僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ブログとは

2015-11-25 | Weblog
フェイスブック等のSNS嫌いを友達に話をしたら、「そういうあなたもブログという不特定多数に対する大量発信をして似たような利用の仕方をしているんじゃないの?」と手厳しい指摘を受けた。
ま、確かにその1面はあるだろう。が、基本的スタンスがまるで違うので、ちょっと言い訳をしておきたい。

とにかく一番大きな違いは「出会い」や「繋がり」を求めるか否か、ということだ。

フェイスブックは基本実名で、発信した情報、受信した情報を利用して、輪を広げようとするものだ。それを利用して友達(こういう広がりを友達とは呼びたくないが便宜上こう呼ぶ)を作ろうとする。
方や、ブログは匿名であり、読みたい人に読んでもらって、特に誰かと繋がろうとするものではない。いわば世間に記事を一方的に発信しているだけで友達を増やすなんて目的はまるでない。そこが大きく違うのだ。

生死には倫理がある。私は出会いにも倫理があると思う。自分はここにいるよ、と誰でも彼でもに発信して誰かと繋がろうなんてのは、出会いの倫理を逸脱していると思うのだ。
会社で出会う。店で出会う。同窓会で出会う。町内会で出会う。音楽で出会う。出会いは動いている人と人が会ってこそ出会いというのではないか。労力を惜しまずにたまたま「繋がった」だけで、友達が増えた、なんていう人がたくさんいる。私はそんなふうにはなりたくないしなれない。

この記事を読んだ人が、「そうそうそうだよねー」とか「そうとは思わないよー」と勝手に思っていただく。繋がりなんて求めていない。それがブログである。

友の畑は

2015-11-20 | Weblog
数日前の徳之島の50年に一度の大雨。
友だちが植えたグリーンピースの種がどうなったか心配していたが、なんとか最小限の被害で済んだらしい。

とにかく農業は、やらなければ絶対にできないし、やっても絶対できるとは限らないという限りなく厳しいものである。これからがまた大変らしいがなにわともあれ最悪の事態にはならずホッとしている。

フェイスブックやライン等のSNSが全盛だ。私も色々なバンド仲間から連絡に不便だからフェイスブックを始めたら?と言われるが断固として拒否し続けている。友達限定で公開できるとか、嫌ならやめればいいとか、色々なことを言われるが、とにかく言いたいこと、そこで起こっていることの温度が伝わらないのが一番嫌だし、自分の行動を人に知って欲しいとも思わないし、人と人はそんなところで繋がるものではない、という思いがやっぱり強いから。


「トンボ釣り今日はどこまで行ったやら」、これは江戸時代の俳人、加賀の千代女が帰ってくることのない、亡くなったわが子を思いよんだ句であるらしい。SNSなどなくても、いや、ないからこそ伝わる激しく切ない思いに心が揺り動かされる。

「友の畑は今日どうなったか」私にはこれだけで十分なのである。

何も言えない

2015-11-18 | Weblog
徳の島で50年に一度の大雨が降った。何か所かで崖崩れも起こっていると聞く。
徳之島は、私の最も尊敬する友が奥さんと二人で1年前から農業を始め、お母さんの面倒を見ながら、必死で生きている場所である。

つい、3ヶ月ほど前、この友人が植えた苗がゲリラ豪雨で流され、1200坪ほどの作物が収穫できなくなった。立ち直る間もなく今度は50年に一度の大雨。しかも今回も新しくグリーンピースの苗を植えたばかりだった。

今朝電話で話をしたら、家等には被害はなく、怪我人もいないとのこと。ただ、グリーンピースがどうなったかは、今日の昼から畑に行ってみないと分からないらしい。

どんな時も弱音を吐かず、もし弱音を吐いても、決して逃げ出したことのない友が、今度苗が流されていたら、もう立ち直れないかも知れない、と言う。その苦悩は私のような甘ちゃんには計り知れないとんでもないものだということが分かる。

人として最も尊敬できる生き方をしている彼らになぜこうも苦しいことばかりが起こるのか。果たしてホントに神様は頑張った人に報いてくれるのか。

「頑張れば必ず報われるとは限らない」という曽野綾子さんの言葉があるが、それは自らの能力面においてである。自然がこんなに頑張っている人ばかりを苦しめるなんてまるで納得がいかない。

でも私にはただ苗の無事を願い、こちらからできる支援はなんでもする、ということしかできない。有形・無形に関わらず少しでも勇気づけられるような支援をすることしかできない。

これ以上、何も言えない。何も言わずにただ、友に思いをはせ、自分を懸命に生きることしか友への支援はないのだ。

溢れる

2015-11-18 | Weblog
「溢れる」という言葉が好きだ。

先日、大好きなお好み焼き屋さんで飲んだお酒(ちょっとは飲めるようになった)はカップから溢れていた。
お世話になった人にお礼の品を送ったら、溢れんばかりの品をありがとうと返事があった。
孫のカチューシャ?(頭の飾りみたいなやつ)をうっかりちぎってしまい、孫を泣かしてしまった。その目には涙がいっぱい溢れてた。

心持ちも同じであろう。
「溢れる思い」を抱けたら、人はきっと幸せに違いない。

分からないことの素晴らしさ

2015-11-10 | Weblog
「いくら考えても理由は分からないが、好き」

私はこれほど説得力のある「好き」はないと思う。
例えばいい音楽。どこがどういいのかなんてよく分からないし考えようともしない。説明せよと言われれば説明できないことはないが、説明すればするほどつまらなくなる。好きなものは「ただいい」から好きなのだ。
しかもこれは思考力の問題ではない。いくらノーベル賞級の頭脳を持っている人にもきっと分からないし、分かりたくないとも思うのだろうから、「好きな理由の分からなさ」の価値は分かることよりよほど高級なのである。

そう言えば、詐欺師は、最もらしく分かりやすい理由の言葉を並べて人を騙すらしい。
もし誰かに、「よく分からないけどあなたが好き」と言われたら、きっとその人は信用できる人です。


世界一の友人とその家族

2015-11-04 | Weblog
徳之島で暮らす友人がいる。
約1年前に故郷の徳之島に帰郷し、一から農業を始めた。
奥さんと二人で1200坪×5の畑でさとうきびを作っている。
しかもそのほとんどが手作業だ。近くの農家からは農業をなめるな、と叱られているらしい。
それでも彼らは出費を抑えることもあり、彼らはこの1年自分たちのやり方を貫いた。
結果、5つある畑のうち1つの畑では栽培がうまくいかず作物が全滅になってしまった。

農業のやりがい、癒しは収穫があってこそである。彼らの苦悩はもう想像を絶するものであっただろう。
それでも彼らは今日も畑ではいつくばって仕事をしている。どんなに疲れていても年老いたお母さんを笑わせ続けている。
不可能だと言われても、無茶だと言われても、彼らは生きるため、大切なお母さんを守るため、それをやり続けている。

57歳である。これからも歳を取る。身体も心も弱ってくる。この先このままの体制で農業を続けるのは、本当に難しいだろう。
どこかで機械の導入も考えないといけないかも知れない。

でも、彼らの前では全てがくそくらえである。
失敗しても成功しても彼らの生き方ほど全うなものはこの世にない。
彼らはあらゆることを誰のせいにもしない。
ゆえに、彼らの生き方はあらゆることを凌駕する。
何万語の言葉より、生き方だけで全ての人を納得させ黙らせる。

彼らに教えてもらった。
人には目の前のやるべきことをする以外何もないのだ、と。

世界一の友人、世界一の夫婦、世界一の家族に幸あれ。