僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

目は口ほどにいらんことも言う

2010-03-29 | Weblog
友達から聞いた話。
今かかっているお医者さんが問診の際、自分と目を合わせないのだという。
俺は人の目を見て話しなさい、と教えられてもきたし、子供たちにもそう教えてきた
のでちょっと?と思ったけど理由を聞いてなるほど、と思った。
その理由は「目を合わせると不要な情報も入り、冷静な判断ができないから」といった
ことだったらしい。
常識や当たり前のことを当たり前にやるだけではうまくいかないことだって時にはある。
一般常識の大切さをいつも感じる俺やけど、最後の最後、相手のため自分のために
目的を果たすためには、一度常識をはずしてみたらどうなるか?ということをまず
“想像してから”試してみる、というのも大切なことなのかも知れない。

山本潤子さんの歌声に思う

2010-03-23 | Weblog
昨日何の番組だったか、特に見ようとしてたわけではない音楽番組に元ハイファイセット
の山本潤子さんがでていて「卒業写真」を唄ったはった。山本さんは俺の大好きなボー
カリストの一人であの透き通った声にいつも癒されていたのだけれど、昨日の卒業写真
は何か特別心に染みて俺は一人でボロボロと泣いてしまっていた。

理由が分からなくて泣くのはいやなので何故自分は泣いてしまったのか、色々考えてい
たのだけれど、初めて潤子さんの声を聞いてから何十年も経っているのに全く色褪せな
いその歌声の素晴らしさとそれを維持しておられる努力の大きさと無関係だとは思えな
い、ということがまずひとつ。それから、楽曲の素晴らしさは元々分かっていることだが、
その素晴らしさを潤子さんの歌声が倍増させていたからだと思った。

エリッククラプトンは「僕は一音で泣かせたい」と言った。潤子さんがどう考えておられ
のかは分からないが彼女は「一言で泣かせる」ことができる人だと思う。

翻って俺。「一言で怒らせる」ことは得意なのだが。

マグロ

2010-03-19 | Weblog
大西洋産クロマグロの禁輸案が、ワシントン条約締約国会議の委員会で否決されたらしい。
日本圧倒的不利な外交が続いていると聞いていたが、最後にそれをひっくり返したのは、
漁業者の立場からの日本の正論が評価されたのだ、と報じられていた。
外交下手の日本にしてはよくやったと思うが、単発ではまぐれということもあるので、今後
の外交にも是非期待したいところである。

それはそうと、そのマグロであるが、最近インテルのCMで「マグロをパソコンに置き換えて
ください」というのがよく流れているが、ウチの嫁などはわけがわからない、とこぼしていた。

確かに言わんとすることは分かるがなんでマグロなん?というのは誰しも感じるところで
あろう。俺としてはマグロが話題になっているこの時期だからそのような意図があるのだ、
と思ってはいたので嫁にはそのように説明したが、今回の日本側の勝利?まで読んで
いたのだとしたら、それはもう計り知れないほどの洞察力である。

情報収集力、分析力、企画力、そして“感性”全てが揃っていないとこんな芸当―まさか
とは思うけど―はできっこない。

つまりこのCMを製作した会社に“マグロ”は絶対いないはずなのだ!
というオチにつなげたいだけの話でありました。

馬鹿馬鹿しい禁止令(守れるんかなぁ?)

2010-03-18 | Weblog
俺はど素人が嫌いである。
と、いっても俺もほとんどのことでど素人であるし、ほとんどの人がど素人の分野の
ほうが多いだろうから、詳しくいうと専門分野にど素人のくせして分かったような顔
をしてぬけぬけと入ってくる人が嫌いだということである。

しかしである。専門分野にうといど素人の意見が必ずしも専門分野の人にとって無
益であるとは限らないから、これがまたややこしい。つまり「ど素人が口を出すな」
ということは簡単だが、場合によってはとても貴重なアイデアの芽を摘むことにもな
りかねない。

とするとやはり、コミュニケーション力なのである。最初から、素人の意見で申し訳
ないですが、という謙虚な姿勢の人ばかりだと苦労はしないのだが、そうでない人
にはやはり適当にご機嫌をとりながら話を聞くという技が必要になるのだから。

世の中には事実として馬鹿馬鹿しい話が山のようにあり、そういう人も数多い。
でもそれをばかばかしいと言ってしまうのは、とても簡単なことである。それはずっ
と思っていたことではあるのだが、つい口をついて出てしまうことが多かった。

