僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

点数のない試験

2006-09-30 | Weblog
最近の飲酒による事故をきっかけに自動車による事故が糾弾されている。

ついこの間も、わき見、というか助手席のカセットを操作しようとして、園
児の列に突っ込み、何人かの幼い命を奪うという事故があった。

俺は飲酒はしないものの、わき見運転はたまにしていたので、改めてその
行為の恐ろしさに気づかされ、最近は車に乗るのが恐ろしいとさえ感じる。

でも、慎重に車を運転することに勝るものはないけど、あまりにも慎重に
なりすぎると返って慎重さを欠くということになる場合があるので、少しは
大胆さも必要になる訳で、この頃合がむずかしい。

このようなバランス感覚は決して学校の授業では教えてもらえないことで、
能動的にせよ、受動的にせよ、社会で授業を受けて、自分で身につけ
るしかない。
しかもこの授業の成果は点数に現れないので、その力の測り方はそれぞ
れ個人の裁量にまかされている。

で、もう一度自分のバランス感覚を考えてみてたら、重大なことに気が
ついた。
自分はバランス感覚に優れているとずーと思ってきたこと自体が思い上
がりであったことを。

慎重という言葉がもっとも似合わん俺やけど、車だけは肝に銘じて慎重
に運転しようと思います。

知ってゾッとする時

2006-09-29 | Weblog

いい季節になってきたのでまたバーベキューやキャンプに行きたいなぁ、
と思ってるねんけど、それで一度だけゾッとしたことがある。

ウチのキャンプはペット連れ込み可能なキャンプ場が空いている限り、
犬の優も一緒に連れて行く。ゾッとした出来事が起こった(正確には
起こって“いた”)のはそのキャンプでの一日。

キャンプでは料理が楽しみのひとつ。定番の焼き肉類から、バーナー
を使った本格料理まで色々とするんやけど、その日は焼き鳥がメイン
で、まぁ、いつも通りとてもおいしく食べた。

翌日、朝起きて皆で散歩と散策と優の散歩を兼ねて近くをぶらぶら
と歩く。この朝のすがすがしさもまた、キャンプの楽しみで、皆元気だ
った。

昼近くになり、そろそろ引き上げようかと思ってる時、優が少しだけ
もどした。けど、彼にはよくあることなので大した心配もせず、現地
を引き上げて帰路に着いた。

やがて家に着いた頃、もどしはしないものの、何か優に元気がない。
でも熱がある訳でもなし、キャンプで疲れただけやろと思い、特別
医者に連れていくでもなく、そのままにしていた。
案の定、翌日には元気を取り戻しいつもの優に戻っていた。ただ
少し食欲がなかったのだけれど。

そしてその恐ろしい出来事が起こったのはキャンプから戻った2日後。
朝、優がウンチをしていたので片付けようとウンチの近くまで寄ったら
なんかウンチの形がおかしい。近づいて見てみる。うん?やっぱり普
通か・・・えっ!?アメリカンフランクフルト?なんかウンチがアメリカン
フランクフルトの形に見える。まさかこの犬はアメリカンフランクフルト
を丸呑みしてそのままウンチで出したんか?俺の目が悪いのかと思
ってもう一度よーくよーく見てみると確かにウンチの真ん中に串のよ
うなものが刺さっている。やっぱりアメリカンフランクフルトや・・・と思
いもう一度よーく見直してみると、それにしては串が少し細い。
???!!!そこでようやく恐ろしい現実が分かった。このウンチ
はアメリカンフランクフルトなんかではなく、普通のウンチの真ん中に
キャンプで皆が食べていた焼き鳥の串が刺さっていたものだったのだ


それが分かった瞬間、もうなんか全身から血の気が引いた。優は皆
が食べていた時知らずに下に落としてしまった焼き鳥を串ごと食べ
ていた。串の長さはおおよそ16~7センチ。しかも先が尖っている。
一体どうやって食べたのかも疑問やけど、それがウンチとして、しかも
ホントにアメリカンフランクフルトそのもののようにきれいに真ん中に串
の刺さった状態で出てきたのがもっと不思議。胃はまだしも、腸は
複雑に曲がりくねっている訳で、串が腸を突き破ってしまうというおそ
らく命を落としかねないような重大事態に至らなかったことが奇跡だ
った。

