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僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ふーん

2006-07-04 | Weblog

「ヒデ引退」
ニュース速報で流れるほど、それは彼が日本のサッカー界において、
図抜けた存在であったことを意味する。

なので、やめるやめないは彼が決めることで他人がとやかく言うこと
じゃないのに、何かしらとやかく言いたがる人も増える。
ほんでもって、そういう人の話を全国に広めるのがTVや新聞
の務
めなので、とやかくの意見が否が応でも飛び込んでくる。
その中で、元日本代表のラモスさんがこんなことを言っていた。

「せっかく才能に恵まれたのにもったいない。その才能を無駄にした
ら神様に怒られるヨゥ。考え直して欲しいヨゥ。」
(注:ヨゥはラモスらしさを出すために個人的に脚色)

いやー、相変わらず熱いねぇ、ラモスさんは。でも俺は自分に熱い
人はともかく、「他人に熱い」人にはものすごく冷たい人で、「まぁ
もう少し落ち着きなさいましよ」と言いたくなってしまう。
最後に、でもそれは個人の自由だからという趣旨のことをいうとか、
もっと頑張って欲しいという願望だけで済ませるならいいけど、まだ
現役を続ける"べき"なんてことを他人が言える訳がない。

人に「○○す"べき"」なんて言葉を使うのは、親が物心のつかない
子供をしつける時ぐらいのもの。それは、自分が子供のその時点の
人生に責任を持つということを意味している。

それ以外のことで、自立した他人の人生に責任を持てるはずなど
絶対にない訳で、他人の人生は無責任に捉え、意見を求められ
れば無責任に発言すること。これこそ、自らに対して
責任を持ち、
他人を尊敬した言動やと思う。
それは、家族は例外として、自分を支えてくれている大切な人達
であっても同じ。もちろん、自分が大切に思っている人が悩んでい
たり、困っていたりしたら何とか力になってあげたいとか、こうしたほ
うがいいのではないか、とか色々な感情が湧いてくるのは自然なこと。
でも、そんな感情の葛藤も最後には「無責任」に帰結してこそ、
相手にとって最も大切な意見になるはずやねん。

一言で言うと、

「ふーん」

これ以上に他人を尊敬した言葉を俺は知らない。

早速使ってみよう。

「ヒデ引退」
「ふーん」

何故かまたヒデにぴったりなのが不思議。

願わくば、俺の近くにいてくれている人達が、この記事を読んで、
「ふーん」と思ってくれていますように