大将軍神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/4d/8d5d92df3cc9bdc49f5463eb738c0bcf.jpg)
『大将軍神社
大将軍神社は、西賀茂の産土神で、主祭神磐長姫命(いわながひめのみこと)ほか 4柱をまつる。創建・由緒についてははっきりしないが、 平安時代には、官衙の瓦を焼いた西賀茂瓦屋がこの近くに あり、当神社は、その鎮守の社であったともいわれる。
現在の本殿は、天正19年(1591)に造営された上賀茂神社の摂社片岡神社本殿を、寛永5年(1628)から同13年の間に移 建したものである。また、現在当社に伝わる釣燈籠の一つに、「賀茂片岡社御金燈籠 天正拾九年六月ロロ」の刻銘がみられ、釣燈籠も片岡神社から譲り受けたことがわかる。 建物は、大型の一間社流造で、装飾的要素がほとんどなく、 賀茂社系統の本殿の特色をよく残している。更に、一部に 後補材がみられるものの、上賀茂・下賀茂社関係の社殿の なかで現存最古のものと考えられる貴重な遺構であり、昭 和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
また、境内には本殿をはじめ珍しい形式の割拝殿や摂社 ・末社等が建ち、そのまわりを樹木がとり囲んで鎮守の森としての景観をよくと どめており、当社の境 内は、昭和60年6月 1日、京都市文化財環 境保全地区に指定され た。』
(説明書きより)
『大将軍神社の由緒
大将軍神社は推古天皇十七年(約千三百星前)此の西賀茂にあった瓦窯で働いていた。 令の瓦屋守の鎮守様として建立されたと伝えられ、桓武天皇平安遷都(約千二百年前)にさ いして皇都の四囲に大将軍神社を祀られて 当神社を北方の守護神とされたと伝えられております。其の後今日まで此の土地の氏神様として鎮座されている。非常に古く由緒ある神社です。御祭神は主祭神としての磐長姫命(イワナガヒメノミコト)でご家族五柱の神がお祀りしてあります。寿命長寿の神であり方除けの神様です。(以下略)』
(説明書きより)
『大将軍神社本殿( たいしょうぐんじんじゃほんでん)
一間社流造・こけら葺。天正19年(1591)造営の上賀茂神社摂社片岡神社本殿を寛永年間(1624-1644)に移建したもので,上賀茂・下賀茂社関係の社殿では現存最古とみられる。境内は鎮守の森の景観をよくとどめており京都市文化財環境保全地区に指定されている。』
(京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課 資料より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/78/aa37fe8d9803e785869f46cfe0ef24c3.jpg)
北区西賀茂にある大将軍神社。
上賀茂神社からちょうど西へ約1km のところにある。境内全体は思いのほか狭く決して大きな神社とは言えない。ただ境内の中の各建物は一般の神社と比べて何かちょっと違う雰囲気がある。神社の由来等については上の説明書きの通りだ。
創建等についてはよく分かっていないが、一説によると推古天皇の時代と言われる。推古天皇は記紀によれば第33代目の天皇であり、最初の女帝ということになっている。
記紀の内容についてはこの推古天皇の時代で終わりとなっており、この辺りは概ね史実を反映したいわば実際の歴史が記されているものだと考えられている。推古天皇によって登用されたのが今まで聖徳太子と言われていた「厩戸王」だ。この聖徳太子についての実在性については様々な説があって、実在した、いや架空の人物に与えられた名前だ、などいろいろあるようだ。しかし推古天皇自体は実在したのではないかというのが有力な説だということであれば、西暦600年代という話になり、謂わば大化の改新の前あたりとなる。であるならば相当な歴史があって、実際には平安遷都の際に厩戸王によって京都を守るために4箇所に大将軍神社が設けられたと言う。
実際には平城京の次の都として造営が進んでいたのは長岡京であったが、藤原種継の暗殺事件により長岡京の内部で様々な天変地異や災禍が起こり、また種継の怨霊が夜な夜な現れては人々を苦しめると言う噂が広まり、その結果わずか10年で長岡京は放棄される。そして平安京の造営となるのだが、この際長岡京での教訓をもとにして怨霊封じのために、つまり新しい京都を守るためにこの大将軍神社というのが京都の四隅に設けられたということだ。
大将軍という名が付いているので、多くの人は武士の時代になり鎌倉幕府の将軍などと混同するケースがあるようだが、ここでいう将軍というのはそのことではない。
大将軍とは元々中国で称えられていた厄除け等が日本に取り入れられ、陰陽道において方位による吉凶を占う八将軍の内の一つと言われている。別名魔王天皇とも称される。このブログの前回で稲住神社を取り上げた際に、この陰陽道の話が出てきており、その神社の提灯に「大魔王」とあったが、そのことと直結しているんだろうと思う。
陰陽道の話については色々と調べてみたら非常にややこしくて、このブログの場でまとめて述べるようなことはとてもできない。後年の安倍晴明の話ともつながり当ブログにおける晴明神社の所でも少し触れているだけだ。興味のある人はぜひ自分で本を読んで深めてもらえればと思う。
祭神は石長比売という女性であり、記紀に登場する神話上の人物だ。後は上記の説明書きで大まかな大将軍神社のことを知っていただきたい。