奇跡が起こった要因はふたつあると思う。
ひとつは串の向きがよかったこと。ウンチの出方から見ると、尖ってい
るほうが後ろになっていたので、なんとか腸に突き刺さらずに済んだ
んやろう。
もうひとつは優の胃腸が強かったこと。小さい頃から何でも食べ-
この何でもというのは食べ物以外も-何でもウンチで出していた。
特に牛革製品はお好みのようで俺の名刺入れは今3代目に入って
いる。


分かってからでは遅いんやけど、まぁ一応そんな重大事態に陥って
いた訳やからお医者さんに連れて行って見てもらったら、今となって
は胃腸を保護する薬を何日が飲ます以外にないですね、というこ
とやった。でも今回、その場で串ごと焼き鳥を食べたことが分かって
いたら、即病院へ連れていっていたはずで、その場合はどうなって
いたのですかと質問すると、その時はその場ですぐ開腹手術という
ことになるが
、腸を開くなんていうのはそれだけで命に関わるような
大手術で、どうなっていたか分からないということやった。
だから結果から言えば今回の事態は最善の方法で解決された訳
やけど、ホンマに今思い出してもゾッとする出来事やった。

あれから我が家が焼き鳥をする時はもう皆必死で串を握り、絶対
下に落とすなよ!と声をかけ、まるで海猿かのごとく、焼き鳥の串
をバディーとして守り続けているのであります。


天才肌は天才ではない

2006-09-28 | Weblog

俺は基本的に天才肌なのだ。
でもこれは自慢するわけじゃなく、逆にコンプレックスに近いところで。

自分で言うのもなんやけど、子供の頃からカンがいいほうで、全体
像を見るのが得意。いわゆる木よりも森を見るタイプやったので、
細かいことはできんけど、ほとんどのことは一度見るなり聞くなりする
だけで、理解してそこそこ形だけは整えることができた。
運動しかり音楽しかり。勉強はできんかったけど、周りはできる奴や
と思ってたみたいで、これがまた天才肌たる所以のひとつ。

なんかやっぱり自慢やないかい、というツッコミが聞こえてきそうやけど、
実はこれが逆にコンプレックスなのよ。

ようするに天才肌は、大した努力もせんのに、何でもすぐ人並み以
上にできるようになり、それに加えて求めることの結果がすぐに見え
てしまうので、結果から逆算した超省エネの最小限の努力しかしな
い。当然、できることのひとつひとつをとれば、コツコツと努力する人
にやがて追い抜かれることになる。つまり俺ができることには全て、
俺よりできる人がいる。
その結果48歳になった今、何をさせても平均以上にはできるけど、
何一つずば抜けたものがないという、早い話が何の取柄もない人
間になってしまった。

天才肌はあくまでも「肌」であって天才じゃない。
天才はほとんど努力しなくても、その道にずば抜けた力を発揮で
きるか、もしくは、考えられないほどの努力をすることができて、ず
ば抜けた力を発揮できるかのどちらかで、いづれにしても他人には
決して真似のできないことができる人。
だから、天才なら少しくらい自慢してもいいけど、天才「肌」はしょ
せん何もできないほんとにくだらないものなのだ。

何年か前にそういうことに気がついた。まさにお肌の曲がり角なのか
も知れんねぇ。


2006-09-27 | Weblog

前の会社で、こっぴどく叱りつけた後輩が何人かいる。
それが原因やないとは思うけど、今その時のかわいい後輩達は誰もそ
の会社に残っていないようだ。

自分も辞めたくせに、何となくそれを寂しいと思ったり、大体からして、
そんなことを思い出すこと自体、秋の夜長とはよく言ったもんであります。


墓生まれのデスキート

2006-09-26 | Weblog

今日は広島でビデオ撮影をしておりました。(AVちゃうで)
撮影場所は、目の前に「トトロの森」に似たこじんまりした森があり、
周りには畑が広がるとてものどかなシュチュエーション。

