気まぐれ翻訳帖

ネットでみつけた興味深い文章を翻訳、紹介します。内容はメディア、ジャーナリズム、政治、経済、ユーモアエッセイなど。

左翼知識人批判の一例

2021年06月26日 | メディア、ジャーナリズム

今回は、左翼に属する人物による左翼知識人批判です。
併せて、アメリカの近年のリベラル派・左派の動向と当事者による感慨が語られていて
興味深い。


原題は
Leftwing Pokemon
(左翼のポケモン・ゲーム)

書き手は、ヴィンセント・エマニュエル氏(末尾の「訳注・補足など」を参照)。


原文サイトはこちら↓
https://www.counterpunch.org/2021/03/05/leftwing-pokemon/


(例によって、訳出は読みやすさを心がけ、同じ理由で、頻繁に改行をおこなった)


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2021年3月5日


Leftwing Pokemon
左翼のポケモン・ゲーム


BY VINCENT EMANUELE
ヴィンセント・エマニュエル




私は2006年、ワシントンD.C.で開かれた大きな反戦デモに参加した。通りは何万人もの
デモ参加者であふれて、見通しはきかない。いくつかのオフィス・ビルや大きな記念碑
だけが自分の位置を把握できる貴重な手がかりだった。
その頃は大きなデモはめずらしくなかった。ブッシュ政権によるイラクへの違法で
非倫理的な戦争に反対するため、何百万もの米国市民が街にくり出した(アフガニスタン
の時には、それほど多くの人々をデモに誘い出すことはできなかったけれども)。

それから何年かして、私はメリーランド州シルバー・スプリングで開かれた「冬の兵士」
の公聴会(訳注・1)で証言することになった。この公聴会では、多くの帰還兵たちが、
イラクやアフガニスタンでおこなわれた戦争犯罪について報告しあった。
会場に到着すると、自分より年長の、ベトナム戦争に従軍した退役兵士が近寄ってきて、
こう言った。
「ヴィンセント、この戦争を終わらせるぞ。ホワイトハウスのあのクソッタレ野郎どもは
俺たちの声を無視するわけにはいかない。やつら[メディアと政治家たち]は、俺たち
帰還兵の声に耳をかさないわけにはどうしたっていかない」。
この人は、「語り」の力、象徴的な抗議行動の力の有効性をいまだに信じていた。1968年
以降の左派の政治文化に囚われたままだったのだ。

不幸なことに、そして、ふり返ってみれば当然と思われることであるが、この「冬の
兵士」の公聴会を権力者層はまさしく無視した。公聴会が開かれたこと自体をさっぱり
知らない99パーセントの米国民と同様に。
何万ドル(おそらくは何十万ドル)も費やしたあげく、そして、左派系メディアもあれ
これありながら、その結果はというと-----新規の寄付者とメンバーが多少増えただけ。
戦略はといえば-----まったくのゼロ。公聴会全体は「語りのポイントを変える」ことを
ねらった、仕事ぶりと指標としての役割りを誇示するためのショーにすぎなかった。
典型的な「NGO与太話」である。

それから数年経って、今度は「オキュパイ(占拠)」運動が登場した。が、やはり同じ
力学が展開した。
何万人もの米国人が街にくり出し、「予示的な政治」(訳注・2)にたずさわった。
当時は、「合意による意思決定」だとか「一般参加型の~」とかが熱狂的に持てはや
された。
が、むろん、この運動のピーク時においても、われわれが達成できたことはわずかだった。
われわれはあいかわらず「動員モード」にはまっていて、進歩派や急進派を自称している、
自分と似たような心性の持ち主としか話をしなかった。われわれの支持基盤が広がること
はみじんもなかった。
たしかに「語り」のポイントは「緊縮(財政)」から「格差」へと移行した。けれども、
現実に政治権力を有する側(連邦政府、資本家階級、裁判所)は右に傾いたのである。