でも、やはりそれでは自分自身が成長しない。だから、今日この時から「ばかばか
しい」という言葉を封印することに決め、コミュニケーション能力を高めることに決め
たのだ。

さて、ほんとに実行できるのか、ばかばかしい話だと思ってる人がほとんどでしょう
ねぇ。

数重苦

2010-03-17 | Weblog
のほほんとしている俺であるが、ここのところ結構しんどいのである。
仕事はもちろん、歳をとった母親が激しい思いこみや勘違いをしてしょっちゅう俺に
クレームをつけてくる。改築でのあまりにいいかげんでアホな業者との交渉も途中で
ある。家に帰り、ゆっくりしたい時には孫が騒ぐ(もちろん癒されもするが)。
それに加えてまたペットの優の調子が悪くなってしまった。詳しい病状は省くが、
今日嫁と娘で大阪の高度医療センターに検診に連れていった結果では、特に今何
かできることはなくただただ安静にさせるしかないという。すぐに命がどうのこうの、
ということはないのだが。

当然どれもしんどいのだが、この中で特に俺の気持ちを落ち込まさせるのはペットだ。
以前にも書いたがペットは俺たちがいなければ生きていけないし、病気を治すことも
できないので、彼になにかあると俺はなんとかしてやらなければ、という気持ちから
どうしようもなく落ち込んでしまう。本来ペットの飼い主はそういう精神状態では失格
なのは分かってはいるのだけれど。

でも俺は男の子なので、そんなことをうじうじ言っていてはいけない。
(このブログだけでは言っていいと自分で決めている)
それが男の子の矜持なのである。やせ我慢なのである。
「鉄を食え飢えた狼よ、決してブタには食いつくな」なのである。

ということでここしばらく先まで詰まったライブの予定に夢中になりたい。
4/10(土)は毛馬公園で花見がてらのストリート。5/16には高槻のライブハウスでア
コースティックライブ。8月には会社の後輩が誘ってくれた新しいバンドでのライブが
心斎橋あたりである予定だ。

これで指でも痛めたら果たして俺はどうなるんやろか?
それでも鉄を食っていたらちょっとくらいは自分をほめてやりたいものである。

米軍基地問題

2010-03-16 | Weblog
国防、となればやはり他人事ではいられない。
しかも、これが国益はもちろん、個人益にもつながる可能性があるのだから、俺はます
ます興味深々である―沖縄の人が聞いたら怒る表現かも知れないが―。
というのは、鳩山首相の「徳之島案」が出たからで。

実はこのブログのタイトルにもなっている「僕たちは一生子供だ」の名言を残した俺の
最も尊敬する友達が徳之島出身なのである。今は大阪市内に住んでいるが、徳之島に
先祖から譲り受けた土地を持っている。ただ土地といっても今は何もない山でほぼお金
になんかならない代物で、だからどうの、なんてことは全くなかったのだが、米軍基地が
くるとなればこれは全く話は別である。おそらくあの狭い島のこと、いくら海を埋め立て
るとは言っても陸上にもなんらかの関連施設ができることは間違いない。
そうなるとこれはほぼタダ同然やった土地がウン千万、いや数億、なんてことにもなる
可能性がある。

いままで散々苦労してきたこの友達。いつも俺はこいつと一緒に飲んでは、「お前を見
てたら、俺のどんな苦労も“ヘ”みたいに思うわ」と言ってたくらい、ツキも金もない
ヤツだった。でもついに苦節52年、こいつに大金が転がり込む可能性がでてきたので
ある。

大金が転がり込んでもいいくらいの苦労は十分してきたヤツだ。もう報われてもいいと
思う。けど一方でそうなったらこいつがこいつでなくなるような気もする。

最終的にだからなんだ、ということなのだが、今までの経験上、こやつの場合はいい夢
だけ見させられて奈落の底へ、となることを繰り返してきたので、今回もそうなること
間違いなしなのである。

やはり彼は奈落の底に落ちて、俺はそれを見て大笑いしている、という図が一番幸せな
んだと思うなぁ。

変わる自分のイメージ

2010-03-15 | Weblog
最近、他人から見た自分には思いもよらないイメージがあることに気がついた。
ホモと呼ばれたのはごく最近のことではあるが、先週の金曜日、初めて一緒に飲みにいっ
た会社の人達からは「おしゃれですね」と言われてしまった。

