僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

詰めの甘さ その2

2007-04-23 | Weblog

4/19に書いた高槻市長候補の話、結局俺は地道な行動を支持してその人に投票した。
結果は・・・約2700票差で現職市長に惜敗。

この2700票という差、鬼の首を取ったつもりやないけど、「そやからその選挙戦略はあかんて
言うたやん」と言いたくなるような差。確かにその黄色い帽子に引かれた浮動票の何票かは
集めたやろうけど、逆に倍の浮動票を損したような気がするもん。

どうも俺は今回の選挙戦略、その道のプロが立てたもんとは思われへん。ポスターにしたって、
ひどいもんやった。掲示板に他の候補者と並んで張ってあるポスターはごく普通やけど、選挙
戦の最後に張られたポスターなんかは、本人の顔を隠して(首から上が切ってある)、黄色い
帽子がフィーチャーしてあった。とにかく黄色の帽子を有権者にインプットさせて関心を引くつ
もりなのは分かるけど、選挙ポスターに候補者の顔を出さずにしかも首から上を切ってしまうデ
ザインなんて、いくらなんでもそれはないでしょ?と思うわな。

それでもなんぼなんでも素人に頼むわけもないやろから、かなり価格の安い広告代理店に依
頼したんやろかね。当然プロにも色々ある訳で、一流の広告代理店は価格も一流やけど、
作品も一流。三流はやっぱりそれなりやから。

できるだけ“無駄に”お金をかけない選挙戦を展開するのは大賛成。でも、出すべきとこに出
さないのでは、それは単なる“シブちん”。それはお金を無駄遣いする以上に、自分の行動を
無駄にしてしまうことになる。“使うべき所を見極めてそこにはしっかりお金を使う”という力は、
政治手腕にも直結してるはずで、そういう意味でも俺は今回のこの戦略が致命傷になった
ような気がするな。

この候補者はきっと次回の選挙にも立候補されるんやろう。この先も、今まで通りの地道な
街頭演説を続けられる限り、俺は応援したいと思う。

ただし、次は最低でも、黄色がダメだったから今後は緑に変えました、なんておバカな戦略
だけはやめて欲しいよねぇ。


詰めの大切さ

2007-04-19 | Weblog

4/5の記事に書いた、ずっと街頭に立ち続けてこられた高槻市長候補のこと。
ここ最近は当然、22日の選挙に向けた演説をしたはるわけやねんけど、そのスタイルが今までとえ
らく変わった。

今までは地味な格好で、ひとりでマイクを片手にひたすら自分の理念を語る、という姿勢やったのが、
昨日の朝駅でみかけたら、黄色いカウボーイハットをかぶったおじさん何人もに囲まれて、本人は何
を話す訳でもなく、なにやら訳のわからんガッツポーズを繰り返している。キャッチフレーズも黄色い帽
子のナントカ、というよう分からんコピーやったように思う。

それを見て俺はなんか興ざめしてしまった。黄色い帽子に何かの意味があるんやろうけど、それがす
ぐには分からないし、それを確認するための作業を有権者に求めるようでは、その時点で政策を聞
いてもらう、という本来の趣旨に遠回りしている。だから何をやりたいのかがさっぱり分からないし、何
より今まで「まじめにコツコツ」積み上げてきた人、というイメージが、「(きっとあらゆることにおいて)セ
ンスの悪い人」というイメージに変わってしまった。

これはもちろん本人だけの責任じゃなくて選挙対策本部長の責任に負うところが大やけど、それを
良しとした、もしくは良しとしなくとも流された本人に何よりもの責任がある。

石原都知事が圧勝した影には佐々淳行さんを選挙対策本部長において、徹底した選挙戦略を
立て、それを実行したところにあるというても過言やない。「反省」を前面に押し出したその戦略の
中でも、佐々氏が作ったといわれる「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」というコピーは秀
逸で、俺はこのコピーに引かれて石原さんに投票した人が何万人という単位でいるような気さえし
ている。

それほどに選挙戦略というのは有権者の心を左右する最後の詰めなのに、この高槻市長候補は
それを失敗してしまった(と俺は思う)。ただ、逆の意味では選挙戦略に乗せられた投票など意味
がないわけで、だからといって、この人に投票しない、というわけでもないけど、先に書いたように、
センスが悪い、流されやすい、という理由で、この候補にグっと傾いていたシーソーが、中立位置近
くまで戻ってしまったことは確か。