2010年には、「ティー・パーティー(茶会)」運動がきっかけとなって、共和党が下院で
多数派となった。米国各地で共和党所属の知事が反労働組合的な「「労働権」法案を成立
させるとともに、公務員組合の団体交渉権を制限する動きに出た。連邦最高裁は保守派の
判事が多数派となった。地方裁判所や州議会も似たような状況におちいった。投票権は
奪われつつあり、何十万もの黒人が選挙で自分の意思を伝えられない。内部告発者は迫害
を受け、獄につながれた。NSA(国家安全保障局)による監視プログラムはいよいよ規模
を拡大した。ICE(移民税関捜査局)の権能はより強化された。CIAも同様である。ドローン
攻撃計画もいっそう拡充された。テロとの「終わりのない戦争」もいっこうに減速する
気配はない。フラッキング(水圧破砕法)、 海洋掘削、タール・サンド、等々の言葉も
広く世の中に浸透した。そして、2014年には共和党が上院を奪還し、2016年にはドナルド
・トランプが大統領に選出された。
このような展開を示した月日は、左派にとってけっして好ましいものとは言えない。
そうは思わない左派も一部にいるけれども。

実際、私の友人の幾人かは、同時多発テロ以降、左派の盛り返しが見られたと主張する。
たしかにある程度まで、それは事実である。つまり、1980年代もしくは1990年代において
よりも、現在の方がさまざまな組織化や運動がより活発におこなわれ、あるいは左派系の
選挙運動が増えたし、民主党は10年ほど前よりも確実にネオリベラル色を薄めている。
しかし、これはあまりにハードル設定が低いというものだ。これらの取り組みの多くは
実質的な価値がうつろであり(一般市民の参加はたいしたことがない)、本当の影響力を
ふるうには至らない。労働組合はダウン寸前である。「ブラック・ライヴズ・マター
(BLM)」運動は、よくいっても、明確な形態をそなえないままである。
DSA(アメリカ民主社会主義者党)、アワ・レボリューション、緑の党、国民党、その他、
さまざまな進歩派・左派系のNGO組織は、自分の意思で選択した政治団体が規模のいかん
にかかわらずかならず直面する課題にやはり突き当たっている。すなわち、構造をそなえ
ない様態のままで、いかに影響力を構築し、それを行使するかという問題である。

このような戦略的、方法論的欠如の中で、多くの左派は政治に関し、現実から乖離した
アプローチを採っている。
ここで私が思い浮かべているのは、その政治活動がわれわれの目下の政治的、社会的構造
や物質的状況をまったく反映していないアナルコ・サンディカリスト(訳注・3)、反文明
主義の運動家、ネット左翼その他のさまざまな人物やグループのことである。
それは、まるで人々があまりに社会的に疎外された状態で長く過ごしすぎたために、自分
が現実に社会に暮らしていること-----サッチャー首相の馬鹿げた所感(訳注・4)とは
うらはらに-----を忘れてしまったかのようである。社会というものは現にあるシステムや
制度、人脈、人間関係などによって形作られるものなのだ。

多くの左派が政治活動をロールプレイング・ゲーム(RPG)と同然のように考えている。
RPGでは、プレーヤーは固有の規則、設定、規範、等々で縛られた非現実の世界の中で
行動する、虚構のキャラクターをあやつる。
アンドルー・ローリングス氏とアーネスト・アダムス氏は、その著書『ゲーム・デザイン
について』の中で、次のように書いている。
「(RPGという)ゲームの世界は、たいていの場合、思弁的虚構であり(換言すれば、
ファンタジーもしくはSF)、プレーヤーに現実世界では不可能なことをやらせることが
できる」。

革命だとか反乱だとか、あるいは民衆蜂起だとかを称揚する左派の人々がいる(これら
の言葉は、現実の労働者階級の人々を組織した経験がまったくない左派コメンテーター
たちがきまって持ち出す類いのものだ)。この手の左派たちは無責任であり、物事を深く
突き詰めず、政治的様態のRPGにいそしんでいるだけにとどまらない。危険で、むしろ
有害な存在なのだ。

