指定・登録文化財の「饅頭屋町文書」があって、貴重な資料として知られる。

    
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醍醐寺・報恩院  京都市伏見区     2022.6.8

2022-06-19 22:39:23 | 撮影
 

 醍醐寺の大型駐車場に入ると、すぐ前にひっそりと佇むようにして報恩院がある。長い塀に沿って表門があるだけで、それ以外特に目立ったものもなく、醍醐寺境内が重要文化財である立て札があるだけでほとんど目立たない。もちろん訪れる人のほとんどは醍醐寺や三宝院に行ってしまう。
 私も醍醐寺へは何度も来ておりこの駐車場に入るが、報恩院にはその前を通ることはあっても、内部に入ったことがなかった。この日も数は少ないものの観光客が来ており、報恩院には誰もいない。とりあえずこのお寺を目的にやってきたので、入ろうとすると後ろから若者が一眼カメラを持って続いて入ってきた。珍しいこともあるものだ。



 報恩院は醍醐寺の塔頭寺院にあたり、同時に醍醐五門跡の一院となる。門跡寺院というのは京都市内にも数多くあるが、天皇家との関わりの深い寺院であり、一般の寺院よりも格式が高いとされる。表門や建物には菊御紋が添えられ、はっきりとそうであることがわかる。醍醐寺には三宝院や理性院など、こちらを含めて五箇所の門跡寺院があり、そのぶん醍醐寺全体が格式の高い寺院であることを示している。外壁には白い筋が見られ、この本数が多いほど更に格式が高いとされ、報恩院には5本あるのは最高位とされる。

  

 元々は上醍醐にあった建物が鎌倉中期に報恩院として創建され、移転もして今現在に至っている。境内は結構広いがほとんどが緑に覆われており、これといった建物は本堂だけと言った感じだ。あと社務所らしき建物があった。その境内も庭園としてきれいに整備されてるような様子はなく、たまたまこの日は住職さんが太鼓を打ち鳴らしながら、大きな声でお経をあげていた。内部は暗く写真を撮ったが、何が写っているのか全くわからなかった。編集ソフトで画像を明るくすると、住職さんの前には大きな不動明王らしき仏像が見えてきた。おそらく毎日毎日ここで決まった時間にお経をあげているのだろうと思う。
 ほぼ一緒に境内に入った若者は、熱心にお経をあげる住職さんを見つめていた。

 なお、表門と本堂は京都府の暫定登録文化財に指定されている。


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