切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

來迎寺・・・新門辰五郎     京都市中京区   2024.1.22 訪問

2024-04-30 22:59:34 | 撮影


 中京区にある来迎寺は、二条城の南の位置にある。 同時に 三条通り商店街のすぐ北側にあって、付近には三宝寺や八坂御供社もある。浄土宗西山派禅林寺派のお寺で、本尊は阿弥陀如来となる。
 江戸時代の初期1630年、浄土宗の僧である詮空が開いたという。当初は来迎庵と呼ばれ 現在地から少し離れたところに創建された。しばらくして現在地に移る。江戸時代中期の天明の大火で焼失。それから数十年後に再建されることになる。

 

 幕末には上洛した15代将軍、徳川慶喜に重用されていた新門辰五郎 たちの宿舎として使用されている。彼は江戸の侠客であり火消しであって、かなり活躍し幕府の目に止まったようだ。徳川慶喜の知るところとなり、大きな役割を与えられる。明治維新後、徳川慶喜が各地に送られた際も、従って世話をしたということだ。「新門」という名は、浅草浅草寺の新しい門の守衛としての役割を果たしたことによって、付けられた名前だとされる。

 また境内の観音堂に安置されている十一面観音像は、熊谷直実の念持仏とされている。熊谷直実というのは、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将であり、後に出家して僧となった人物だ。
 平安末期というのは各地に武士が現れ、そのうち大きな勢力を持つことになった源氏と平氏の対立が深まっていく。熊谷直実は当初、兵士の側に立って戦っていたが、後に源氏の側につき源頼朝の御家人となり、多くの戦で手柄を立て鎌倉幕府成立にも貢献したと言われている。しかし後に平氏を追って滅亡 させる戦を通して、世の中に対する不条理に疑問を持ち、出家して蓮生を名乗る僧となった。そして各地に様々な寺院を創建することになる。



 来迎寺の山門は柵で閉鎖されていて、やはり身を乗り出して境内を部分的に撮影することしかできなかった。全体的にきれいに手入れされており、お寺らしいお寺として見ていても 清々しい雰囲気を感じる。一見何でもないような普通のお寺に見えるが、やはりその歴史を通して日本の様々な出来事の場面で、いろんな役割を果たしてきたことが込められている。 そういった意味では他にもあまり知られてないお寺にも、そのような由緒があるのではないだろうかと改めて思わされた。

 
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三寶寺・・・涅槃図       京都市中京区  2024.1.22 訪問

2024-04-29 22:10:53 | 撮影


 三宝寺は三条通りアーケード商店街のスーパー西友三条店の向かい側にある。通りから細い路地に入った奥にあるので少し分かりにくい。山門前に到着すると柵で閉鎖されており、 境内には入れず。門のところから身を乗り出して拝見・撮影という形になった。



 その範囲で境内を見回すと、正面の本堂を飾るように多くの緑の木々が密集しており、比較的狭い 境内もちょっとした庭園のような趣を見せている。非常によく手入れがなされており、見ているだけでも好感が持てる。できれば境内に入ってさらに細かなところも拝見したかったものだ。

 

  浄土宗鎮西派のお寺で、本尊は阿弥陀如来三尊像となる。また地蔵堂に地蔵菩薩像があるが、これは西国三十三ヶ所観音の 一つとなっている。創建は安土桃山時代の終わり頃。西暦で1582年となる。一時衰退したようで、江戸時代初め頃に再興されている。阿弥陀如来像などは少なくとも室町期のものとなるだろうと思われ、指定文化財でも良さそうなものだが、そういったものは一つもない。ただ寺が所有する「涅槃図」があり、これはかなり巨大なもので、盾が約3m、横幅が2m半というもので、しかも紙や布に描くというものではなく、全てが「刺繍」されたものであり、その折り方や止め方など非常に貴重な方法で製作されたものとして知られている。また境内には江戸時代後期に製作された阿吽形の一対の鬼瓦があるが、これは山門からは見えなかった。非常に残念。

 