政治は、究極的には、権力をめぐるものである。そして、権力は武力、強制力、もしくは
社会的統制を通じて発揮される。
既存の左派勢力はこういったアプローチのどれも採用することができないので、労働者
階級に属する米国国民に「街頭にくり出す(街頭デモに参加する)」よう呼びかけた
ところで、あまり意味をなさない。
くり返し言わせていただくが、「民衆のレジスタンス」に参加するよう呼びかける声は、
現実の労働者階級の政治組織とはほとんどかかわりがないコメンテーターから発せられる
のが一般である。
例として、最近のクリス・ヘッジズ氏の文章から引用させていただく。

「しかしながら、行動-----ここでいう行動とは、巨大な機構を粉砕すべく、大がかりで
辛抱強い、非暴力的な市民的不服従にいそしむことである-----を起こさないことは、精神
的な死を意味する……道徳的自立をつらぬき、巨大な機構と手を組むことを拒否し、それ
を破壊する力をそなえることは、われわれの個人的自由および意味のある人生を獲得する
ために残された唯一の可能性を提供してくれる。反逆はそれ自体が正当化事由たり得る。
それは、たとえ意識されないにせよ、抑圧の構造を浸食してくれる。共感と慈悲心、それ
に公正の残り火を静かに燃やし続けてくれる。これらの残り火はけっして取るに足らない
ものではない。それらは人間であるべき能力を維持させてくれるものだ。それらは、
たとえぼんやりしたものであるにせよ、われわれの社会的な死を主導しているさまざまな
力を阻止する可能性を絶やさないようにしてくれるものだ。
要するに、われわれは反逆を歓迎しなければならぬ。それによって成し遂げられるであろう
もののためだけではない、反逆によってわれわれが到達し得る存在のあり様のためである。
われわれがどんな存在になり得るか、そこにわれわれは希望を見出す」

このヘッジズ氏の言う「大がかりで辛抱強い、非暴力的な不服従」にいそしむことは、
小手先の戦術であって、長期的・大局的展望をそなえた戦略とは言い難い。また、
「巨大な機構を粉砕」することはヴィジョンの名に値しない。
このような訴えかけは、抵抗するための精神を鼓舞するかもしれないし、文章においては
見栄えがする。しかし、実際には、たいして意味をなさない-----もし、われわれが、自分
の築きたいと願っている社会について明確なヴィジョンを持ち合わせていないならば。
われわれのヴィジョンを成功裡に実現するために必要な戦略を欠いているならば。そして、
このような戦略を実行するために求められる組織や体制を整えていないならば。
再度、念を押すが、こうしたものの欠如が、次々と襲いかかる重層的な危機への対処法に
ついて人々に高説を垂れるコメンテーター諸氏の問題点なのである。ご高説を垂れること
は組織化の努力と同じではない。講評をおこなうことは戦略を練ることとイコールではない。

同様に、宗教左派の過度の道徳性追求の姿勢は、前進を手助けすることにはならない。
いったい、「道徳的自立をつらぬく力」をそなえるとは、正確には何を意味しているので
あろうか。ストライキ、あるいは、ヘッジズ氏の言う「(巨大な機構と)手を組むことを
拒否」することは、たしかに奨励されてしかるべきであろう。
しかし、これらを実践するには、支持者の、非常に統制のとれた、組織化された基盤が
欠かせない(シカゴ教員組合に尋ねてみることだ)。その支持者とは、活動に深く関与し、
権限をあたえられ、広く事情に通じて、その結果、集団が共有するアイデンティティを
身につけるに至った一般の人々を意味する。
こうした状況を生み出すためには、人々がたんに「街頭にくり出す」だけでは十分ではない。
2020年には、何百万もの米国人が街頭デモに参加した。その結果はといえば-----バイデンが
僅差でかろうじて大統領におさまった。民主党は地方選挙等で敗北を喫した。右派の抗議者
たちがクーデターをもくろんだ、等々である。
また、ジョージ・フロイド事件を契機に数々の抗議活動が展開されたが、その中から明確、
直截で、高度なヴィジョンをかかげる、永続的な政治組織が誕生したと思わされるような
証左は一つも見出せない。

