切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2021年 京都の梅 梅宮大社 京都市右京区

2021-02-28 22:25:34 | 撮影
梅宮大社

  

『梅宮大社
 奈良時代の政治家であった橘諸兄の母・縣犬養橘三千代が、橘氏の氏神として現在の綴喜郡 井手町付近に創建したのが始まりといわれる。 平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)によって現在の地に移された。
 酒解神(大山祇神)、大若子神(瓊瓊杵尊)、 小若子神(彦火火出見尊)、酒解子神(木花咲耶姫命)の四座を祭神とする。酒解神の御子・酒解子神は大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから、歓喜して、狭名田の稲をとって天甜酒を造り、これを飲んだという神話から、古くから安産と造酒の神として有名である。
 また、皇子に恵まれなかった檀林皇后が、本殿の横に鎮座する「またげ石」をまたいで子どもを授かったことから、この石をまたげば子宝に恵まれると伝えられ、その下の白砂は安産のお守りとされている。
 現在、本殿、拝殿、弊殿、廻廊、中門などがあるが、これらは元禄十三年(一七〇〇)の再建 によるものである。
 庭園は、杜若や花菖蒲の名所として知られるほか、梅、八重桜、椿、つつじ、あじさいが美しい。
 京都市』  (駒札より)

   

 梅宮大社についてはこのブログでも何度か取り上げている。桜の名所でもあり梅の名所でもある。また紅葉もそこそこ素晴らしい。そういうわけで様々なシーンを意識しながら撮影している。
 私としては既に梅の写真はブログに掲載済みだと思っていたが、意外なことにまだのようだった。ブログ内検索をしても現れないのはやはり、梅のシーンはないんだろう。桜などはあったもののどういう理由なんだろうか。自分でも梅や桜や紅葉の各シーズンがやってくると、それぞれの名所を訪れて色々写真を撮りブログにアップする。ひとつのお寺で、あるいは神社で梅も桜もあるなど、複数撮影できる所も結構多い。そういった点から、意外にもまだブログアップしていなかったといったところも思う以上にあるんだろう。
 梅宮大社の由緒については駒札にあるので、そちらを参照していただければと思う。

          
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大将軍神社 京都府宇治市池尾

2021-02-26 23:25:09 | 撮影



 宇治市内の東部及び北部は山間地帯となる。その間を琵琶湖からの瀬田川、途中で名前が変わり宇治川が流れる。今回訪れたのはその山中にある大将軍神社
 カーナビで指定しようとしたが、神社どころか集落の名前さえ掲載されていない。スマホの地図とカーナビの地図の道路の形状を合わせて、おそらくここであろうと思われる場所にチェックを入れてカーナビの案内スイッチを押す。最も早いのが京滋バイパスを走り、笠取インターチェンジを降りて山の中を南へ、右へ左へと続く道となる。宇治川沿いの大津へ通じる一般道からも入ることができるが、この道がかなりなくねくね道であり、時間がかかる。ここはバイパスを利用することにした。しかしインターを降りても細い道があちこちに伸びており、カーナビでも指示しているのがどの道かよくわからない。結局は迷ってしまった。山の中で舗装されているところ、あるいは地道をあちこち走りながらようやく神社のある集落へ到着。途中、工事中で遠回りさせられたことも含め、ずいぶん時間がかかってしまった。
   