 この近辺には前回紹介した八坂御供社などを含め、他にもいくつかのお寺があり、まとめて回ることができる。ここの涅槃図などは是非とも公開時には拝観したいものだと思う。


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八坂御供社・・・祇園祭発祥か?  京都市中京区    2024.1.22

2024-04-28 22:51:57 | 撮影


『由緒

八坂神社御供社

鎮座地 京都市中京区御供町
御祭神 素戔嗚尊 梅稲田姫命 八柱御子神
祭典日 七月二十四日(御供社泰銀祭)
由緒
貞観十一年(八六九)都に疫病が流行した時、平安京の広大な庭園であった神泉苑に六十六本の矛を立て祇園社(現、八坂神社)の神輿を送り祇園御霊会が行われた。 当社は往古の神泉苑の南端にあたり御霊会祭日である六月十四日(明治以後は七月ニ十四日に変更)には斎場が設けられ祇園社の神輿三墓を安置し、 神饌を御供えする、社名町名はこのことに因むものである。
明治六年村社に列格し明治三十九年には村社を廃し八坂神社の境外末社となる。 当社は、四条京極にある御旅所に対して又旅所ともいわれている。』
  (駒札より)



 八坂御供社は三条大宮の交差点にある。三条通りアーケード商店街の通りに面している。 元々は平安時代に何度も起こった疫病に対し、神泉苑では御霊会が行われていたが、貞観十一年の疫病については大々的に祇園社の神輿を送って、祇園御霊会が行われた。この神輿三基はそれぞれ後供社の祭神に対応している。このことが後になって祇園信仰と重なり「祇園祭」の大元となっていく。

  元々祇園社というのは、釈迦が誕生したインドにおける祇園精舎の地の守り神であった牛頭天皇が、中国から日本に入りスサノオノミコトと一緒に信仰されるようになり、神仏習合の神とされるようになった。平安京においてはその祇園社が周辺に広まり、疫病退散の役割を果たすようになり、三基の神輿をこの地に集める儀式とともに、信仰の形態が形作られるようになった。

 

 このような経過をたどって祇園祭りが延々と続くようになり、祇園社は後年、八坂神社と名前を変え、八坂御供社は八坂神社の境外末社となった。昔からの祇園祭りの習わしとして 今現在においても、三基の神輿が神泉苑からこの地に集められる。神泉苑については今でこそ、二条城南側に比較的小さな境内を有しているにすぎないが、往時の広大な 庭園を彷彿とさせる名所ともなっている。

 八坂御供社は、商店街から見ると狭い敷地に鳥居と少しの建物があるだけで、とても千年以上の長い歴史を有するようには見えないが、京都においてはかつてかなり重要な役割を果たしたところでもある。当時から八坂神社との関係が強く、御旅所とともにに様々な役割を担い、今に至っている。なお御旅所に対してこちらは「又旅社」とも呼ばれる。

 
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吉祥山阿弥陀寺・・・奈良時代から         京都市山科区

2024-04-26 22:41:32 | 撮影


 

『奈良時代の僧「行基(ぎょうき)」が開いた阿弥陀寺の由来

 阿弥陀寺(御陵天徳町)は、天智天皇陵の南東、東海道の北に位置し、山号を「吉祥山」と呼ぶ。浄土宗知恩寺の末寺である。
 「阿弥陀堂、在同所北方南向、本尊阿弥陀仏、作行基・開基同僧」(「山洲名跡志」)とあるように、開祖は奈良時代の僧行基と伝える。後に天台宗の別院となっていたが、1357年( 正平12年)知恩寺の住寺となった円智が浄土宗に改宗したと言われている。寺蔵の阿弥陀如来像は源信の作とも伝えられ、平重盛(たいらのしげもり)の念持仏と言われる。』
   (説明板より)

 

 山科区の阿弥陀寺は、東海道本線山科駅から西側へ 約500m の線路沿いにある。元々は 奈良時代の層である行基によって開基されたと言われる。行基が墓地を探してこの地に堂を建てたのがその始まりとされている。当時は天台宗に属していたが、後に浄土宗に移り、知恩寺の末寺となっている。
 寺の山門は 格式ある造りで小規模ながらもなかなか立派なものだ。境内も十分に整備されており、お寺として非常に気持ちのいい整然とした趣が伝わってくる。緑も豊かで本堂の撮影等もいい絵になった。