米国人は長い間、「個人の自由」、そして「意味」、という概念に取りつかれてきた。21
世紀において「個人の自由」がどのようなものであるか、われわれは真摯に議論する必要
がある。
しかし、急速に増大する世界人口、および、制御し難い気候変動と生態系の荒廃を勘定に
入れると、その答えを見つけるのは容易ではない。
加えて、私は「意味」を追求することについては懐疑的であって、哲学教授のアヴィタル
・ロネル氏の意見にうなづいてしまう。すなわち、意味の追求には往々にしてファシスト
的な含意がつきまとう、と。
ここにおいて、宗教左派とファシスト右派の間には、イデオロギー上、共通の志向が
見出せる。
われわれのうちの何人かは、われわれの存在や生には本来的な意味など何もないという
想定の下で、申し分なくうまくやっていける。一方、「意味のある生」をわき目もふらず
追求する、しかもしばしば道徳的正しさという独りよがりの感覚を擁しつつ追求する人々
もいる。
「正しいことをおこなうのはわれわれの義務である」と彼らはのたまう。いや、そうでは
ない。人間には本来的な「道徳的義務」などない。そしてまた、集団的に決定された
「道徳的義務」などというものもまったくないのだ(私が会議を欠席したという場合を
除いて)。

一般の労働者階級の人々に対して左派が提供するものが、崇高な道徳的感情、反逆への
あいまいで戦略を欠いた呼びかけ、らちもない希望の示唆、等々でしかないとすれば、
一般市民はただ傍観者としてとどまり、腐敗したシステム全体が崩壊する時まで自分個人
の享楽にふける方が理にかなっていよう。確固とした戦略がないとすれば、これが、現在
われわれが耐え忍んでいるシステムとわれわれが生きている状況に対する、唯一の合理的
対処法ということになろう。
反逆は、それ自体では、正当化事由にはならない-----むろん、人間がこの地球上で何らかの
目的を持っていると信じているなら、話は別であるが。私はそうは信じていない。きちん
とした、持続可能な、戦略的な計画を有しない反逆は、政治的自殺行為もしくは空想的な
ロールプレイング・ゲームである。
「エクスティンクション・リベリオン(絶滅への反逆)」運動は、政治的実践・政治的
動員のための、この種の子供らしい、戦略を欠いたやり方のみごとな見本である。

物質的現実と深いつながりを有するヴィジョン、あるいは、目下、われわれの政治的、
経済的、文化的、社会的な諸制度を支配し、構成しているさまざまな力と深いつながりを
有するヴィジョン、を明確に打ち出せないこと-----これが、何十年といわないまでも、
少なくとも私が政治活動とその組織化にかかわってきた間(すなわち、15年間)、アナルコ
・レフト(無政府主義左派)や宗教左派が直面してきた問題であった。
「抑圧の構造を浸食せよ」という訴えかけは、紙の上では映えるけれども、現場で戦略を
練っている運動の組織者や労働者階級の人々にとってはまるで無意味である。
また、この訴えかけは、アナルコ・レフトが何年にもわたって説いてきた「反政治」と
同じカテゴリー-----失敗したカテゴリー-----に属する。絶えまなくこれを「廃止」したり、
あれを「撤廃」したりすることを求め、あるいは「抵抗」する。この地球に暮らす78億人
のために、持続可能なヴィジョンをはっきりと提示することはけっしてなく、何かを構築
したり、勝ち取ったりすることはいっさいなく、ただただ守勢にまわる。かくして、つねに
破壊に焦点を置くことになる。