 山間の谷間にある池尾という集落で、一見して戸数20~30戸くらい。奥の方にもう少しあるかもしれないが、人口にしても100人はいないだろうと思われる。この集落に大将軍神社とお寺が一箇所ある。集落の入り口に常夜灯が見えて、これが神社なのだとすぐに分かった。集落の少し広い所に車を置いて、後はかなり雑な石段を登っていく。しっかりと石段を見ていないとすぐつまずく。大きな石がごろごろと地面から突き出しているので、つまずくと間違いなく転倒する。当然カメラのレンズも割れるだろう。慎重に上っていくと対になった灯篭が見えた。やっとの思いで到着だ。
 割拝殿が見える。その間をくぐって境内に出ると真正面に拝殿と本殿が見えた。思っていた以上に立派な造り。境内もそこそこ整理されていて集落内では大切にされているだろうことが分かる。撮影を始め、本殿に参拝をする。本殿そのものは覆い屋に守られているが、大きな隙間があって本殿がよく見える。見た時には暗くてよくわからなかったが、帰宅してから写真を確認して少し明るくすると、本殿そのものはかなり新しいように思えた。境内の石灯籠の中にはかなり風化が進んでいるものもあれば、まだ100年ぐらいしか経っていないであろう灯篭なども見える。由緒書きやその他何もないので全くわからない。扁額には明確に「大将軍神社」と浮き彫りにされている。もともとが山間部のしかも集落の小山の中腹にあるので、周りは高い木々で囲まれている。
 この小さな集落に比較的立派な神社があると言う、妙な先入観で見てしまった。本殿そのものは比較的小ぶりなものだ。長い年月にわたって度々古くなったものを新しく造り直しているんだろう。祭りの日には神輿も出ると言う。
      
 名前の「大将軍神社」については、先日の別の大将軍神社のところで説明した通り。神社の名前としては陰陽道における八将軍のうちの一つである星神大将軍という神様を表し、方除の守護神とされている。平安京を守るために東西南北に大将軍神社が設けられたことはよく知られている。
 この地においてもかつては、物資交流の通過地点であったと思われる。伊勢や伊賀方面から平安京に物資を運ぶ際の通り道になっていたのかもしれない。そういった意味では方角による不吉さを払拭するために設けられた神社とも考えられ、あるいはまた物資を運ぶ旅の安全を祈念する意味もあったのかもしれない。
 祭神は「積羽八重事代主命 (ツムハヤヘ コトシロヌシノミコト)」これは日本神話に登場する神のことで、別名八重言代主神などとも呼ばれる。なぜこの祭神なのかというのはよくわからないが、この神を祭神とする神社を調べてみるとかなり多くが、海や川などの水に関わるような場所にあるようだ。そういった意味ではこの山間部の小さな川が豪雨の時に溢れたりして、災害となるようなことから守ってもらうような意味で、祭神とされたのかもしれない。なおこの石灯籠の中にも「愛宕山」と彫られたものがあり、愛宕信仰の影響が見られる。火伏せの神として信仰され、火事がないように、あるいは火事が起こってもすぐに鎮火できるようにとの願いが込められている。

      
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《民主主義破壊の愚行・・・愛知県知事大村氏へのリコール署名の悪質な組織的犯罪について》

2021-02-24 23:25:30 | 社会
 一昨年愛知県で行われた「愛知トリエンナーレ表現の不自由展・その後」に対する右翼保守派団体からの脅迫活動に対して、一時中断を余儀なくされた出来事について、このブログでも取り上げた。
 このトリエンナーレについては昭和天皇の肖像画に対する問題や韓国慰安婦問題の少女像の展示などをめぐって、上記のように1部右翼系の保守団体から激しい攻撃が行われた。それに同調して名古屋市長の河村氏、大阪府知事の吉村氏、同じく大阪市長の松井氏といった行政の長も加わり、さらに右翼の著名人たちも名を連ねることになった。そしてこれらの動きの中から愛知県知事の大村氏をリコールする動きが起こり、そのための組織が結成された。ここには上記の他府県の行政長だけではなく、学者の武田氏や作家の百田氏、ジャーナリストの有本氏などがともに賛同した。そして具体的に署名活動が始まった。
 これらの中でリーダーとしての役割を果たしていたのが、テレビの CM でよく知られている高須クリニックの高須克弥院長だ。彼自身はこの愛知県出身であり、今は東京や大阪にもクリニックがあるが、中心となるクリニックは名古屋に本部がある。彼自身は以前から極めて保守的な考えの持ち主であり、それを様々なところで明らかにしながら発言をしている。そして今回の愛知トリエンナーレにおいて、彼としては見逃すことのできない展示内容があったということで、このような活動に至ることになったのだろう。

