切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

一念寺・・・鳥羽の大仏   京都市伏見区   2024.8.25 訪問

2024-08-31 22:27:15 | 撮影
 

『一念寺

 寺伝によれば、天武天皇即位二年(六七四)僧道昭が創建し、奈良の元興寺に属する法相宗の寺であったが、永享年間(一四二九から四一)に、後亀山天皇の皇子であった真阿上人によって再興され、浄土宗に改められたといわれている。
 本堂に安置する本尊阿弥陀如来像は、定印をむすんで結跏趺産する丈六の巨像で、俗に「鳥羽の大仏」と呼ばれ、人々から親しまれている。この大仏は、当寺の再興に当って、東大寺念仏堂から移されたものと伝えられている。
 門前の鴨川畔は、永享一二年(一四四○)六六歳で没した真阿上人遺命により、遺体が水葬されたところで、「真阿ヶ淵」と呼ばれ、以後永く殺生禁断の地とされてきた。
  京都市』   (駒札より)

  

 一念寺は桂川にかかる羽束師橋の東岸の堤防沿いを、北の方へ数百mのところにある。分かりやすい道であり、堤防沿いの道なので車でも行きやすいが、公共交通機関となると少しややこしい。但し車の場合は近くにコインパークも何もなく、駐車する場所を探すのに苦労しなければならない。

 本堂前に駒札があったので、上記のように由緒がわかる。創建は奈良時代の前、なんと 飛鳥時代にまで遡る。西暦674年であり、聖徳太子が全国に仏教を広めるために各地に多くのお寺が創建された頃と重なる。当時は法相宗のお寺であり、長い間その位置づけで歩んできた。
 鎌倉時代初期、仏教にも新しい宗派が次々と誕生し、中でも法然の浄土宗は専修念仏を唱えることにより、極楽往生できるとの誰にでも受け入れやすい宗派として、大きく広がりを見せる。しかし浄土宗派に教義上の難がかけられ、後鳥羽院によって讃岐の国へ流されることになる。その際、法然は弟子たちを連れてこの一念寺に立ち寄っている。そのことから「 法然ゆかりの寺」とも呼ばれている。また門前にそのことを示す石柱が立っている。

  

 その後一時衰退するが、室町時代に再興され、宗派も法然の浄土宗に改宗することになった。その際東大寺から阿弥陀如来坐像を本尊として遷されたという。
 この阿弥陀如来坐像は現在、本堂に安置され一念寺の本尊となっている。鎌倉時代の作とされ、京都府の指定文化財となっている。大きさが丈六(224cm)というものであり「鳥羽の大仏」と呼ばれ親しまれている。
 鳥羽の大仏とは初耳であり、今まで東山区方広寺の「京都大仏」は知っていたものの、鳥羽地域にこのような大仏とお寺があるというのは全く知らなかった。歴史的な由緒もかなりなものであり、無論山門にしろ境内や本堂も何度も建て直されているはずだ。従って外から見る分には、建物も綺麗な普通の浄土宗のお寺に見えてしまう。飛鳥時代に創建されたなどというのはまさしく京都の中でも、かなり古いお寺の一つに数えられるだろう。訪れて拝観する価値は十分にある。

  

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源光寺・・・六地蔵巡り   京都市右京区     2024.8.23 訪問

2024-08-30 23:01:33 | 撮影


 源光寺は京福電鉄北野線 常磐駅から、南の方に少し歩けば到着できる。周囲は細い道が複雑に入り込んでおり、車で行く場合には少し離れたところにコインパークを利用することになる。
 源光寺についてみるととにかく車を止めるところがない。一旦通り過ごし細い道を曲がって逆の方向からお寺に近づくと、目の前に源光寺の臨時駐車場という張り紙があった。そこに止めて源光寺に参拝する。

 しかしお寺の周りにはずいぶん人が多く、小さなお寺の境内にも次々に参拝にやってくる。今日は何かあるのかと思いながら寺の正面に回り、撮影を始める。門には横断幕が張られやはり何らかの催事があるようだ。住宅密集地に囲まれた小さなお寺にこれだけの人がやってくるのは、そうとしか考えられない。私自身も境内に入ると、お寺の関係者がお守りやご朱印を用意して待っている。参拝した人たちも女性を中心にご朱印を頂いている人が多い。



 源光寺そのものの由緒書きはなかったが、下記にあるように常盤御前の由緒書きがあった。しかしそれを読んでも何らかの催事が行われるような内容の記述はなかった。寺の関係者に聞けば早かったんだろうが、何か人が次々にやってきて、撮影ではなるべく人が写らないように心がけたが、撮影すること自体が憚られるような雰囲気があって、お寺の人に聞くことはできなかった。