そう言われて何も嫌なことはないのだが、生まれてこの方、おしゃれなどと一度も言われた
ことがなかったし、ただスーツを着てるだけで特別何も変わったこともしていないのに、そう
思われていたことにただびっくりしてしまい「言われて“しまった”」という表現になったのだが。

どこがおしゃれなのか聞きたかったがお酒の場で他の話題があちこちで咲いていたので、
理由をとことん聞くことはできなかったけれど、どうも頭髪がないことを隠すどころか、自慢し
ている雰囲気がそのように見えるらしいね。

自惚れるつもりはないが、もし「生き方がおしゃれ」だと言われているだとしたら、それはとて
もうれしいこと。

抜けた髪はまさしく「神」ではあーりませんか。


エスキモーの話

2010-03-12 | Weblog
大好きな詩人に谷川俊太郎さんがいる。
彼の書に「ひとり暮らし」というのがあるが、彼はその中でエスキモーを題材にゆとりについて
こう語っている。

―エスキモーは食物を求めて移動を続けるが、いよいよ食料が尽きた時、エスキモーの老人
は自らその場に座り込み、他の人々も老人を残して移動を続けるという。ゆとりという言葉
の入り込む隙もない老人の生き方、あるいは死に方にかえってゆとりが感じられるのは何故
だろう?―

俺は単純に「とことん」という言葉が頭に浮かんだ。ゆとりとか余裕とか、そんなものはしょせん
力を出し尽くしていない人には無縁のものであるべきだ、と谷川さんは言っているような気が
する。

夢や理想を追い続けて努力することはとても大事である。でもその前に俺は今ここにある一瞬
に全力を尽くさなければ、そんなことを語る資格もないのだということを教えていただいた。

皆さん、どんなことでもとにかくとことんやろうではありませんか。


3歩目

2010-03-11 | Weblog
最近ものすごく思う。何事につけても「3歩目」が大切だと。

たとえば仕事。まず、クライアントに企画をぶつける。そして、相手から反応がある。
このあとの3歩(手)目こそがこの企画が通るかどうかの別れ目である。ここで、相手の
考えをにどう応えながら、こちらの考えをミックスしていくかで、魅力ある企画になるか
どうかが決まってくる(もちろん最初からある程度いい企画であることは当然だが)。

実務面でいうとPDCAサイクルにしてもそうだ。P→Dまでは勢いまかせでなんとかなる
が、Cのチェックがその業務が完遂できるかどうかの分かれ道だ。

将棋や囲碁だってそうだ。一手目と二手目まではほぼ決まっているが三手目で作戦が
決まる。

遠い過去のことであるが恋愛だってそうだと思う。こちらから好きだと告げる。
「ごめんなさい」と言われようと、「私も」と言われようと、この後の行動こそがその人の
姿勢を決める。

新しい会社で1ヶ月半が経った。雇ってもらい依頼された仕事をこなすのが1歩目で、
徐々に完成していく俺の仕事の内容が評価されてゆく今の時期が2歩目である。
次の3歩目は何か。自分の評価で高いところ、低いところはどこかをしっかり把握し、
それを自分の力に変えるだけでは、あまりに当たり前の一歩である。
俺の3歩目は、会社全体を見渡し、自分をどこにポジショニングすれば自分が一番輝く
ことができるのか、そこまで考えた仕事をすることだと思っている。

会社のみならず世の中を動かすような仕事をする。何をホラを吹いているんだ、と言わ
れるかも分からないが、その位の気構えで仕事しないと、自分のポジションというもの
は確立できないと思う。

単なるホラで終わる確率99%であってもね。

選択

2010-03-10 | Weblog
ブログに書くのはちょっとためらうが、ちょいと友達から相談を受けたことがある。
実はこの友達、家庭を持ってはいるがあまり世間に言えない関係のお付き合いもなさって
いる。そのことで相談があったのが、「連絡が途切れた場合どうするか?」ということである。
詳しく聞くとお互いに電話番号もメールアドレスも分かっているのだが、相手から連絡が途
絶えたらしい。思い当たるトラブルもないという。となると、相手に電話やメールができない
事情が発生した、と考えるのがこのような特別な状況下での判断なので、下手に連絡する
とそれが相手の抱えている状況をもっと悪くする可能性がある。だから事情のあるほう(今
回の場合は相手の方)から連絡があるまで待つしかないと思うけどどう思う?とのことだった。