 しかしリーダーである高須氏が体調不良のために、途中で署名活動は中止となった。その時点で集まった署名は40数万。リコールを審議するために最低限必要な署名数は80数万票と言うから、半分も集まらなかったわけだ。
 ところが1部の人の告発?から、署名用紙そのものに問題があることが明らかにされた。署名用紙には実際に肉筆で賛同する本人が署名するわけだが、選管が調べた結果、同一筆跡の署名が大多数見つかり、中には既に死亡している人の名前も大勢見つかる等々して、結果的に約40万票の署名のうち、なんと86%が無効と判断されたのだ。つまり9割近くが偽造された署名と言うことになったのだ。これは一体何を意味するものなのか。実際には大村知事のリコール署名活動は、地元の名古屋市や愛知県下ではほとんど盛り上がっていなかったと言う。1部の保守系のグループが県庁前で抗議の声をあげたりしていたものの、大きな広がりは全くなかったと言う状態だった。
 さて、これらのリコール運動の中心にいた高須克也氏だが、彼は日本の美容外科の開拓者として知られており、国内のみならず外国においてもかなり名を知られている。当初は美容外科ではなかったらしいが、途中から美容外科に転じたようだ。美容外科と言うのは基本的には保険の効かない医療行為となり、手術料は病院側の言い値で決まる。つまり高額であろうが低額であろうが、病院の手加減1つで決まるのだ。だから基本的には儲かる分野なのだ。彼の高須クリニックのテレビCMを見ていれば、プライベートジェットやヘリコプターやその他豪華なものを使って、いかにも自分自身が富裕層であることを示すような内容のものが多い。他にもテレビ CM を流している病院というのは、全てが美容外科と言っても間違いない。まぁそのような形で儲けるのは本人の自由なので別に構わない。彼のクリニックを訪れる人々も、タレントや著名人、あるいは富裕層の人たちなので、少々高額であっても痛くも痒くもないだろう。彼は自分で自分の顔等を手術して、確か今73歳か74歳だったと思うが、年齢よりもはるかに若く見える。つまりそのように手術をを自分でしているのだ。それを見本にCMに出ることによって、憧れる人はきっと多いのだろう。このようなこともあって美容外科と言う分野においては、彼は絶大な人気と実力を示すこととなった。
 さらに彼は東日本大震災などの大災害が起こったときには、自らが先頭に立って援助物資を届けたり、顔などに大怪我をした人たちに対して無料で手術を続けている。あるいは日本国内のみならず、東南アジアの貧しい地域の人たちに対しても、学校建設や食糧援助、医療援助などの福祉活動を積極的に行っている。そういった意味では自分自身が儲けた私財を投じて、恵まれない人たちに援助の手を差し伸べていると言う側面もある。これはこれで非常に偉いと言うべきだし、日本人の中ではここまでやれる人は数少ないだろう。日本人というのは、自分で儲けたお金は基本的には自分が使うというのが大半で、積極的に慈善事業に寄付しようなどと言う人ははっきり言って少数派だ。そういった点から見ると、高須氏のしていることは率直に賞賛に値すると言っていい。そのことがあってか、彼は何度も叙勲を受けている。他のお金持ちと言われる人々も大いに見習うべきことだと言える。
 しかし彼は同時に、自分で自分のことを「右翼で国粋主義者」と公言している。もちろん憲法においても個人の思想信条の自由は保障されているし、公共の福祉に反することがない限りは個々人の全くの自由だ。他人がとやかく言う必要はないといえる。そして「首長や議員に対するリコール活動」も保障されている。国民や県民市民などの権利の一つだ。もちろん所定の手続き等を、ルールに基づいて行われてこそ認められるべきものだ。ところが今回、上記のように集めたリコール票数のうち約9割近くの不正票が見つかったということは極めて重大な問題なのだ。このようなことが行われると憲法で保障された国民の「自由権」そして基本的な民主主義のあり方そのものが、歪められてしまうということになる。
 実際過去にも選挙投票において、替え玉投票、あるいはそれに類するような違法な投票行為が何度となく繰り返されてきた。特に村単位におけるような人口少数地域での選挙ならば、1票2票差で当落が分かれるという事態にもなり、そこに不正投票の影響があれば大変な問題となる。当然のことながらこれらは重大な犯罪行為として逮捕され、立件されて裁判にかけられるほどの重罪なのだ。このような選挙投票においては、各投票所において本人確認が行われて、替え玉投票などが起こりにくくされているが、リコール署名活動となると状況は大きく変わってくる。
 リコール活動を行う組織が作られ、責任者が選ばれる。そして期限を定めて、定められた範囲内で署名活動が実施される。しかし署名の行為そのものは、本人確認も何もなく、駅前などで道行く人に呼びかけて、賛同した人が自らの意思で署名欄に自分で記名するというものだ。当然このようなやり方で進められると、同じ人が何度も署名をしたり、同じ人が名前を変えていわば架空の名前を 書いたり、様々な不正が起こりやすい状態となる。
 今回は実際にどのような形で名簿が入手されたものかわかってないが、まとまった何らかの名簿があって、その名簿の名前・住所を佐賀県という離れたところでアルバイトを雇ってただひたすら署名簿に書き写していくということが行われた。様々な名簿の中には既に死亡している者の名簿もあったと言う。つまり死者がリコール署名をしたことになっているというものだ。一体このような名簿を、誰がどこから入手したのか、それの指示をしたのが誰なのか。またアルバイトを雇ってお金を払っている。そのお金はどこから出たものなのか。誰が指示をしているのか。こういったことが問われることになる。もしこれが小数ならば発覚しなかったかもしれない。しかし今回は一部の人が告白したことによって、具体的に選管が動き大量の不正票が見つかったということになった。当然責任はリコール署名活動の組織のトップだ。今回の場合には高須克弥氏となる。
 先日彼は記者会見で、「そんなことは全く知らないし、するわけがない。こんな貧乏くさいことをやるはずがない。」などと強く否定した。私としては「貧乏くさい」という表現が極めて気になったが、裕福な彼にとってみれば貧しい状態にある人を金銭では援助しているものの、気持ちの中ではどこまで本気に思いやっているのか、疑問にさえ思った。そして高須氏と共に運動の中心にいた名古屋市長の河村氏も同様に、「そんなことは全く知らない。そんな指示を出すはずがない。」などと全面否定。