  帰宅してから寺のことを調べると、なんと 8月22日と23日は「六地蔵巡りの日」となっているのだった。ここでようやく納得。六地蔵巡りのお寺についてはもうすでに何箇所か回っている。大きなお地蔵様がよく眺められて撮影もできたところもあれば、見えにくくてあまり撮影がうまくいかなかったところもある。現在六地蔵巡りは昔と違って順番が少し変わっている。
 第1番札所は大善寺。これは伏見区の六地蔵にある。この名前の通り、六地蔵発祥の地としての位置づけ なんだろう。源光寺は第4番札所となっている。

  

 寺の創建、また六地蔵巡りの始まりについては詳細は不明だが、平安時代にまで遡ると言われている。源光寺の元になった山荘は仁和寺の末寺であったが、後に源光寺となり臨済宗天龍寺派の末寺となった。この地では源義経の母である常盤御前が暮らし、また晩年にこの地に戻り没したという。常盤御前の墓がある。
 平安時代初期に小野篁が冥土に行き、地蔵尊を拝むことによってよみがえり、それに報いるために1本の木から六体の地蔵菩薩を彫ったという伝説がある。後にこれが平安京の鬼門である 6箇所に配置され六地蔵となった。ここにお参りすると色々な思いや願いが叶うということで、六地蔵巡りが始まったのではないかとされている。

  後年一時、衰退した時期もあったが江戸期には再興され、または近代においては昭和初期に六地蔵会が結成され、六地蔵巡りも盛んになり現在に至っている。寺そのものは比較的小さい方となるが、歴史的には大いなる由緒を持ち多くの人々に今現在も親しまれているお寺といえる。

  

『常盤御前の由緒書き

「常盤と申すは日本一の美女なり」と義経記に記さ れる程の傾城の美人でありました。
 初め近衛天皇の皇后九条院に仕へ後、源義朝の 側室となりました、平治の乱(一一五九)の時、源義朝 が失命落首。子達と共に大和の里に身を隠します が、母を人質に取られ六波羅に自首します。時の 相国、清盛公はその美貌に心打れ母と子をゆるす 変りに常盤御前を側に置いた。その後、藤原長成 に嫁し、晩年祈王女御建礼門院の例の如く世の無 常を感じ生れ故郷の此の常盤の里に隠棲したと伝 へられる。(寂年治承二年五月十八日)又、平家物語 巻の一の一に鳥羽天皇の皇女八条院の宮瞳子の住まう 常盤殿の下りが出ていますが藤原定家は明日記 〈建永元年七月十六日)。此で八条院を忍び歌を詠ん でいます。「後深草天皇が一時隠れ住んだとも伝えられます」
歌人の藤原為業(一ニ五四〜―三三ニ)が寂念と称して 隠棲したとも伝へられます。
 常盤なる松の願の色見えて 
   梢の月を拝むうれしさ
常盤山源光寺』  (寺内駒札より)

 
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大蓮寺・・・さつま芋      京都府城陽市     2024.8.19 訪問

2024-08-25 22:37:34 | 撮影
 

 大蓮寺は JR 奈良線、長池駅から西南の方向に数百m のところ。周囲は住宅街及び農地が広がる。近くを24号線が走り、車の通過量は多いところだ。

 このお寺は特に何かの文化財を所有しているというわけではないが、「さつまいも」で知られる。日本におけるさつまいもの栽培は、中学校教科書にも掲載されている青木昆陽による。薩摩地方の火山灰台地で農業が困難なところを、さつまいもを導入して成功し、歴史に名を残したということになっている。後に幕府において江戸時代の享保の大飢饉の際に、幕府は青木昆陽を登用し飢饉で農作物が足りないものを、このさつまいもで補ったとされている。こうして青木昆陽は日本で最初にさつまいもを根付かせた人物として、教科書にも掲載されるほどになった。

 

 しかし実は、日本の国土における最初のサツマイモ栽培の導入は、青木昆陽より少し早い時期に行われていた。それが「嶋利兵衛」という人物であり、彼はもともと薬草などを行商して商売をしていた人物だ。しかしそれらの薬草の中に幕府禁制のものがあるとのことで、彼は処罰を受け琉球へ流される。しかし彼はそこでサツマイモが栽培されていることを知り、その栽培法を学んで 11年後、赦免を受けて日本に戻ってくる。もともと彼が住んでいたのは現在の城陽市長池という地域であり、彼はさつまいもの苗をこっそりと自分の頭髪に隠して日本に持ち込んだ。そして長池地域で栽培を始め、近隣の人々にもそれが広がっていく。こういった点から正式には日本におけるさつまいも栽培の元祖は、嶋利兵衛ということになる。青木昆陽が有名になってしまったのはやはり、幕府公認でありまた規模も大きかったということがあるだろう。その点嶋利兵衛はまだ幕府の許可が出ない時期に日本に戻ってきたので、いわば隠れてこっそりと栽培を広げていったことになるので、歴史的にはほとんど注目されなかったということになる。

