切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大枝神社~関ノ明神社 京都市西京区・・・こんな神社もあるのか

2020-01-12 22:57:24 | 撮影


大枝神社



『大枝神社
康保四年(九六七)施行の『延喜式』には神社の名前として「乙訓郡大井神社」と記載されている。現在の氏神は高美計神である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている。しかし、はじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたところから千児明神と称していた。現在、児子神社はこれより東方、大枝塚原町の地にある。
 境内には享保八年(一七二三)と記された石燈篭があり、江戸時代にはさかえた様がうかがわれる。神紋は二葉葵である。
 明治六年(一八七三)村社に公定される。現在、沓掛町の氏神として人びとに親しまれている。
 境内地二反四畝十六歩(七三六坪 約二四三三平米)
 大礼祭は五月二十一日(近年は二十一日の直前日曜日)
   大枝神社奉賛会』
    (駒札より)



 西京区の大枝神社に行く。
 国道9号線と京都縦貫道が重なる沓掛インターのそばにある。9号線から山麓を石段で上り、ちょっとした森に囲まれた狭い境内の神社だ。神社の由緒については駒札の通り。
 しかしこれだけではこの神社の創健等についてはわからない。延喜式神名帳の「乙訓郡大井神社」という名前で、ここが比定されているとのことだが、元々祀られていたという今となってはその存在が疑問となっている聖徳太子の幼少時の名前にちなんで、千児明神と称していたと言う。今はこの祭神はこの地から少し離れた児子神社の方にあるとのこと。
 この辺一帯は古くから、大枝氏という豪族が住みつき開発してきた。今現在でも地名として大枝の名前は近辺に残っている。その大枝のもとをたどると、渡来系ではないかという説もあるらしいが、ともかくこの周囲は小さな古墳が集積している場所で、これらの古墳も大枝氏の有力者たちのものではないかとも思われる。
 この大枝という名前は桓武天皇から詔勅によって与えられたものだと言われているが、これに関わる確たる証拠というものはないようだ。そういった意味からもこの神社が式内社と言えるかどうかは、今現在では疑問とされている。
 当初の名前の「大井神社」そのものは現在、嵐山の天龍寺近くに小さな本殿を構えており、そこの駒札には「式内」と記されている。今ではそちら側も含め、式内社に該当するものかどうか、というのはよく分かっていない。
 神社そのものは、やや長めの参道を 少し登ると、拝殿・本殿が見えてくる。周囲は山麓で高い樹木に覆われていかにも神社らしい雰囲気。付近の人たちの信仰の対象となっているようで、この日も一人の女性が長々と参拝しておられた。境内も決して広くはなく少しだけ高台にあって眺める景色はなかなかいい。本殿も赤く塗られていて相応の歴史も感じさせる。石灯籠などもそこそこ風化していた。最初の石造鳥居はかなり新しいものだが、いずれにせよ神社そのものの本殿などは後に再建されているものだろうし、古代からあったものなのかどうかというのもよくわからないままだ。
 しかも名称についてもよく似た名前の神社が近くに存在していたり、あるいは神社の名前に直結する地名が全くないところもあったりして、平安時代の延喜式神明帳が正確な記録だということを前提にすると、その後約1000年の時を経て、様々な戦乱や災害などがあり神社の場所も変わり、再建されたり様々な変遷を経ているので、確実なことが言えないというのが実際のところだ。
        


関ノ明神社


 
 大井神社から少し西側へ走るとすぐに関ノ明神社がある。
 国道9号線に沿って旧山陰街道が走るが、その脇道にある。幅の狭い崩れかけた石段が山沿いに沿って築かれており、見上げると小さな祠らしきものが見える。慎重に石段を上っていく。足を踏み外すとヘタをすれば頭を打って大変なことになるだろうし、軽い怪我で済んでもカメラは多分破損するだろう。高さ約5mぐらいのところまで登って、極めて小さな境内と、これまた小さな本殿と言うか、祠が建っている。周りに石造物らしきものがあるが用途は分からない。写真も数枚撮ればそれで終わりと言った感じだ。
 関ノ明神というのは、関の近辺に存在する守り神みたいなもので、特に古代神話に出てくるようなものではない。幕府によって五街道が整備される中で、いわゆる「関」が各地に設けられた。この関所で旅の人々や物資の流通などを調べ管理していたところだ。
 ここにはその関所があった名残として、今は神社が残されている。神社の名前もそこからきているものだこういう。場所が神社として今も残っているケースというのは、全国的にもかなり珍しい方になるだろう。元々はこの辺り一帯が天龍寺の御領地であり、この関を通過する荷物などに税をかけて、天龍寺は多額の収益を得ていたと言う。今で言うところの通行税ということになるが、ある意味理不尽なものだ。今では交通機関などに輸送の税がかけられるが、まぁそんなようなものだろう。
 このような神社については何の資料もないかと思っていたが、やはり珍しいものだということで、案外ネット上に資料が見られた。もちろんよほどのマニアでなければこういったところを訪れることはないだろう。一応町内会の方で大事に管理はされていると思う。
  
コメント
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