切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

羽束師坐高御産日神社・・・古墳時代から?!   京都市伏見区  2024.6.11 訪問

2024-07-07 22:58:31 | 撮影


『京都市史跡
羽束師坐高御産日神社境内


 本神社は、高御産日神と神御産日神の二神を祭神とし、桂川右岸の旧乙訓郡に所在する古社で、平野部にあって島状の微高地に位置している。社地は「羽束師の杜」とも呼ばれ、もとは大きな森であったと思われる。神明造の本殿と、入母屋造の拝殿は嘉永三年(一八五〇)の再建になる。『続日本紀』大宝元年(七〇一)にその名がみえることから、大宝元年以前には奉斎されていたことがわかり、『 延喜式』では大社に列している。本殿の左右には大同三年(八〇八)に勧請したと伝わる末社十一社が祀られている。
 本神社は、市内でも最古級の神社として、また桂川流域の歴史を考えるうえで重要である。近年急速な都市化により激変している周辺環境にあって、本神社とその森は貴重であることから、平成八年(一九九六)四月一日付けで京都市史跡に指定されている。
 京都市』
   (駒札より)



『羽束師坐高御産日神社

御祭神
高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)
神皇産霊神(カミムスヒノカミ)

御鎮座
当神社は雄略天皇二十一年(四七七)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神二柱を奉斎しています。皇産霊を「ミムスヒ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長する力を「ヒ=霊力」と言います。

生産の神
又、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神離)に縁の深い御名で明ら かに田の神の降臨をあおぐ祭に関わりのある農耕神の信仰をになう天つ神であります。

ムスビ信仰
隨って五穀豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスビ信仰が育まれ、特に収穫時に新穀を神と共に新嘗(ニイナメ)する農耕行事は最も重要な祭儀として、高皇産霊神、神皇産霊神が祀られてきた。

新嘗祭
この行事は弥生時代から現在まで時代の変遷を超え種々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今猶生活の中に伝承されています。続日本紀大宝元年(七〇一)四月 三日の条に「勅して山背国波都賀志の神等の神稲は自今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。

十一社
本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。大同三年(八〇八)に斎部廣成公が諸国騒擾の多き様を憂い安穏を祈願する為、平城天皇の奏聞を得て勧請造営された御社です。
延喜の制では(九六七)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭は祈雨神に座して天下豊年の御加護を垂れ給いま した。

北向見媽天満宮
延喜元年(九〇一)右大臣菅原道真公、筑紫へ左遷の砌当社に参詣「君臣再び縁を結び給へ」とご祈念の上  捨てられて 思ふおもひのしげるおや
   身をはづかしの社といふらん の歌をご詠進になり下向されました。菅公の御徳を慕い一の鳥居の鳥居の東縁の地に社を営み北向見返天満宮が奉斎されました。

羽束師の杜
境内は古来羽束師の社と称せられ古歌謠曲等に詠われてきました。山城国中、名だたる社叢の一つとして四季折々の風情を今に伝え京都市の史跡に指定されています。

羽束師祭
每年五月第一日曜日の御出に始まり同第二日曜の還幸祭には氏子区内古川町、菱川町、志水町、樋爪町を大神輿が青年会の人等によって担がれ巡幸します。併せて子供神輿も境内を練り歩き大変賑わいます。
  羽束師の杜』  (説明板より)

 
 
 羽束師坐高御産日神社は、伏見区の運転免許試験場の北側に位置する。近くには別の神社もありこの通称羽束師神社を見過ごしてしまうこともあるかもしれない。上記の説明板には六国史の「続日本紀」に記録があり、そこには大宝元年 701年に羽束師地域の稲の奉納に関する記録がある。創建については従って これ以前となると思われ、社伝によると5世紀の古墳時代の創建ではないかと伝えられている。そういった点では京都の中でも最古級の神社となる。平安時代に作成された「延喜式人名帳」にも掲載されており、明神大社の扱いとなる。 平安時代には藤原氏が再興に関わったりしており、以降長岡京遷都の際には宮中の神の一つとして、桓武天皇から勧請 されたと伝わっている。

   

 この地域は桂川や鴨川が合流する地点でもあり、水運物流が盛んであると同時に、周辺の土地も水に恵まれた肥沃な土壌が豊富で、ここで収穫された米や野菜などは宮中の方に収められたという。しかし同時に水害もたびたび発生し、その度に再建が行われている。いつしかそのことから水難から土地や人々を守るという信仰も、当然のように湧き上がってきた。もちろん朝廷の方も水難防護やまた同時に雨乞いの神としても信仰するようになったという。
 今現在の本殿などは江戸時代後期に再建されたものだ。従って建物などの文化財指定はないが、この神社の地域一帯が京都市の指定史跡となっている。

  

(参考資料)
『歴史・由緒等
延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社 大 月次新嘗』とある式内社で、乙訓国の筆頭に記されている。
社名は“ハツカシニマス タカミムスヒ”と訓み、古くは、波都賀志社・羽束社・羽束師社・羽束石社・羽束志宮などとも記されていた。
当社の御鎮座は、雄略天皇二十一年丁己(四七七)です。「続日本紀」大宝元年(七〇一)四月三日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(八五九)九月八日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。
近年当社西方の長岡京四条四坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いことです。 この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と称し開けてきた土地です。
因に、日本書紀垂仁天皇三十九年「冬十月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とものみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。
何れにしても、「はつかし」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗もあった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます。 平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天下豊平の加護を垂れ給うたのです。 中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中の「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という記事からも推察できます。 「大乗院寺社雑事記」文明十四年(一四八二)九月一日条に「八月二十七日二十八日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職となって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。
「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年』

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