ふむふむ、と聞いていた俺であるが、基本的に俺はこの友達の考え方に賛成である。
こういう状況下の常識というものはよく分からないが、世間ではお互いの生活や立場があ
ってそこに基本があることは間違いない。ならばお互いそこに影響する可能性のあることは
しない、というのが暗黙の了解ではないかと思うからだ。

仕事や家庭でも難しい選択に迫られることが多くあるが、それ以外にもまた難しいことがあ
るものだ。

とても結論を導きにくい問題ではあるが、ようするに人生は表裏一体、ということでまとめ
ておくことにしよう。

謙虚は自信の裏返し

2010-03-09 | Weblog
本当に自分に自信を持っている人はとても謙虚である。
俺が思うにそういう人は、「おごり」や「油断」が自信の一番の大敵である、ということを
知っているからだと思うのだが。
しかし、謙虚だけでは自信の根拠ができない。自信をつけるまでにはこれとは逆に位置
する「暴挙」に近い行動が必要な時もある。

冒険家の三浦雄一郎さんの子供時代の話がある。
まだ小学生ぐらいだった三浦さんは台風で川が氾濫した時、その濁流を流れてくる丸太
に乗って遊んでいたそうな。たぶん普通の子供がそんな遊びをしたらひとたまりもなく帰
らぬ人となってしまうだろうが。
驚くインタビュアーに「あの時はちょっと危なかったかもわかりませんね」と平然と答えて
いた三浦さんに持って生まれた冒険心と運の強さを感じたことを覚えている。

その三浦さんは今たしか78才になられてると思うが、実に謙虚に自然と向き合い、自分
を見つめて心身を鍛えておられる。またエベレスト登頂に挑戦したい、というようなこと
をおっしゃる自信の裏づけはこのようなところにあるのだ、と感服しているところである。

さて、翻って自分自身。とにかく自他共に認めるのは「運の強さ」である。
三浦さんほどではないが、子供の頃生死に関わるような無茶な遊びをいっぱいしたのに
大した怪我もなく今も元気である。43歳の時も50歳を超えたあとも無事転職できた。
人生の節目節目で俺を支えてくれる人にも出会う。

なのに俺がほんとにどうにもならん人間であるのは三浦さんと違って「運の強さにおごっ
ている」ことである。
これからは運だけで生きていけるわけがないのは分かっている。だからそれなりの努力
をしているつもりではあるが、やはりまだまだ甘い。
今度は「ホモ」関係から何か面白い話でも降ってこないかなぁ、とひそかに考えている俺
なのであるから。


「彼はホモだ」事件

2010-03-08 | Weblog
昨日、先日のブログに書いたように久しぶりのライブをした。
こういうものは結果がどうのこうの、と言えるものでもないが、アットホームライブ、と
いう位置づけもあり、いい意味で緊張感もなく、ほぼ練習通りに演奏できたので、ま
ずまずだったと思う。

と、ライブの報告はこれくらいにして、タイトルの件である。
突然「ホモ」なんて言葉がきたら、何のこっちゃ?と思うのが普通の人の感覚やと
思うから、普通の人はこれから書く話を聞いたらきっと唖然とするだろう。

タイトルの言葉は、以前に在籍していた会社の社長が発したものである。
前の会社で親しくしていた同僚から最近聞いた話だが、色々あって転職したにせよ、
結果的にライバル会社に籍を置くことになった俺をどうもこの社長は“裏切り者”と位
置づけたらしい。
社長はこのことを同僚に伝えるために、彼を社長室に呼び、「彼は会社を裏切ったの
だから今後彼とは個人的にも付き合うな、ということを言った。しかし、同僚が個人
的なことまで関与される覚えはない、というようなことを言い返した所、発せされた言
葉がタイトルの「何を言っているんだ!君は知らないのか!?彼はホモだぞ!」
だったそうな。

さすがにこれには俺も腰抜かして笑ったね。50数年生きてきてホモやと言われたこ
とは初めてやったし、根拠が全く分からんし、もう1万歩譲って俺がホモやとしても付
き合ったらあかん、とは結びつかへんし、もうどうにもならんくらいあきれ笑いした。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ということわざがあるが、それなのかねぇ…。まぁ理由
は本人にしか分からんにせよ、俺もそこまで嫌われたらあかんわな。もうちょいとうま
いこと立ち回る術を知ってなあかん歳やし。