 否定したところで事件そのものは実際に起こったのだ。そして責任はリコール活動組織の代表者にあるのは明確だ。これは高須氏本人もわかっていて、やはり記者会見で「もしこれが本当に偽装されたリコール署名だとしたら責任は私にある。」と明言した。警察は事務所をそして名古屋の高須クリニックを家宅捜索し、必要な書類を押収した。詳しい解明はこれからとなる。このようにリコール署名というのはいわばザルのように抜け穴だらけの内容となっている。不正をしようと思えばいくらでもできるような構造になっている。無論これをもってリコール署名のあり方が悪いとは言わないが、やはり何らかの形で対策が必要になるのかもしれない。次第によっては身に覚えのないことでリコールされてしまうような公人も出るかもしれないのだ。いわばこれは「性善説」に立った考え方の上に成り立っている国民の権利なのだ。
 このように考えてくると、今回の事件は憲法に規定された日本の「民主主義」への重大な 破壊行為であり、絶対に見逃すわけにはいかない。重大犯罪と言うべきなのだ。誰かが名前をごまかしただけ、と言った遊び半分のようなものではない。かつてどこの県のどこの村だったかは覚えていないが、議員のリコール署名活動に署名する時、自分達の名前だけではなく、飼い犬や飼い猫の名前をそれらしく見せかけて署名したという事件のことを聞いたことがある。このようなことが平然となされるようでは、日本の民主主義そのものが、やはり成熟どころか未だに幼稚なレベルでしかないことを証明することになる。つまり十分に様々な教育を受けて大人になった者が、このような事を平然と行うこと自体が、日本人の「民度の低さ」を象徴的に表していることになるのだと思う。
 ネットや SNS をを見たりしていると、「日本はすごい」「日本人のおもてなしは素晴らしい」「 日本人の民度の高さに世界中が驚愕」などといった、意味不明な内容のものが山ほど出てくる。その背景には、天皇を神であるかの如く頂く、この美しい日本のあり方そのものが、あまりにも素晴らしいのだ、と言う右翼思想の基本的な考え方が根底にあるものと言える。このようなものを見るにつけ、つくづく世界から大きく遅れた民主主義と国民の民度というものの低さに、情けなさを覚えてしまう。
 もちろん愛知トリエンナーレにおいて、表現の自由というものを大切にしようという人々の方が圧倒的に多かったであろうし、実際署名もまともなものはごくわずかしか集まらなかったというのがそのことを示している。そういった意味では、日本人も決して捨てたものではないし、そういった部分を期待しながら信じていきたいと思うものだ。今後捜査がどのように展開し、誰がどんな指示を出してこんな事件を起こしたのかを、どんなことがあってもを明らかにしてもらいたいと思う。