 しかし長池地区の百姓たちが嶋利兵衛に教えてもらいながら、さつまいもの栽培を成功させそれが周囲にどんどん広がり、「寺田芋」という特産品として次第に有名になっていく。さらにこれは当時の国の範囲を超え、近畿一円に広がっていく。江戸時代後期には各地の武家からの注文も多く舞い込んだという。

  

  大蓮寺の境内には少し変わった形の石造墓があり、なんとなくさつまいもの形をしている。これが嶋利兵衛とその妻の墓だとされている。そのことを証明するものはないようだが、寺に伝わる話としてそのように扱われているようだ。いずれにしろさつまいもそのものが江戸時代の飢饉などを救ったということでは、大きな役割を果たしたと言える。

 なお「寺田いも」は今現在も城陽市の特産品としてブランド化され、「紅はるか」といった商標で販売されている。またサツマイモ 農園では、芋掘り体験なども実施されていて城陽市にとっての観光資源でもある。ただかつてのサツマイモ農園の広がりからは、近年かなり減ってきて城陽市以外で見られることはかなり少なくなった。ほとんどが城陽市内で消費されてしまうようだ。

 
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石上布留社・・・波切不動明王  京都市南区   2024.8.14 訪問

2024-08-24 22:30:20 | 撮影
 

『弘法大師の地盤(おじば) 真言宗政所(まんどころ) 東寺執行家(しぎょうけ)
東寺執行家は弘仁十四年から明治四年まで、壱千四拾八年の間、真言宗の政所であった。そして、この政所の宰主は、阿刀家であって、歴代世襲職(おやゆずり)であった。
阿刀家は、弘法大師の生母(はは)の里方(さとかた)である。阿刀家世襲のこの政所は、弘法大師の父の実弟で、阿刀家の女婿(むこ)となった阿刀大足(おおたり)の時、はじめられたものである。
境内にある石上布留社(いそのかみふるしゃ)は、阿刀家の祭壇である。相殿は阿刀大神である。小祠には、三輪、伊勢、賀茂、岩清水、二天夜刃(やしゃじん)、役氏小角(ぎょうじゃ)、稲荷、弄鈴(なるこ)、王仁(わに)、空海大神がある。
又境内にあるナミキリ不動明王は、弘法大師のお地盤の明王と云はれ、四国路、東寺、高野山などの霊地に参りても、ここ弘法大師のお地盤の明王に参らざれば、御りやくが、頂けないのだと云って、有名である。
所蔵品には阿刀家宝蔵、鐵塔経蔵、針小路文庫がある。何れも学界に知られている。尚、ここには、明治維新以来、大和国一ノ宮三輪社の神道と、三輪山の山伏宗が、継受相続されていて、三輪山大御輪寺の寺号も、三輪山平等寺の寺号も、保全されている。
     京都市』
     (説明板より)



 石上布留社は、五重塔で有名な東寺の北側の住宅街の中にある。少し見つけにくい場所となる。一般的には石神神社(いそのかみじんじゃ)と呼ばれ親しまれている。私自身は全く知らなかったがかなりな由緒がある神社であり、上記の説明板にあるように長い歴史を持つ、そして弘法大師空海に深い関わりがある神社だ。

 ここに祀られているのは並切不動明王であり、「波切」というのは、弘法大師が遣唐使として中国大陸へ渡り、2年にわたり奥地へ旅をし、密教の本質を学びその教義を持ち帰ってきた時に、乗った船が強風に遭いあわや沈没かといった時に、自ら木に彫った不動明王を船の先端に据えると、船は波を着るように進み、日本に到着することができたという謂れから このように呼ばれるようになったと言われている。

 

 創建の詳細については分かっていないことが多いが、少なくとも空海が直接関わっているというところから、平安時代初期の頃であろうと思われる。平安時代には真言宗の政所になり、空海の母方の実家である阿刀氏が宰主となった。もともと阿刀氏というのは平安遷都の際に河内国から移住し、後に現在の京都市右京や山城国などに移り住んだとされている。この阿刀氏は物部氏と近い関係にあり、この物部氏が後に石上氏を名乗り、ここの神社が石上神社となった経過がある。