平安遷都の際に京都のを守るために4箇所設けられたという大将軍神社の内、今現在ではこの西賀茂にある神社と東山区三条にある大将軍神社が有名だ。そしてもう一つこの近くにある大将軍八神社がよく知られている。もう一箇所はどこか、ちょっと調べてみたがよくわからなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/3c/8ed96a0566c98b1420941bec185ce71a.jpg)
大将軍八神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/af/052d870cf3c4af8855259f48c878d254.jpg)
『大将軍八神社
当社は、平安建都の際に都城の方除守護神と して大内裏の北西角(天門)の地に造営されたのが 始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戶時代初期になって大将軍社と改められ、更に大 将軍八神社となって現在に至っている。
大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、 方位をつかさどる神である。このため、建築・ 移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神と して世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も 当社を厚遇したといわれる。
当社には、平安時代中期から鎌倉期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製された「神像」百余 体が所蔵されている。 このうち、武装像、束帯 像、童子像合わせて八十体が昭和四七年(一九七 二)に重要文化財に指定された。いずれの像も、 独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深 い。 また、陰陽道に基づく古天文暦道資料(府 指定文化財)も蔵されている。
京都市』 (駒札より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/04/8b1786b8d020b15e4bd6a5f77bdb8c20.jpg)
続いて大将軍八神社。
先ほどの大将軍神社からはずっと南の方へ下り北野天満宮の向かい側にある。境内そのものは比較的狭い方になる。境内に入った途端、妙な雰囲気が感じられる。一般的な神社とはずいぶん様子がやはり違う。
上記の駒札のとおりだが、その内容は大将軍神社の場合と同様と思ってもらっていい。ただこちらは途中、少しいろんな変遷を経ている。
それにしても境内には他の神社では絶対に見られないような妙な構造物が立っている。五芒星の描かれた八角錐の構造物で、それぞれの方位を表しているようだ。安倍晴明を祀る晴明神社を思い出した。
しかしこの神社は貴重な文化財を有しており、普段は非公開だが公開されることがあるということで、その時には是非見てみてみたいものだと思う。
稲住神社の項でも触れたように、陰陽道における方位の神、そして天文学から暦と言った一見科学的な 観測と実証を研究しているように見えながら、同時にその組み合わせの中から吉凶を占い、時の権力者による政策のあり方などを方向付けていた力を持っていたようで、そういった意味では非科学的でもある。しかし実際にこれらの研究というのは、日本における天文観測の実績にもなっており、また日本独自の暦が作られる元にもなっている。そういうことを考えながら、この大将軍神社というものを巡っていると不思議な思いに駆られるようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/7d/7d2d04c2a3acca4d66bba2a9128344cf.jpg)
成願寺・長法寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/d4/31bcfa8dccbe627e52a6b9972141c288.jpg)
『長宝 寺 (長宝堂)
長宝寺 は、 北野天満宮「西京七保 」御供所の三ノ保社で 、野見宿祢 (菅原道真の祖先) を祀っていた。本尊は菅公の作と云われる梅樹の十一面観世音菩薩。
廃寺により明治二年に此所に遷座。』
(説明書きより)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/cf/fa33b5aad3e8188adbbce680061851a7.jpg)
最後に成願寺に寄る。大将軍八神社の 向かい側にある。
説明書きは長宝寺のものだが、成願寺の境内にかつての長宝寺の堂が存在しているのでこの説明書きがあるのだろう。
駐車場も備えた比較的広い敷地を持つ静かなお寺。 入ってすぐに目立つのが本堂よりも前に、古いお墓の密集地域。 周囲は新しい墓石が並んでいるが、内部はその風化具合からおそらく江戸時代のものだろうと思われる。真ん中に石地蔵みたいなものが立っていた。 本堂も比較的大きくて立派なもので境内もよくきれいに整備されている。 山門を入ったすぐ脇にお堂があって、ガラス越しに 仏像らしきものが見える 。本尊かもしれないがよくわからない。