  (画像は他HPより)
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西方寺 (宇治市五ケ庄) 京都府宇治市

2021-02-23 23:57:06 | 撮影
 

 京阪電鉄宇治線木幡駅の線路沿いを北方向へ行くと、二子塚古墳というのがあり、そこに隣接する形で西方寺がある。
  各地にある浄土宗の地域に根ざしたお寺で、本尊は阿弥陀如来。創建その他についてはよく分かっていない。隣の二子塚古墳はいわゆる古墳時代のほぼ終わり頃の物だと言う。古墳の一部が崩れており、かつて古墳に使われていた巨石が西芳寺の境内にもあると言う。このお寺の入り口は一箇所しかなく、古墳の方からは入れず、表の方に回らなければならない。入り口に面する道路は細くどこにも車を停める余裕はない。
 細く長い参道を車で入っていく。するとなんと踏切がある。京阪電鉄宇治線の踏切だ。無論ここはれっきとした西方寺の敷地内だ。この中を宇治線の複線が通じており、しかも踏切もある。一般車でギリギリの細い踏切を渡り、慎重に駐車場に入る。大きな車では脱輪するだろう。軽自動車が望ましい。ちょうど踏切の警報機が鳴り始め、すぐに電車が通過する。片側で15分間隔。往復で平均7分半に一本と言うのが昼間時の本数だ。朝夕のラッシュ時は当然もっと多い。お寺の境内に入っている間にも何本も通過していった。いずれにしろ全国の寺の中でもこのようなところはかなり珍しいものだと思う。
    
 山門は本格的で立派なもので、開放的な境内が広がる。境内はそこそこ広く緑豊かで草木が豊かに配置され計画的に植えられている。手入れもよく行き届いており、非常に好感が持てる。いい雰囲気のお寺だ。
 この近くの幹線道路をよく通るが、このお寺の存在を全く知らなかった。宇治市の地図をあれこれ見ている中で、このようなところにお寺があると見つけて訪れた次第だ。撮影し終わってお寺の山門から参道を通って出て行く時にも、車の幅ギリギリで随分慎重に運転しなければならない。
 

