玄武神社
『玄武神社(げんぶじんじゃ)
祭神として、文徳天皇の皇子である惟喬親王を祀り、別名惟喬社とも呼ばれている。
社名の玄武とは、青竜(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)とともに王城を守る四神の一つで、平安京の北面の守護神として名付けられた。亀に蛇が巻き付いた形で描かれる事が多い。
当社の起こりは、親王の末裔で当時この地に住んでいた星野茂光が、元慶年間(八七七~八八五)に、親王の御霊を慰め、また王城北面に鎮護を願って、親王の外祖父に当たる紀名虎が所蔵していた親王寵愛の剣を祀ったことに始まると伝えられている。
毎年四月の第二日曜日には、「玄武やすらい花」(国の重要無形民族文化財)が行われる。この民族芸能は平安時代の花の精の力による疫神封じ(花鎮め)に由来し、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦や太鼓の囃しにあわせて鬼や小鬼が町を踊り歩く。京都の奇祭の一つとして知られている。
京都市』 (駒札より)
北区の紫野にある。
玄武神社の創建そのものは詳しいことは分かっていないようだが、平安時代であることは間違いないようだ。経緯については上記駒札の内容の通り。
堀川通から住宅街に入った少しややこしい路地の中に突然現れる。全体的には境内から鳥居など、かなり新しいように見える。しかし正面に構える拝殿及び本殿は飾り付けもしっかりなされ、なかなかの風格を感じさせる。この地域の人々によって大事にされていることが非常によくわかる。そのまま見過ごすとなんでもないような神社に思ってしまうが、実は千年以上にも及ぶ長い歴史を持ち、さらにこの神社で行われる「玄武やすらい祭」と言う催事が国の重要無形民俗文化財に指定されている。
平安時代は貴族が惰眠を貪った時代であり、この紫野地域というのは当時、そういった貴族たちの狩猟の場であったようだ。一面野原が広がり、一部耕作地があって農家が点在するような場所だったと言う。そんな中で貴族たちの遊び場として利用されていたところだ。
そのような中で、貴族たちによって笛や太鼓、囃子などを交え、村の中を踊り歩くような催事が始まった。それが今現在まで続いており、平安時代あるいはそれ以降の、芸能事の様子を今に伝えるものとして、非常に貴重なものとして捉えられており、無形文化財に指定されているわけだ。
こういったことを知ると、何でもないような神社ではあるものの、深い大きな謂れがある貴重な神社であるということがよくわかる。そういった意味では神社でもお寺でもそうだが、ただ単に境内や建物といった点だけで見るのではなく、それぞれにまつわる催事というものの大切さというものも見るべきだろう。
義照稲荷神社
『義照稲荷神社
元明天皇和銅二年秦氏が穀物織物の神とてお祭り申し上げたのがその起源である
御祭神は左の三柱の大神にまします
宇迦御霊大神 衣食の神 商工祭の守護神
國床立大神 住居安泰 病魔退散の神
猿田彦大神 迷いを正す交通安全厄除けの神稲荷命婦元宮命婦元官には伏見稲荷大社命婦社の親神 「船岡山の霊狐」が祀られている
この番属の神通力により稲荷大神のご霊験は愈愈深く不思議な御方をお授けになる』
(駒札より)
義照稲荷神社は船岡山の建勲神社の隅にある境内末社だ。
健勲神社への入り口の鳥居は各所にあるが、そのうち最も東側の石段を登るとすぐに義照稲荷神社がある。末社といえどもかなりの歴史を持ち、れっきとした独立した一神社としてとても存在感がある。もちろん本殿等の建物はずっと後年の再建となるが、綺麗に整備されており非常に赤が眩しい。少し小高いところにあるので京都市街地方面がよく見える。
駒札によれば和銅2年と言うから、奈良時代前の話だ。飛鳥時代に渡来系の秦氏によって穀物織物の神として祀られたのが創建の由緒だと言う。とすれば狐の稲荷神社という意味では、あの伏見稲荷大社よりも歴史がある日本有数の古い稲荷神社となるのではないだろうか。 そのことから秦氏がすでに稲荷を信仰しており、ここの神社が伏見稲荷の前身にあたるものではないか、という説もあるとのことだ。
秦氏が朝鮮半島からもたらした農耕や機織りの技術といったものが安全に行えるように、その守り神として祠を建てたのが、このような形での信仰の対象になったものだと思われる。そういった意味でも、これはなかなかの重要な位置づけにある神社ということにもなる。