成願寺時自体の駒札等はなかったので、帰宅後色々調べてみた。資料は少なかったが創建は戦国時代の終わり頃。したがって比較的新しいお寺となる。本尊は阿弥陀如来で、これが何と平安時代作と言う。であるならば当然のごとく、国の重要文化財であってもおかしくはないが、指定はないらしい。保存状態が悪いのか、あるいは寺側が指定を拒否しているのか。せっかくだからここも公開日があれば是非拝観したいと思っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/a7/33e2387048f37f1864b7c3f7b78e349b.jpg)
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『大将軍神社
大将軍神社は、西賀茂の産土神で、主祭神磐長姫命(いわながひめのみこと)ほか 4柱をまつる。創建・由緒についてははっきりしないが、 平安時代には、官衙の瓦を焼いた西賀茂瓦屋がこの近くに あり、当神社は、その鎮守の社であったともいわれる。
現在の本殿は、天正19年(1591)に造営された上賀茂神社の摂社片岡神社本殿を、寛永5年(1628)から同13年の間に移 建したものである。また、現在当社に伝わる釣燈籠の一つに、「賀茂片岡社御金燈籠 天正拾九年六月ロロ」の刻銘がみられ、釣燈籠も片岡神社から譲り受けたことがわかる。 建物は、大型の一間社流造で、装飾的要素がほとんどなく、 賀茂社系統の本殿の特色をよく残している。更に、一部に 後補材がみられるものの、上賀茂・下賀茂社関係の社殿の なかで現存最古のものと考えられる貴重な遺構であり、昭 和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
また、境内には本殿をはじめ珍しい形式の割拝殿や摂社 ・末社等が建ち、そのまわりを樹木がとり囲んで鎮守の森としての景観をよくと どめており、当社の境 内は、昭和60年6月 1日、京都市文化財環 境保全地区に指定され た。』
(説明書きより)
『大将軍神社の由緒
大将軍神社は推古天皇十七年(約千三百星前)此の西賀茂にあった瓦窯で働いていた。 令の瓦屋守の鎮守様として建立されたと伝えられ、桓武天皇平安遷都(約千二百年前)にさ いして皇都の四囲に大将軍神社を祀られて 当神社を北方の守護神とされたと伝えられております。其の後今日まで此の土地の氏神様として鎮座されている。非常に古く由緒ある神社です。御祭神は主祭神としての磐長姫命(イワナガヒメノミコト)でご家族五柱の神がお祀りしてあります。寿命長寿の神であり方除けの神様です。(以下略)』
(説明書きより)
『大将軍神社本殿( たいしょうぐんじんじゃほんでん)
一間社流造・こけら葺。天正19年(1591)造営の上賀茂神社摂社片岡神社本殿を寛永年間(1624-1644)に移建したもので,上賀茂・下賀茂社関係の社殿では現存最古とみられる。境内は鎮守の森の景観をよくとどめており京都市文化財環境保全地区に指定されている。』
(京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課 資料より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/78/aa37fe8d9803e785869f46cfe0ef24c3.jpg)
北区西賀茂にある大将軍神社。
上賀茂神社からちょうど西へ約1km のところにある。境内全体は思いのほか狭く決して大きな神社とは言えない。ただ境内の中の各建物は一般の神社と比べて何かちょっと違う雰囲気がある。神社の由来等については上の説明書きの通りだ。
創建等についてはよく分かっていないが、一説によると推古天皇の時代と言われる。推古天皇は記紀によれば第33代目の天皇であり、最初の女帝ということになっている。
記紀の内容についてはこの推古天皇の時代で終わりとなっており、この辺りは概ね史実を反映したいわば実際の歴史が記されているものだと考えられている。推古天皇によって登用されたのが今まで聖徳太子と言われていた「厩戸王」だ。この聖徳太子についての実在性については様々な説があって、実在した、いや架空の人物に与えられた名前だ、などいろいろあるようだ。しかし推古天皇自体は実在したのではないかというのが有力な説だということであれば、西暦600年代という話になり、謂わば大化の改新の前あたりとなる。であるならば相当な歴史があって、実際には平安遷都の際に厩戸王によって京都を守るために4箇所に大将軍神社が設けられたと言う。
実際には平城京の次の都として造営が進んでいたのは長岡京であったが、藤原種継の暗殺事件により長岡京の内部で様々な天変地異や災禍が起こり、また種継の怨霊が夜な夜な現れては人々を苦しめると言う噂が広まり、その結果わずか10年で長岡京は放棄される。そして平安京の造営となるのだが、この際長岡京での教訓をもとにして怨霊封じのために、つまり新しい京都を守るためにこの大将軍神社というのが京都の四隅に設けられたということだ。
大将軍という名が付いているので、多くの人は武士の時代になり鎌倉幕府の将軍などと混同するケースがあるようだが、ここでいう将軍というのはそのことではない。
大将軍とは元々中国で称えられていた厄除け等が日本に取り入れられ、陰陽道において方位による吉凶を占う八将軍の内の一つと言われている。別名魔王天皇とも称される。このブログの前回で稲住神社を取り上げた際に、この陰陽道の話が出てきており、その神社の提灯に「大魔王」とあったが、そのことと直結しているんだろうと思う。
陰陽道の話については色々と調べてみたら非常にややこしくて、このブログの場でまとめて述べるようなことはとてもできない。後年の安倍晴明の話ともつながり当ブログにおける晴明神社の所でも少し触れているだけだ。興味のある人はぜひ自分で本を読んで深めてもらえればと思う。