 ところでこのお寺のすぐ北側に小さな川が流れている。この川は少し西側にある宇治川に合流する。名前を弥陀次郎川と言う。人の名前がついた川だ。これには以下のような伝承がある。
 昔、宇治川の西側には大きな巨椋池が広がっていた。漁業が盛んで池の西の方に一口(いもあらい)という漁村があって、そこに荒くれ者がいた。そこには毎日のように托鉢僧がやってきて念仏を唱える。荒くれ者は疎ましく思ってその托鉢僧に、焼きごてで顔に火傷を負わせたと言う。僧はそのまま帰っていったが、荒くれ者は気になって後をつけると光明寺へ入っていった。光明寺の僧に事情を話して色々と聞いてみると、光明寺に安置されている釈迦如来が、時々消えてどこかに行っているようだと言うのだ。
 その釈迦如来を見るとなんと顔の頬に火傷の傷跡があった。荒くれ者は驚いて自分のしたことを悔いて、それ以後、悪いことするのをやめた。そして自らが善行を行うために修行を続け、宇治川から一体の阿弥陀如来を引き上げたと言う。この阿弥陀如来が、今の西方寺の本尊だと言う。以降彼は様々な善行を行い、悪次郎と呼ばれていた名前を「弥陀次郎」と改め、この地に静かに住み着いたと言う。この伝承が川の名前となって残っているということなのだ。同じような伝説はこの地域の他のお寺にも残っていると言う。
 伝承というものは単なる都合の良い作り話というものではなく、おそらくそれの元になる実話があったんだろうと思われる。多少なりとも話の内容が大げさになったり、付け加えたり様々な違いはあるだろうが、これに類するような話はきっとあったのではないかと思われる。だからこそ具体的な名前が川の名前として残っているのだろう。

   
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正覚寺~天神社(三山木) 京都府京田辺市

2021-02-22 23:20:48 | 撮影
正覚寺

 

 JR学研都市線三山木駅の北西、少し行ったところにある。真宗興正派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。住宅街の中にあって少し見つけにくかったが、近くに車を止め山門から入る。
 敷地は割と狭いが境内には大きな木を含め、豊かな緑で溢れている。本堂は割と新しく感じた。鐘楼があり、吊るされた梵鐘も浮き文字がかなり明確で、新しいように思われる。境内の中で少しこれが古いなと思われるのは、元々あったものかどうかは分からないが、小さな五輪塔がありかなり風化が進んでいた。お寺全体がわりと新しい雰囲気の中で少し異質に感じた。
 真宗興正派というのは浄土真宗の一つの派であり、本山は京都市内にある興正寺。この寺院は西本願寺のすぐ南側に隣接する。一見すると西本願寺の一部のように見えるが、元々同系列の寺院であったものの、別のお寺として区別されている。本尊や経典などは共通のものらしいが、作法などの違いがあると言う。
     


天神社     (京田辺市三山木野神)

  

 天神社というのは同じ市内に2箇所あり、松井山手の方にある天神社は非常に有名で、かつ式内社でもある。しかしこちらは色々と情報を探しても全く何もない。
 JR学研都市線三山木駅の北西方向にある。細い道が交錯する住宅街の中で少し見つけにくかった。道沿いに石鳥居だけがぽつんとあって、おそらくこれだろうということで境内に入っていく。
 神社に多い鎮守の森にあたるものは見られず、手水舎と石灯籠、そして小さな覆屋が目に入った。後は金網で仕切られていてこの狭い敷地がこの神社のすべて。
 名前からして天神社というのはもちろん、天神信仰に基づく神社であり、祭神は菅原道真ということになる。覆屋の木枠の間から内部の本殿が見える。屋根は銅板葺きになっていてそこだけが新しく感じるが、建物そのものはある程度の古さを感じさせる。かつては極彩色に塗られていたものと思われ、色が剥げた後の所々に元の色が残っているのが見える。立派な造りで、小さいながらも本格的な本殿だ。見ていても飽きないほどで、当時は力を入れて付近の住人たちによって造られたものと思われる。
 帰り、石鳥居の裏側に「天明 」と彫られているのが見えた。西暦で言うと1780年代だ。おそらくこの神社そのものが、この頃の創建ということになるものと思われる。

      
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