建勲神社
『建勲神社
織田信長を祀る神社で、通称「けんくんじんじゃ」とも呼ばれる。
天下を統一した信長の偉勲を称え、明治二年(一八六九)明治天皇 により創建された。同八年(一八七五)別格官幣社に列せられ、社地を 船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。
船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武に擬され、 造営の基準点にされた所で、本能寺の変(一五八二)の後、豊臣秀吉が 正親町天皇の勅許を受け、主君である信長の廟所と定めている。
信長着用の紺糸威胴丸、桶狭間の合戦の際の義元左文字の 太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財のほか、 信長ゆかりの宝物を多数有する。
十月十九日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄十一年(一五六八) 初めて入洛した日を記念したものである。 京都市』
(駒札より)
『御祭神 織田信長公
織田信長公は戦国の世を統一して民衆を疲 弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、 西洋を動かす力の源を追求して近代の黎明 へと導かれた。その為、信長公は行き詰った 旧来の政治、社会秩序、腐敗した宗教等を果敢 に打破し、日本国民全体の日本を追求された。
明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格 官幣社に列せられ、ここ船岡山に大生の神と して奉斎されている。
末社義照稲荷社 宇迦御霊大神、国床立大神、猿田彦大神の 三柱の大神を祀り、古くより秦氏の守護神と して今日の西陣織の祖神をなしている。
伏見稲荷大社命婦社は船岡山の霊狐を祀っ ており、伏見稲荷の元宮として古来よりの信 仰が絶えません。
船岡山(全山史跡、風致地区)
船岡山は標高四十五米、周囲千三百米、面 積二万五千坪の優美な小山であり、その東南 側は建勲神社境内で特にうっそうとした森に 被われている。豊臣秀吉の頃より信長公の霊 地として自然がそのまま残され、京都盆地特 有の樹相が良く保たれている。樹種が極めて 多く、帰化植物がほとんど入り込んでいない 京都市内で数少ない貴重な森とされている。
船岡山は聖徳太子の文献にもその名が出て おり、又、京都に都が定められた時、北の基 点となり、船岡山の真南が大極殿、朱雀大路 となった。平安期の昔には清少納言が枕草子 で「丘は船岡・・・」と讃え、又、大宮人の清遊 の地として多くの和歌が残されている。
船岡の若菜つみつつ君がため
子の日の松の千代をおくらむ(清原元輔)
戦国時代の応仁の大乱の際、この船岡山が西 軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は西陣 の名で呼ばれている。』
(説明書きより)
建勲神社は北区紫野の船岡山にある。山といっても高さは40数メートル。この小高い山は全体が公園として整備されており、またその多くが建勲神社の境内となっている。同時に史跡としても指定されている。いわば市民にとっても憩いの場ともなっている場所だ。
建勲神社の創建及び由来については上記の駒札や説明書きによってほぼを尽くされている。明治2年の創建と言うからまだ150年ほどしか経っていない。とても新しい神社だ。少し長めの石段を登っていくと程なく境内に達する。広い境内には多くの建物があり、拝殿や本殿等とても立派なもので、格式を感じさせる。大半の建物が登録有形文化財に指定されている。
明治天皇が日本という国が外敵の侵略を受けずに、また戦国時代に国の惨状を終わらせまとめあげ、ここまでやって来られたのも、織田信長の天下統一による功績が大きいとの思いによって創建が決められたと言われている。それだけに他の神社と違って、いわば別格扱いの神社となっているようだ。
とにかく大規模で境内からの眺望もよく、全体が綺麗に整備されている。歴史的な重みという意味ではまだまだ浅いものなので、むしろ上に紹介した末社である義照稲荷神社の方が千数百年の歴史を持つことを考えると、何か妙なギャップのようなものを感じるが、何れこの建勲神社も年を重ねるに従って、大きな意味を持つようになって行くのだろう。