祭神は石長比売という女性であり、記紀に登場する神話上の人物だ。後は上記の説明書きで大まかな大将軍神社のことを知っていただきたい。
平安遷都の際に京都のを守るために4箇所設けられたという大将軍神社の内、今現在ではこの西賀茂にある神社と東山区三条にある大将軍神社が有名だ。そしてもう一つこの近くにある大将軍八神社がよく知られている。もう一箇所はどこか、ちょっと調べてみたがよくわからなかった。
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大将軍八神社
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『大将軍八神社
当社は、平安建都の際に都城の方除守護神と して大内裏の北西角(天門)の地に造営されたのが 始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戶時代初期になって大将軍社と改められ、更に大 将軍八神社となって現在に至っている。
大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、 方位をつかさどる神である。このため、建築・ 移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神と して世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も 当社を厚遇したといわれる。
当社には、平安時代中期から鎌倉期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製された「神像」百余 体が所蔵されている。 このうち、武装像、束帯 像、童子像合わせて八十体が昭和四七年(一九七 二)に重要文化財に指定された。いずれの像も、 独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深 い。 また、陰陽道に基づく古天文暦道資料(府 指定文化財)も蔵されている。
京都市』 (駒札より)
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続いて大将軍八神社。
先ほどの大将軍神社からはずっと南の方へ下り北野天満宮の向かい側にある。境内そのものは比較的狭い方になる。境内に入った途端、妙な雰囲気が感じられる。一般的な神社とはずいぶん様子がやはり違う。
上記の駒札のとおりだが、その内容は大将軍神社の場合と同様と思ってもらっていい。ただこちらは途中、少しいろんな変遷を経ている。
それにしても境内には他の神社では絶対に見られないような妙な構造物が立っている。五芒星の描かれた八角錐の構造物で、それぞれの方位を表しているようだ。安倍晴明を祀る晴明神社を思い出した。
しかしこの神社は貴重な文化財を有しており、普段は非公開だが公開されることがあるということで、その時には是非見てみてみたいものだと思う。
稲住神社の項でも触れたように、陰陽道における方位の神、そして天文学から暦と言った一見科学的な 観測と実証を研究しているように見えながら、同時にその組み合わせの中から吉凶を占い、時の権力者による政策のあり方などを方向付けていた力を持っていたようで、そういった意味では非科学的でもある。しかし実際にこれらの研究というのは、日本における天文観測の実績にもなっており、また日本独自の暦が作られる元にもなっている。そういうことを考えながら、この大将軍神社というものを巡っていると不思議な思いに駆られるようだ。
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成願寺・長法寺
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『長宝 寺 (長宝堂)
長宝寺 は、 北野天満宮「西京七保 」御供所の三ノ保社で 、野見宿祢 (菅原道真の祖先) を祀っていた。本尊は菅公の作と云われる梅樹の十一面観世音菩薩。
廃寺により明治二年に此所に遷座。』
(説明書きより)
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最後に成願寺に寄る。大将軍八神社の 向かい側にある。
説明書きは長宝寺のものだが、成願寺の境内にかつての長宝寺の堂が存在しているのでこの説明書きがあるのだろう。
駐車場も備えた比較的広い敷地を持つ静かなお寺。 入ってすぐに目立つのが本堂よりも前に、古いお墓の密集地域。 周囲は新しい墓石が並んでいるが、内部はその風化具合からおそらく江戸時代のものだろうと思われる。真ん中に石地蔵みたいなものが立っていた。 本堂も比較的大きくて立派なもので境内もよくきれいに整備されている。 山門を入ったすぐ脇にお堂があって、ガラス越しに 仏像らしきものが見える 。本尊かもしれないがよくわからない。
成願寺時自体の駒札等はなかったので、帰宅後色々調べてみた。資料は少なかったが創建は戦国時代の終わり頃。したがって比較的新しいお寺となる。本尊は阿弥陀如来で、これが何と平安時代作と言う。であるならば当然のごとく、国の重要文化財であってもおかしくはないが、指定はないらしい。保存状態が悪いのか、あるいは寺側が指定を拒否しているのか。せっかくだからここも公開日があれば是非拝観したいと思っている。
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