でも、今回このことでとても自分自身にとって良かったと思うことがひとつあった。
実はこの社長、最近体調を崩されて入院されているそうなのだが、それを聞いた時、
俺はとても心配になった。言い争いもし、ホモと呼ばれ(これを聞いたのは入院の話
のあとだが)ても、純粋に世話になった前の会社の社長が心配になった俺自身に少
し安堵したのがその理由だ。

とにかく何があってもお世話になったことには間違いないわけで、俺には今感謝しか
残っていない、とは思っていたが、自然とそう思えたことが自分の中にきちんと精神
の健全な部分が生きていることを証明してくれたのである。

前の会社での戦いは終わった。ラグビーは試合の終わりを「ノーサイド」と呼び、
その瞬間敵味方はなくなる。
俺にはこの「ホモ発言」が完全なる試合終了のホイッスルに聞こえた。

ひさりぶりのライブ

2010-03-05 | Weblog
今度の日曜日、数年ぶりにライブをする。
といっても休止中のバンドではなく、友達夫婦と私たち夫婦の4人でやるアコースティック
バンドである。アコースティックギターは当然でかい音がしないので家の中でも気軽に楽
しめる。そういうことで友達夫婦が来ると我が家でギターを弾いて遊ぶことが多かったの
だが、そうこうしているうちにやっぱりなんか目標がないとただただ歌っているだけじゃ
つまんないね、となり、じゃあちょっとライブでもしてみようか、ということになったのだ。

まぁその背景には、気軽にライブをさせてくれる店を知っていたこともある。それは高槻
にある小さなライブバーで、俺がいつも一人で行ってその店にいる人たちと一緒にギター
を弾いて楽しんでいる場所だ。たまたまその店ではサンデーライブについては無料―飲
食代のみで通常の料金―でさせてくれる、ということを聞いていたので、マスターに実は
こんなことで一度ライブをしてみたいんだけどどうだろう?ということを尋ねたらとても心
よい返事をくれたのでいよいよ実現の運びとなったのである。

日曜日の夜なのでお客さんが何人いるかも分からないが、たとえそれが一人でもいて
くれるのなら、やる以上全力で練習する必要がある、というのが俺のモットー。
予定曲は5~6曲で、30分ほどのミニライブだが、これに備えて皆が忙しい時間を調整し
て7~8回の練習を積んできた。

とはいえ、全員がど素人な訳で、どない聞いても惚れ惚れするとまではいかないが、何か
ひさしぶりにとてもワクワクしている。

とても僭越ではあるけれど、きっとオリンピックにでた選手はこんな気持ちだったんだろ
うな。

俺なんかに言われたくはないだろうが、オリンピックに出た選手たちはやはりそれだけで
十分ではないか。

なんでこうもおかしなことがまかり通る?

2010-03-04 | Weblog
ずっと私のブログを読んでいただいている方にはお分かりかも分からないが、私には腹を
立てるシーンが結構ある。性格的にはきっと穏やかなほうだしのんびり屋だし争いごとが
好きな訳でもないので、俺が腹を立てる時はよっぽどなのである。

そのよっぽどのことが昨年末から今まで続いている。それは家の改築のことなのだが、信
用して選んだ業者がそれはそれはええかげんなことばかり言い始めたので当然のごとく俺
はキレてしまい、担当営業を家に呼び、論理的にこてんぱんに責め立て、なんらかの責任
を取るべきであるという話をしていた。その流れで昨晩そこの本部長というのがとりあえず
一人でやってきて、話をしたのだが、これがまたどっかの政治家みたいに言い訳やすり
替えやばかりでイエスノーで答えろと言っているのにのらりくらりと逃げ回ってばかりいる。
あまりに話にならないし時間がもったいないので、待機させていた営業を呼んでその本部
長の前でことのいきさつを再確認し始めたらとたんにこちらの話を遮り、担当営業の対応
がまずかったのでその責任を取れとおっしゃっているんですね、なんて今までずっといい
続けていたことを認め始めた。営業には本部長の目の前で言われたらまずい対応がいくつ
もあったし、本部長も私の目の前で営業がその事実を認め始めたらどうにも言い訳できな
い、と思ったんやろう。