 空海は平安時代中期に当時の嵯峨天皇より東寺を賜りこの後、真言宗の政所となり以降阿刀氏の世襲制により、明治時代まで同一族で受け継がれてきたという。

 
 
 不動明王は密教における本尊の阿弥陀如来の化身と言われ、インドから中国を経て日本に伝わってきた。特に日本では多くの信仰を集め今現在に至るまで親しみやすく、お不動さんと呼ばれ現在でも仏教会において大きな影響力を持っている。

  石上神社に着いた時、鳥居は分かったがどこに何があるのか、もう一つ把握しきれずとりあえず撮影できるものは全部撮影してきた。当時、阿刀家はここに屋敷を構えて住んでいたと言われている。いずれにしろ日本の仏教史における重要な役割を果たした空海が関わる場所でもあり、不動明王が全国に広まるきっかけになった場所でもあって、大きな役割を果たした貴重な神社だと言える。

   
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《 朋あり、八幡市にてしばし歓談 》       2024.8.22

2024-08-23 23:18:02 | 日記
 

 T君が大学の年度替わりで帰省しており、数ヶ月ぶりに会おうということになった。この間彼は足及び腰の痛みに、歩くこと自体かなり困難であったが、少しずつ回復の方向にあるという。本来ならばもう大学での講義をやめたらどうか、と進言していたが熟慮の末、もう1年行うということになった。 9月からの新学期にもう間もなくの時期となり、短時間でも会おうということで、彼の負担にならないように住居のある八幡市にて集まることにした。

 この日私は早く目覚めたものの、どうも体調全体がおかしく何らかのしんどさみたいなものを感じていた。自分でもよくわからない。就寝中にトイレで目覚めたことはあったが、これはほぼ毎日のことでありまた部屋にはエアコンも扇風機もないが、中央部の部屋なので暑くも寒くも何もない。従って就寝中に熱中症になったというわけでもない。



 時間が来て京阪宇治駅まで歩く。赤信号を全部に引っかかって20分近くもかかってしまった。それにしてもやはり足が重い。京阪石清水八幡宮前駅にはほぼ1時間後に到着。駅前に出るとすでに T 君が愛車のパジェロ・ミニで来ており、枚方のO君は一緒に2人で話をしていた。集合時間にほぼぴった 私は到着した。

 実はO自身も最近突然の椎間板ヘルニアで足腰の痛みとなり、一時は眠れないほどだったという。痛み止め以外どうしようもないので、時間をかけてじっくりと回復を待つほかない。少しずつマシにはなってきたという。

 やはり3人ともすでにれっきとした「老人」だ。まだ後期高齢者ではないが、少しずつその年齢に近づいている。3人とも教員として長年体を酷使してきた。そのつけがいろんな意味で高齢者になって出てきたというわけだ。誰もが同じような状況になっていくであろう 同じ道を歩んでいる。それでも元気な老人は世の中にずいぶん大勢いる。やはり節制しながら運動を入れ、少なくとも自分の足で歩ける老人でありたいものだ。スーパーや街路で手押し車に頼って歩いてる人や杖をついて何とか歩いている人を大勢見る。少なくともお世話になっているお医者さんのアドバイスに従って、80代まで生き延びられるかどうかは分からないが、自分の足でしっかり歩ける状態でいたいものだ。



  T 君の車で八幡市内の有名どころを回りながら、国道1号線沿いのコメダ珈琲に入る。まだ昼前ではあったがランチを食べようということになった。私にとってみればこのようなレストランや外食店舗で食事をするというのは一つの鬼門になっている。何分にも胃の1/3は切り取られてないのだ。従って少ない分量しか食べることができない。2時間くらいかければなんとかなるが、外食ではなかなかそうもいかない。結局ランチプレートのスパゲティは食べたがフランスパンは残した。

  T 君は8月の終わりに中国へ渡るという。すぐに入学式そして講義が始まる。今回は週に45分授業で16コマ ほどと言っていた。 90分授業では8コマに当たる。今までの積み上げがあるとはいうものの、やはり授業内容に即した事前準備の勉強も極めて大変だろう。必要な本などは超特急で読み上げ、その内容を頭に叩き込まなければならない。そういうことを 大学レベルの内容で十数年間できている。そういった意味では彼の知識は半端ではない。日本の歴史や文化などなど様々な分野を対象とするような講義なので、のんびり構えて今までの蓄積された内容を適当に しゃべるというわけにはいかない。やはり高齢になってから本などを読んで新たな知識を脳に叩き込むというのは、そんな簡単な話ではない。私も日本人の精神形成がどのような歩みをしてきたか、ということを古代の歴史からずっと順を追って様々な本を読んで自学自習しているが、読書スピードも内容の蓄積もやはり脳みその能力が低下しているのがわかる。同じ本を2回3回読めばほぼ定着するだろうが、読むべき書物があまりにも多くて1回読むと次の本にする。しかし比較的似たような内容の本を続けて読むので、そういった意味では脳の中に蓄積されやすい面もある。

