気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

穢れなき蓮の花 ・・・ 2.偏見 ・ かたより

2010-10-04 09:00:09 | Weblog
私たちは 泥池を「穢(けがれ)」とみます。

白蓮は いうまでもなく「浄(きよさ)」です。


この浄と穢の二つは まったく対照的です。

だから

泥池から白蓮が咲きでることに 何かわりきれない気持になります。



清らかな花は清い水から と考えたがる。

ところが

汚泥にみちた池のなかには

  白蓮にとって欠くことのできない滋養分があるのです。

泥池の「穢」を離れての白蓮の「浄らかさ」は成り立たないのです。



・・・ 釈尊は そこに人間の真理をみたのです。

  どぶ泥というとすぐに「きたないもの」と思い込む ・・・ 偏見

  「浄らか」は素晴らしいと思い込む ・・・ かたより

この浅はかな物の見かたこそ

  ・・・ 人間の不幸の根本原因となっています。





穢れなき蓮の花 ・・・ 1.泥池の中から

2010-10-04 06:30:21 | Weblog
都大路に棄(す)てられし

  塵芥(ちりあくた)の堆(つみ)の中より

げに香たかく

  こころたのしき白蓮は生ぜん
                      (法句経)*



仏教の行事というと 「蓮の花」がつきものです。

この聖句(ことば)でも 「白蓮」とうたわれています。


なぜ こんなに多いのでしょうか。

それは

釈尊が 蓮の習性の中に理想的人間像を見出されていたからなのです。



「こころたのしき白蓮」 ・・・

それは 純白の穢れなき清らかさとけだかさを連想させる花です。

ところが

その美しい純白の蓮の花は

  いったいどんな清い水の中に咲くと思いますか ・・・ 。


それはまさに

「都大路に棄てられし 塵芥の堆の中」から咲くのです。

上古のインドの都大路には 蓮池がたくさんありました。

その池には 塵芥が山と捨てられて 泥池となっていたのです。



そんな見るもきたならしい泥池の中から

  目のさめるような白蓮が咲きでている ・・・

この不思議なかかわりに

  ・・・ 釈尊は目をとめられたのでしょうね。




  *「法句経」 友松圓諦 訳 (昭和50年11月16日初版)
    から引用しております。




 

家にとらわれるな ・・・ 5.出家心

2010-10-04 05:32:03 | Weblog
人間の精進というものは なまやさしいものではありません。


つねに心を緊張させ

  明日へ明日へと旅立つ心がなくては果たせません。

家にあぐらし 自分に甘えていては

  人生の新鮮味も 創造力も育たないのです。



釈尊は 家を捨てよという強い言葉を示しながら

私たちに 「家に在って 家を越え 個人をのばす場とせよ」

  ・・・ と教えているのです。


  家庭で窒息してはならない。


  家は 人間個性と未来のためにある。


  過去と老いのためにあるのではない。


  巣立ちのためにある。


それが ・・・ 師の教訓なのです。



  水鳥は 「彼の池 ・ 此の池」 と捨ててゆく。


  その飛翔してゆくはばたきをもて。



マイホーム万歳の父親や 家庭に夫をしばりつける妻への

  ・・・ きびしい反省の訓 とうけとってくださいナ。


そして

いつまでも父母の力を借り

その庇護のもとで 甘えて生きようとする若者への

  ・・・ 痛烈な人生訓として 汲みとって頂きたいですね。



出家心のない人に

  世のためにつくしうる力は生まれてこないし

  ・・・ 充実した個性的人生もない ということです。







家にとらわれるな ・・・ 4.反省心

2010-10-04 05:30:30 | Weblog
「家」には古いものが いつも支配しています。


生活の 慣習 と なれあい。


料理にしても

  変化と工夫のないルーチン・ワークが はびこっています。



「家」には 人生にとって利害・得失の両面があります。


人間の勇気や跳躍心をにぶらすのも ・・・ 「家」です。


「家」には 安らぎとぬくもりがあり

  微温的な人生の力がひそんでいます。

それだけに ・・・ 立ち去り難い。



釈尊は 二十九歳で妻子と父母をふくめ

  すべてを捨てて ・・・ 「出家」した人です。

それは つらく苦しいことだったでしょうね。


だが 彼は後ろ髪をひかれることなく

  人間の広い野へ

  青山緑樹の のびのびした世界へ

  水草を追うがごとく

  水鳥の池を去るがごとく

    「一所不住」の生活に入っていきました。


西行も 良寛も 一茶も 芭蕉も ・・・ そうでした。



その自由な心が

  独り往(ゆ)く ・・・ 執着なき反省心 を生んでゆくのです。



もちろん 釈尊は 出家しなくてはだめだ

  といっているのではありません。


「執着」を問題にし

  ・・・ 「昨日」にとらわれる人間の在り方を問うているのです。