司馬遼太郎さんが言っていた。「人生には「やる」か「待つ」のふたつしかない。待つことも大切な
決断なのだ」と。

最後の最後、この人は今までの自分を信じて、天命を待つべきだったような気がするなぁ。


介護

2007-04-17 | Weblog

この間、テレビで老々介護についての番組をやっていた。80歳くらいのご主人が、
体の不自由になった同い歳くらいの奥さんを一生懸命介護したはる映像を、俺は
直視できなくて、すぐチャンネルを変えてしまった。

その翌日、ダイエットを始めてからはしばらくご無沙汰してるけど、会社の地下の定
食屋さんの奥さんが、珍しく犬を抱いておられるところに遭遇。どうしたん?と尋ねて
みると、その犬はもう19歳になり、後足が動かなくて、食事はもちろん、排便もでき
ないので、一人(匹)で家においておくわけにいかず、連れてきたとのこと。
夫婦でお店をやっておられるので、朝早くから夜遅くまで家には誰もいないのでそれ
しか方法がなかったらしい。
その話も俺は最後までちゃんと聞けなかった。

そして今日、弁当を買いに1階に下りたら、ビルの前にその犬がダンボール箱の中で
毛布をかぶせてもらってじっとしていた。もちろん、食堂やから犬を中に入れておく訳
にもいかず、彼(女)にはそこしか居場所がないんやろう。その犬は自分の前足をペロ
ペロなめながら、何もいわず外で主人を待っている。
その姿もやはり俺は直視できなかった。

この時の自分の気持ちは、ものすごく単純な感情表現だと「可愛そう」ということに
なるんやろうけど、そこにはどちらも自分に将来起こり得るであろう事柄やという不安
が混ざっているから、その気持ちがものすごく増幅されて、耐え難い感情になってしま
ってるんやろう。どちらも目を逸らさずに直視することが大切やし、特に老々介護の
問題については社会の構成員としてなんとかせなあかん問題やのにね。

この22日、統一地方選挙がある。
この何年間か、選挙期間外から、雨の日も風の日も真夏の暑さの中でも厳冬の寒
さの中でも、月に1度、必ずといっていいほど、駅前で演説を続けてこられた市会議
員の方がおられる。その方が今度、高槻市長に立候補されることになった。今までの
演説内容をきちんと聞いてた訳やないし、まだその人のマニュフェストを見た訳やない
から、投票については何とも言えんけど、少なくとも今までの姿勢から、この人なら市
民の為に地道な努力を続けてくれるやろう、という信頼感を持ったことは間違いない。

願わくばその人の主要な政策のひとつに老々介護の問題等に対する取り組みがあ
り、俺はそれに共感することができ、その人に投票できることを今は切に願う。

ここで目を逸らせたら終わりやもんね。


隙が好き

2007-04-12 | Weblog

しょうもないダジャレのタイトルで始めてしまった今回の話はまた盲導犬について。

先週の末やったか、こないだ高槻の駅で見た盲導犬とはまた別の盲導犬に同じ高
槻駅で遭遇。前はホームの上にいたのをしばらく見てただけやけど、今度は同じ電
車に乗り合わせて、俺のちょうど向いの席に位置し、俺が降りる堺筋本町まで一緒
やった。

犬種は盲導犬のスタンダード、ゴールデンレトリバー。そのレトリバーの「彼」はご主
人(女性)の足元に座り、じっとお仕事?をしている。また、その座っている時の姿勢
が、あごを主人のひざの上に載せていてなんとも可愛らしい。

でも、あごの載せるのは可愛いけど、盲導犬の基本姿勢ってそんなんやないよな?
と思っていると、彼はそれに気づいたかのように、今度は床に「伏せ」の姿勢でペタン
となりよった。そうそう、それが基本姿勢やろやっぱり、などと一人で含み笑いをしな
がら見ていると、なんか今度はちょっとずつ後ろへずれていきよる。やがて、自分の体
の中心が主人の足元にあったものが、顔が足元になり、体の中心はその横の人のと
ころまでずれてしまった。となりの人がそれを見て思わず笑い出したことで気づいた

人に「これ、どこいってるの、アンタ!」と言われ、スゴスゴと元の位置に戻る。もうこの
一連の動作で、俺はもう吹き出しそうになるほどのおかしくなってしまった。

こういうしぐさはおよそ「盲導犬の範」からはほど遠い訳で、おそらく彼は盲導犬の世
界では、落ちこぼれなのかも知れない。でもそのなんとも愛嬌のあるしぐさと、それで
もちゃんと主人を守ろうとしている姿勢が俺にものすごいやすらぎを与えてくれていた。