 しかしただ単に事前学習をしてもそれを講義という形で大学生や院生に教えるというのは、かなりエネルギーを使うはずだ。この日も講義内容とか大学の様子などを聞かせてもらい、日本との違いに色々な思いを持つことができた。 T 君もただ単に講義をするだけではなく今回は日本に関する何らかのテーマについて、舞台による劇形式の発表を行うと言っていた。多分新しい試みだろうと思う。ただ単にレクチャーだけで終わるような授業というのは今や、この日本においてもある意味マンネリ化している部分があると思われる。そういった意味ではいわば「探求」ということを念頭に置いた授業のあり方が注目を浴びており、高校だけではなく一部中学校においてもこれが取り入れられ、先進的な取り組みとして各地から様々な先生方が視察に訪れているというニュースを最近読んだ。やはり中国であれ日本であれ何が生徒や学生たちの力を伸ばしていけるのか、どのような方式が大切なのか、それらを実践を通して試行錯誤しながら探していかなければならない。そういった意味では学生や生徒たちの反応がどうであるかということが、指導する側としての楽しみにもなるだろう。



 もちろん中国の大学の話だけではなく、現代中国の習近平政治における課題などが中国本土ではどのように捉えられているのか。国民の思いはどういったところにあるのか、などといった話なども聞かせていただきずいぶん参考になった。隣国でありながら日本は仮想敵国の1つとして位置づけている。いつか台湾有事が起こり、さらに尖閣諸島、そして沖縄有事へと至る可能性が 一部の保守系知識人から発せられている。
 ただ中国の経済状況が深刻な状況に陥りつつあるのも一方の事実だ。いわゆる住宅バブルが弾けて未完成のままのタワーマンションや住宅が放置されており、少しずつ破壊処置をして土地バブルでもある状況を何とかしようとする動きもあるとのこと。

 O君はヘルニアを抱えながら論文や依頼されている講演用の資料作りに時間をかけなければならない。日程が決まっているだけにずっと座り続けているのは困難ではあるものの、完成させなければならないという。依頼されたら断れない性分なので何でもかんでも引き受けてしまって、結果的に体に無理をしいていることになる。そのあたりはやはり自分の年齢を自覚して取捨選択も必要だろうと思う。彼自身も修士号を得てその手前もあるだろう。それに今までも講演や発表会などであちこち発言もしている。おそらく何とかするんだろうと思う。



 体調不調の私はうんうんと納得しながら聞いていた。時に発言はするものの食べるのもなかなかしんどい状況。なぜこんな日にと思うものの 仕方がない。自分自身が今勉強している日本人の精神構造の形成過程を学習するために、古代の段階から勉強しなければならず、また琉球王国やアイヌ民族の学習も必要になってくる。もちろん縄文時代や弥生時代、あるいはまた古墳から見られる副葬品などに日本人の精神的な側面も現れているだろうと思う。 そういったことを総合的に学んでいくというのははっきり言って、自学では限界があるのは分かっているが、ある意味趣味的に関わっていけば、気持ちの上でのある程度の満足感は得られるものだろうと思っている。

 話を終えて T 君の自宅へ向かった。静かな住宅街の角地。ご婦人はお孫さんの世話に毎日、左京区まで通っており日中は不在だ。やはり家に女性がいると綺麗に整理されている。 まあ当たり前の話だが男一人の生活というのは、どうしても自分にとって便利であれば後は適当でいいという具合になりがち。それでも私自身はこれでいいと思っているが、 T 君は1年の大半を中国で過ごしているので、そういった意味では自宅にいるというのは改めて新鮮な思いがするんだろうと思う。

 

 最後に京阪の駅まで送っていただき、再開を約束して別れた。次回はおそらく来年の1月頃になるだろう。

 私は自宅に戻ってトイレに入る。下痢ではなかったが軟便で大量に出した。なんとこれが体調不調の原因だったようだ。トイレ終えてすっきりして一気に元気になってしまった。本来なら腹痛があってしんどいということになるのだが、今回は腹痛は全くなしにとにかくしんどい状況であったのだ。まさかこれが原因だとは思いもしなかった。

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