そしてそのトトロの森の前で撮影を始めた直後の出来事。
撮影スタッフを始め関係者3~4名の腕になにやら黒いものが集まっ
てきている。まさかススワタリか、と思ったけど、ちょっと違う。そのうち
俺を除く皆が「うわっやぶ蚊や!」と声をあげ、はたくやら、走って逃
げ出すやらしだしたので、それが蚊やということが分かったんやけど、
ものすごい数の蚊が一気に集まってきてたみたいで、一瞬何かの区
別がつかへんくらいやった。その後は、何故かかゆみ止めを持ってい
て、しっかり塗りこんでるスタッフや、あちこちをかきむしっているスタッ
フやらで、撮影現場はちょっとしたパニック状態になってしまったのだ。

ところで、ここである疑問があるに気がついておられる方がちらほらお
られると思うねんけど。
そう、「あんたはなんともなかったの?」という疑問。

で、答えから先に言うと、何ともなかったんやね、これが。
では理由を説明いたしましょう。

俺の家の真横にはお寺があり、そこでは、墓のお水受け(っていうの
かな?墓石の前のお水を入れるところ)でボウフラが孵り、毎年蚊が
大量発生する。そしてこの蚊達は、墓で生まれるなんて、これは果
たして輪廻なのだろうかなどと、悠長なことを考えていられるような
生易しい奴らではなく、肌は真っ黒で、墓生まれの
猛烈な生命力
とかゆみ毒素をもっているのである。その血に対する貪欲さと言った
ら通常の蚊では測り知れない。
昔、俺の腕に止まっている蚊を見つけ、たたこうとしたら、何か逃げ
る気配がない。よーく見てみると真っ黒なはずの蚊が赤く、そしてそ
の腹はもう血でパンパンに膨れ上がっていた。そう、この蚊はあまりに
も大量の血を吸ったため、もう飛ぶことも動くこともできなくなってしま
っていたのだ。なんてバカな蚊なんやと思う前に、俺はそのあまりの
強欲さに小さな恐怖を感じたほどやった。

そしてかゆみ毒素はどれほどのものか。
ある日初めてウチに遊びにきた友達が、玄関でインターホンを押し
て待っていた。それから俺が玄関にでるまでのたぶん30秒~1分位
の間にその友達はその蚊に襲われ、部屋に入ってきた時にはもう
腕全体が腫れ上がっているような状態やった。
嫁が初めて家に来たときはもっとひどくて、たぶん熱を出していたよ
うに思う。
それ以外にも友達がくるたび、皆、例外なく彼らに襲われ、あちこ
ちを腫らしては、かゆいかゆいともがき苦しんでいたのだ。

俺は、そんなそんなけたはずれの奴らをモスキートならぬデスキート
と呼んでいるのだが。

俺は生まれた時からそんな奴らに刺されて育ってきたので、早い話、
蚊に免疫ができている。それも、そこらで見かける、なまっちょろい蚊
ではなく、なんたってデスキートに対する免疫が。

で、免疫があるとどうなるのかというと、まず、寄ってくる蚊の数が免
疫のない人より圧倒的に少ない。たまに寄ってきて刺されても、腫
れ上がってかゆくて仕方がないなんてことはまるでなくて、悪くても
かゆいといえばかゆいくらいの感覚。それも数分でその感覚もなく
なる。

最初の話に戻ると、俺はあたふたするスタッフの間で、たまに俺のと
ころにやってくる自殺志願の蚊を平然と成仏させていた。

今度はもう彼らの墓場はありませんようにと願いながら。


才能は眠っている

2006-09-25 | Weblog
才能には「眠る」という表現が一番似合っている。

昔から一緒に音楽をやっている友達にまさしくその表現がぴったりの
女性がいて、何十年も前に作ったのに、今聞いても素晴らしいと思
える曲を何曲も持っている。
おそらくこの内の何曲かは世に出るチャンスさえあれば、きっとヒット
チャート入りするだろうとさえ思う。