  
 
 平安時代の終わり頃に平重盛が阿弥陀寺の本尊であった阿弥陀如来坐像を祈念し、後に 念持仏となったという。この阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信の作と言われる。この日は公開日でもなかったので本堂の外から拝観しただけで、阿弥陀如来を拝見はしていない。本来なら800年以上も経つ貴重な仏像であり、少なくとも国の重要文化財に指定されていてもおかしくはないが、調べた限りでは特に指定はされていないようだ。理由はわからない。

 15世紀の応仁の乱においては、このお寺も炎上したが、本尊の阿弥陀如来は無事に運び出され、後に再建された本堂に祀られ今現在に至る。開基から1300年近くも経つ非常に由緒のあるお寺であり、拝観する価値は十二分にあると言える。

  
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2024年 桜の花 西福寺・・・これは桜なのか?  京都府綴喜郡井手町  2024.4.14 訪問

2024-04-23 22:55:17 | 撮影
  

 井手町には西福寺という名前のお寺が2箇所ある。今回は JR 奈良線山城多賀駅の東側にある浄土宗の西福寺へ行く。元々は桜撮影のために高神社へ行ったのだが、鳥居前の大きな桜の木はかなり散り果てていて、行くのが遅すぎたようだ。念のために 100 数十段ある階段を上って境内にも入ったが、やはり桜の木は花が落ちていた。とりあえず撮影だけはしたが、ブログにアップするほどでもなく、近くに桜の木がないだろうかと調べ、この西福寺へやってきた。数年前にすでに訪れている。当時は桜のシーズンではなかったので、ただ単に 未訪問のお寺をあちこち巡っていた時だ。従って寺そのものの撮影及び解説が中心だった。

  門前に広い敷地があり車を置いて境内に入る。真正面の本堂の右側に桜らしき白い花や 桃色の花が見えてきた。自分では勝手に桜の花が咲いていたと思い込んだ。もともと植物にはかなり疎い知識しかなく、本当に桜の花であったのかどうかは分からない。他のお寺や神社の桜がほぼ終わりかけという状態の中で、かなり鮮やかに咲いていることに疑問を持った。ひょっとして桃の花ではないかとも思ったりしたが、とりあえず桜のつもりで撮影をすることにした。

 
 
 西福寺は天平13年(741年)橘諸兄が高神社の神宮寺として創建された。神宮寺ということはもちろん仏教の伝来当初から日本独自に始められた「神仏習合」によるものだ。長い間 この地でその関係が続き、戦国時代の末期になると高神社の近くから少し離れ、現在地に移る。同時に浄土宗に改められた。

 現在本堂の前に浄土宗の祖である法然上人の幼少時の像が安置されている。また十一面観音菩薩立像が安置されており、藤原時代後期に彫られたものだという。当然そうであれば 少なくとも、町指定の文化財になっていてもおかしくはないが、何の指定も受けていない。写真を見る限りさほど傷んでるような様子はないので、これは改めて指定文化財とするべきものであるような気がする。

   

 本堂の写真を撮りその横にある桜らしき花の方へ近づく。しかし墓石や石仏があったりして、間近くまではいけない。綺麗に咲いている花を次々に撮影し、自分としては桜だと思っているのでそういった意味では、かなり満足感が高かったと言える。場所的には境内の東端になるので、もう少し境内中央、あるいは本堂前あたりにあればと思えた。またその場所にある石仏群を見てみると、かなり風化して丸くなっているものも多く、これらもずいぶん 年月が経っているように思われる。もともと南山城地方には街道沿いに石造物が数多く見られ、新しいもので江戸時代。古いものはおそらく室町期あたりになるのではないかと思われる。こういったものも貴重な存在であり、いつか路上の石仏巡りをしたいと思っている。

    
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