もうどうにもならんくらい腹を立てていた俺はまたその変わり身の早さに腹が立ち、もう
とことん責め立ててやろうと、別の営業の対応を責め始めたらもうこちらは責任を認めた
んだからその話はいいじゃないですか、と言い出す始末。「そんなの関係あるかい、俺の
気が済むまで俺は確認を続けるぞ」「いやもうそれはいいじゃないですか」をたぶん50回
くらい―おおげさじゃなく―言い合ったやろね、営業の立場も糞も可愛そうだのなんだの
も一切考える必要もないほどの手落ちが先方にあったことを考えると、とことんやってし
もたるのは至極当然のことやと思っていたのに、あまりの馬鹿馬鹿しい言い争いに疲れ
果ててしまって、結局もうそこはええかげんに終わらせてしまうことになってしまった。

おかげで今日はその気分の悪さが二日酔い―飲めないのでなったことはないがきっとこう
いう気持ちかな―のように今日まで続いていて、恐ろしいまでに忙しくなってきた仕事に
も多少は影響しかねない始末。

来週の火曜日にその責任の答えを出すといって帰った本部長だが、どうなることやら。
そこで納得できる答えがなければ、俺はそこの最高責任者に直談判すると言ってあるし、
今までのいきさつをまとめてどこをどう辿っても矛盾や無責任に行き着く―わざとでは
なく整理すると自然とそうなる―フロー図を作ってあってそれを最高責任者に渡すとも
伝えてある。
実はこのフロー図、営業も本部長も口を揃えて「私たちが責任を持って責任者に渡すか
らその書類を預からせてもらえないか」といい続けている。あなたたちのような信用で
きない人には預けられないので私が責任者に直接手渡す、といったらそれだけはやめて
欲しい、てなことを言っているので、たぶん責任者に知られてはまずい対応をしたこと
を本人達も分かっているのだろう。だからもちろんその図は渡していない。最後の最後
どうにも納得いかんかったら何らかの方法で直接責任者の手に渡るような方策をとり、
その後企業責任まで追及してやるために。

ここまで書いてなんて嫌なことを書いているんだろう、と思う。読んでいる人だってきっと
楽しくない話題に違いないのに。でもやっぱり書くのをやめられない。

それは、やはり“間違ったことがまかり通る”ということがあまりに多すぎるから。きっと
忘れやすい国民(日本人)性ゆえ、何でもすぐ忘れて許してしまう、という風潮が少なから
ず影響していることも間違いないように思う。

私のこの戦い、実は相手はとても大きな企業である。それだけに個人の正義が押しつぶ
されてしまう可能性もある。だからこそ私は戦いたい、ということを書かずにはいられな
かった。
一人(もちろん家族も一緒だが)でも正しいことがきちんとまかり通る、ということをせめて
実感させてもらえないと、あまりにそれは悲しいではないか。

スポーツか芸術か

2010-03-03 | Weblog
終わったとはいえ、まだ続くオリンピックの余韻。
その中で自分に何かモヤモヤした気持ちがあったのだが、原因が分かった。
それは多数の人が感じている採点基準があいまいな競技のことだ。
スポーツの順位づけはそもそも速さと強さを点数(誰がみても同じ判断)化
することで決定するものだと思う。スピードスケートは100分の数秒の差で
もはっきりと勝敗が分かれるし、アイスホッケー等であれば、点数の多い
ほうが勝ち、と極めてはっきりしている。スキーも基本的には速さで勝敗
が決まる競技ではあるがモーグル等は速さという基準はあるものの、その
他の技術加算点がもうひとつ明確ではなくなんかうやむやとしてものが残
る。そしてやはり究極はアイススケートである。男子の2位になったプルシ
ェンコ選手が“はっきりと差別化できる”「4回転ジャンプ」が評価されない
のはおかしい、と言っていたが全く同感である。
浅田真央選手にしてもしかり、誰も飛ぶことができない3回転半ジャンプは
もっと評価され点数化されてしかるべしだ。女子で優勝したキムヨナ選手の
演技は素晴らしかった。浅田選手よりも重かったであろうプレッシャーに打
ち勝った精神力も感服に値すると思う。でもそれは点数化できない。確かに
見ていて彼女はとても優雅で美しかったが、アイススケートは芸術性で戦う
のではなくスポーツ(=運動能力)として戦うからオリンピック競技なのである。

もっと「誰にも真似できない運動能力」を点数化して競い合う、ということを
根幹に据えないと、それでなくても政治色が強いのに、もうスポーツの祭典
とは呼べなくなってしまうだろう。

それでは真のスポーツ選手が可愛そうだと思うのだ。