資本家やボスたち、狂信的右翼やファシスト-----われわれは、われわれの敵や標的とする
人間たちの名をはっきりとかかげるべきである-----の伸張を食い止める「可能性を維持する」
ための唯一の方法は、実際に彼らの伸張を食い止めることである。
そして、彼らの伸張を食い止める唯一の方法は、「ディープ・オーガナイジング」(訳注
・5)に力をそそぐことである。
政治に対する左派の現行の取り組みはうまくいっていない。同一の手法を芸もなくくり返す
ことは、いよいよ無関心や冷笑的態度をはびこらせるだけである。道徳的説教は実効に
とぼしい。左派の「美徳シグナリング」(訳注・6)は人を困惑させるのがオチである。
影響力を有する左派の人間は、路線を転換する責任がある。

クリス・ヘッジズ氏はもう少し分別があってしかるべきなのだ。同氏は知的な方面で怠惰
というわけではないのだから。
同氏は労働運動の組織者と話をすることはないのか。同氏は動員することと組織を構築する
ことのちがいがわかっていないのか。ヴィジョンと戦略は勝利に至る必須の要素であるとは
考えていないのか。勝利とはいかなるものであるかに思いをはせることはないのか。同一
趣旨のエッセイを飽くことなく書き続けて、それに何の鬱屈も感ぜずにいられるのか。
ウォーリン、カミュ、コンラッド、フロイド、アーレントなどなどから引用し、社会の惨状
について語る。ナチスを持ち出す。締めにかすかな希望を提示し、抵抗を漠然と呼びかける。
同じ文言のループ。永遠回帰。

ヘッジズ氏の、かわりばえしないエッセイを私はもう10年間も読み続けてきたような気が
する。
25歳の時に読んだヘッジズ氏の文章は刺激的、挑発的で、関心をそそるものだった。今と
なってはもう退屈で、内容は予想がつくし、心を揺り動かされることはいっさいない。

私はまた、選挙政治に嫌悪感を抱いていると見なされているヘッジズ氏が、緑の党の候補者
として議会選挙に出馬表明したことを、非常におもしろく思っている。
どうして本格的な独立系左派メディア媒体の構築に手を貸そうとしないのだろうか。ユー
チューブで個人として活動し、自分の名前をブランドにすることに懸命な、あの一群の
バカ者どもを手助けする代わりに。
どうして「大がかりな市民的不服従」を実践するために、労働者階級の人々と手を組んで、
ことを起こそうとしないのか。
結局は、これらの取り組みはむずかしいからだ。結局は、労働者階級をめぐるヘッジズ氏の
理念や想定が、現実の試金石で試された時、たちまち溶解してしまうであろうからだ。

政治について語るのはたやすい。実際に政治をおこなうことはむずかしい。
そのむずかしい領域には踏み込まず、ヘッジズ氏は抵抗を説くおなじみの文言をくり返し
たり、選挙制度に基づいて公職に立候補したりする。その一方で、同氏は、実際に改革を
実現させている組織(DSAなど)や政治家(バーニー・サンダース氏など)について、
ふんぞり返ったような態度で悪口を言う。
そのやくたいもない雑言は、家でじっとしている人間には目が覚める思いがするかも
しれないが、現実の組織化にたずさわっている私たちのような人間にはちっとも響かない。

要するに、私は希望だの道徳的義務だのを信じていない。そしてまた、正義、公正という
概念についても、かなり疑わしいと思っている。そのような概念は、結局のところ、人を
一種の懲罰的な政治にみちびくもの、そして、その懲罰が往々にして見当違いの人々に
向けられるもの、ではなかろうか。
私が信じているのは、ふつうの人々の力である。ふつうの人々が自分の職場で、自分の
属する地域社会で、そして、自国政府を介して、力をふるうその能力である。私は国家
権力を利用する価値を信じている。現実の世界における具体的な結果の価値を信じている。
私は精神性を気にかけない。私が気にかけるのは、計画であり、規律であり、個人と集団
の説明責任である。私は勝利の価値を信じている。私は生きることの価値を信じている。