おそらくこのような図式は人間の世界でも同じやろう。完璧に仕事をこなす人はもの
すごいなぁと思うけれど、なんか面白みがなくて魅力的には感じない。かたや、たまに
軽い失敗をしながらも、そこそこ仕事をこなす、という人のほうには魅力を感じること
が多い。

それはやっぱり「隙」という一種のマイナス要因が、お笑いの「オチ」の役目を果たして
いるからで、これがないと人生は、「健康の為たばこの吸いすぎに注意しましょう」とい
うどこから見ても正しいけど、なんの魅力もない言葉と同じになってしまうからなんやろ
ね。

本来、盲導犬には一分の隙もあってはいけないもの。勝負の世界やビジネスにおい
てもそのお題目は同じ。けれど、やはりそこには隙が潜んでいて、俺を忘れないでよ、
といわんばかりに時々顔をだしてきよる。俺はその瞬間の隙がなんとも好きや。

自分自身に隙を持っていても、その時々出てきよる隙を逃さずに見つけられる人は、
隙を楽しめる人。逆に隙のない人生を送っていてもそれを見つけられない人は、意外
に隙だらけの人間やないのかねぇ。


家族は上書き

2007-04-05 | Weblog

長女が千葉県で働くことになり、会社の寮に入るため、先月の30日(金)~4月1日(日)に
かけて、家族総出で引越しをした。

ちょうど1年前、アメリカに留学に行くときは、1年間で帰ってくるということと、信頼できるアメ
リカの家族に囲まれている、ということもあったんやろう、寂しさというのはほとんどなくて、どん
なに成長して帰ってくるのかという楽しみがほとんどやった。
でも、今度は国内、しかも2時間以内には帰ってこれる距離にいるのに、やたら寂しく感じる。
それは、娘の初めての一人暮らしと、直面するであろう社会の厳しさ、それにひょっとすると一
生帰ってこないかも知れないという不安のせいなのかも知れない。

引越しが終わって帰るとき俺は、娘に声をかけたいことが一杯あった。そやのに、下手にしゃ
べるときっと自分が泣き出してしまって何もしゃべれなくなると思い、ただ、娘を抱きしめて頑
張れよとしか言えなかった。嫁も次女もきっと俺と同じ気持ちやったんやろう、笑顔で「ほなね」
とだけ言って車に乗りこんだ。
そして車がでて、娘が10mほど遠ざかった頃、嫁がこらえ切れずに泣き出した。次女も後
席で泣いている。俺も涙が止まらなくなってしまった
。長女の様子は伺い知れなかったが、きっ
と同じように涙を流していたんやと思う。

ひとりで暮らし、社会人になるということは当然娘が成長するということであり、喜ぶべきことな
のは重々分かっていて、以前にも書いたけど、極端な話、不幸になってでも人間は成長す
べきだと思うので、今回のことは悲しむ要素は全くない訳やねんけど、この涙が家族の絆とい
うもんなんやろかね。                                                                                

日本では、家族の中の子供はある程度の年齢になると結婚し、新しい家族を作るというの
が通例。でも、その新しい家族と前の家族との交流はあるものの、それはお盆と正月くらい、
というのが普通やろう。

でも娘がお世話になっていた
アメリカの家族は少し違った。子供たちが結婚して新しい家族
を作るのは同じやけど、元の家族との交流が深く、そして長い。誰かの誕生日だと言っては
集まり、日本から俺達がくる、と言っては集まり、クリスマスや独立記念日にはもちろん集まり、
箸が転んでも集まる。新しい家族が何人増えても、それぞれが孤立することなく、形と大きさ
を変えながら元なる家族の輪がきちんとあり、そこに新しい家族の輪の円周がかかっていた。

日本の歴史は古い。でもこの国は新しいもの好きで、さまざまな新しいものを造りだす能力に
長けているものの、文化や芸術を守る能力に著しく劣る。何よりも仕事第一で家族は二の
次にしてきた。かたやアメリカは、歴史は浅いけど文化や歴史を重んじ、何よりも家族大切
にしてきた。
パソコンに例えると、日本は新規作成ばかりしてて、上書き保存はあまりせず、アメリカは逆
の国やと言えるんやないかな。

もちろん、このような文化の違いは、単純にどちらがいいという比較はできない。でも、今回の
娘の引越しで感じたのは、どんなに新しい環境に変わっても、新しい家族が増えても、決し
て「元の」家族は離れてはいけないということ。

少なくとも、家族は新規作成ではなく、上書きするものだと教えられた気がします。