俺の友達にそういう人がいるということは、世の中にはこういう、知ら
れなくとも素晴らしい才能を持った人がものすごくいるということや。
世に出す力も才能ではあるやろうけれど、そういう「基本の才能」の
ほとんどは眠っている状態で、そこらじゅうに散らばっている。

これではなんとももったいない。こういう才能を何とか世に出してみた
いと思うし、そんな仕事も面白いような気がする。

その具体的な方策はこれから考えるとして、俺の人の才能を見抜く
才能が眠っているのが問題なのだけれど。

桑田に必要なのはタイガース魂

2006-09-24 | Weblog

俺は言わずと知れた大の巨人嫌いで―この巨人は野球のジャイアンツのこと
やけど真のアンチ巨人はジャイアンツと呼ぶことさえ嫌い、大阪弁で“きょじん”
と蔑んだ呼び方をする―もちろん阪神が大好きな訳やけど、それよりも巨人が
嫌いという気持ちの方がたぶん強いくらい。
極端な話をすると、阪神が優勝することよりも、他の球団に全敗しても巨人
に全勝してくれればそれでいいとさえ思う。

まぁ嫌いな理由は数々あるけど、それはちょっと置いといて今話題の桑田と
いう投手のことで一言。

楽天のノムさんが「プロ根性の塊みたいな選手」と言ってたけど、確かにそん
な気がするピッチャーやったね。
PL学園で甲子園に出場した時、ピッチャーやのにどでかいホームランかっとば
しよったことがあったんやけど、でもその時彼はにこりともせずにダイヤモンドを
一周しよった。その姿が、トライしても喜びをださないラガーマンに共通してて、
えらい気に入ったことを覚えてる。

プロになってからもその少々のことで一喜一憂しない精神力と、優れた投球
術があったし、守備までうまかったから相手チームにとっては付け入るスキのな
い嫌なピッチャーやったね。

そんな桑田も寄る年波には勝てず、最近めっきり出番がなくなって、ついに
巨人を離れるらしい。でもなんでも200勝にあと20何勝かまで来ているので
現役は続けたいらしく、移籍先を探しているそうな。その候補にはもちろん
セパ両リーグとなんと大リーグもあるとのこと。

俺は、アンチ巨人「軍」であっても、
アンチ巨人「選手」ではないので、この桑
田という投手を認めてはいる。移籍については、国内であれば楽天とかの下
位球団ならまだ活躍する場もあるかも知れないと思う。でもいくら大リーグの
質が下がってきたとはいえ、大リーグは無理に決まってる。
なのに、彼ほどの理性をわきまえたピッチャーがどうしてそんな夢みたいなこと
を言うのか。そこにこそ巨人「軍」のおごりがあるのだ。

つまり長い間常勝チームであったが故にいつまでも自分達のチームが一流だ
と思っている。
さすがの桑田もここに20年以上もいて、残念ながら、その毒に
やられてしまい、巨人で使い物にならなくても他のチームなら・・・という勘違
いをするハメになってしまった。
今や楽天とそう変わり映えしないチームやのに、こういうところがまさしく俺が
巨人を嫌う理由のひとつ。

阪神の選手は給料が安いと文句を言うが、決して自分を必要以上に過信
したりしない。唯一、桑田に足らなかったのはこのタイガース魂だったと思う。


凶悪化する高槻

2006-09-23 | Weblog

連日、タクシーの運転手さんが行方不明になってるニュースをやってる
けど、この運転手さんは俺の地元、高槻の人で、犯人と目される人と
言い争いあっていたとされる団地は俺の家から車で10分。

ちょっと前にもこっちは車で3分ほどのところで殺人事件があったし、コン
ビニ強盗があったのも10分以内のところ。近所に住んでる俺の友達の
娘さんが俺の家のすぐ近くでストーカーにつきまとわれたり、ウチの娘も
家の前の道でスカートをめくられて泣いて帰ってきたりと、高槻の中で
もウチのすぐ近くで凶悪な犯罪や性犯罪が増えてきている。