これら以外のすべては私にとって「左翼のポケモン・ゲーム」にすぎない。 そして、
そんなものに費やす時間的余裕は、私にはない。また、道学的訓示やスローガン連呼では
なく、戦略を練ることに日夜かかわっている、運動の組織者である私の知人たちも、一人
としてそんな暇は持ち合わせていない。
われわれは生きるか死ぬかの闘いに従事している。そして、銘々が自分の持てる力をすべて
出し切り、総力をあげて取り組むことが必要だ。それは、つまり、世界の惨状をことこまか
に描出してくれる人間ではなく、革命のための戦略を立ててくれる人間をより多く必要と
するということである。


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[訳注・補足など]

■訳注・1
「『冬の兵士』の公聴会」については、以下のサイトの文章が参考になります。

冬の兵士 - 岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b262670.html



■訳注・2
「予示的な政治」については、以下の2つのサイトが参考になります。

個人ブログのややくだけた解説として、

https://n-yuki.net/772
予示的政治(Prefigurative Politics)?欲しい未来は自分で

やや学問的な解説は、

http://gendainoriron.jp/vol.15/rostrum/ro05.php
「否定的な集合的記憶を乗り越えるために」日本学術振興会



■訳注・3
「アナルコ・サンディカリスト」はもちろん「アナルコ・サンディカリズムを奉ずる人」
の意で、その「アナルコ・サンディカリズム」とは、「無政府組合主義」とも訳され、
「労働組合運動を重視する無政府主義」または「無政府主義の影響を受けた労働組合至上
主義」を指します。



■訳注・4
サッチャー首相のいわゆる「社会はない」発言を指します。これについては次のサイトが
参考になります。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-05-24/2020052401_05_1.html



■訳注・5
原語の deep-organizing は日本語の定訳がないようです。職場だけでなく、地域社会までも
視野に入れた広範で長期的な(運動の)組織化の取り組みを意味するようです。



■訳注・6
元々は学術用語のようです。言い換えれば「自己の道徳性の誇示」ぐらいでしょうか。
ネットで検索すると、「自分が倫理的であることを過度にアピールするような行為」など
の説明があります)



■補足・1
書き手のヴィンセント・エマニュエル氏は、日本ではまだ知名度が高くないようです。
一応、原文サイトにある紹介文を訳しておきます。

ヴィンセント・エマニュエルは著述家で、兵役経験を有する戦争反対論者。ポッドキャスト
の配信もおこなっている。『PARC』(Politics Art Roots Culture Media)および『PARC
コミュニティー・カルチュラル・センター』(インディアナ州ミシガン・シティ)の共同
設立者。『ベテランズ・フォー・ピース』(平和を求める元軍人の会)および『OURMC』
(Organized & United Residents of Michigan City)の一員。『コレクティブ20』にも名を
連ねている。メールは vincent.emanuele333@gmail.com まで。



■補足・2
今回の一文は、現場の生(なま)の声が聞けたという感触があって、非常におもしろく
読みました。

また、文章の中ごろの、アメリカの近年のさまざまな出来事や事件、現象などが左派に
とっていかなる意味を持つものであったかが簡潔に述べられていて、勉強になりました。

なお、この一文は、「近年の左派の勢力と運動の退潮を、左派に属する人間自身が嘆く話」
という側面もあります。
そういう面では、以前のブログでも、もう少し客観的、俯瞰的な視点で書かれた、同趣旨
の文章を訳出しました。(厳密に言えば、左派ではなくリベラル派を軸とした話ですが)

米国メディアの現状・その2(リベラル派の苦境)
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/2-3ff0.html


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