山も川も近くにある田舎町で、昔からそないにお行儀がいいわけやな
かったけど、殺人事件なんかが起こるほどぶっそうな街やなかった高槻
が今とても危ない。

そういう危険が近づいてきて初めてわかったことがある。それは、当たり
前やけど、凶悪なできごとというものは、新たな凶悪なものを生むとい
うこと。

熊が人里に下りてきて、自分達の娘達を襲ったら、熊がかわいそうな
どと言っていられず、自分達の責任は棚に上げて処分してしまうように、
自分達の近くに危険が迫ったら、人は自然と防衛本能が働く。
前の話でいくと、今回はたまたま友達の娘も俺の娘も命にかかわるよ
うなことにも怪我をするようなことにもならなかったものの、これが、万が
一怪我でもさせられるようなことになっていたら、俺も冷静さを失ってそ
の犯人に何をしでかすか分かったもんやなかった思う。

ということで、理由はどうあれ、凶悪な出来事が近づいてきたら、正当
防衛とはいえ、俺も加害者になってしまう可能性がある訳や。

そんな人がすぐ近くに何人もいて、それに対する報復的な事件を引き
起こす可能性があると思うとゾッとするけど、そういう人たちは普段は見
分けがつかない訳で、娘達にはできるだけ一人で夜道を歩かず、人通
りの多いところを歩きなさい、とぐらいしかいいようがない。

おかしな人は頭がおかしいんやから、逆に人里から離れるっちゅう習性
が備わっててもええのになぁ。なんでそんなとこだけはまともな人間の習
性が残ってるんやろかね。納得できんぞい。


つくつくぼうし

2006-09-22 | Weblog
夏の盛りは麦わらぼうし。夏の終わりはつくつくぼうし。

毎年、つくつくぼうしの声を聞くと夏も終わりやなーと思ってたのに、
今年はほとんどその声を聞くことがなかった。

人間社会のあおりを受けて住むところがなくなったのか、はたまた
人間社会と同じように、訳もなく仲間を殺めているのか、数が減
ったということなんやろう。

そういえば、つくつくぼうしで生きてきた漫才師のかたわれももう姿
を消した(やんな?)。

芸能界での力のないものが絶滅するのは仕方ないけど、自然界
で何の罪もないものが絶滅するのはある程度止められると思う。

音楽もいいけど、エコにも興味あるなぁ、今は。

待ち遠しい「再チャレンジ可能な社会」

2006-09-21 | Weblog

生まれてこの方、色々なことを好きになってきたけど、その中で一番
好きなのは何なのかなぁと考えてみた。

子供の頃好きやったのはやっぱりスポーツ。小・中学生の頃は草野
球ばっかりしてて、高校時代はラグビーに夢中になった。大学時代
はちょっと頭を使って麻雀で反射神経を養い、社会人になってまた
ラグビーに夢中になった。
そんな中、芸術?関係に目覚めたのはいわゆる思春期の中学生
時代以降。ギターを知ったのは中学3年。読書に夢中になりだした
のは高校2年の頃やった。好きな女の子に夢中になりだしたのもこ
の頃やし、イケナイことを覚えたのもこの頃。

基本的に熱しやすく冷めやすいので、この中でずっと続いていること
が一番好きやということになると思うねんけど、スポーツは好きでもプ
レーすることはできなくなったし、残ってるのは音楽と読書だけやね
んな。まぁイケナイことも多少?残ってはいるけど。

その中でまた絞っていくと、読書は疲れていたりするとやる気になら
ない時もあるし、イケナイことはなんたってイケナイ。
そうすると最終的に残るのは音楽だけ。これだけはいついかなる時
にも嫌になったことが一度もない。
ラグビーの後遺症で足の手術をした時もギターを持って入院したし、
前の会社で1週間研修で缶詰になった時もギターを抱えて行った。
金を持てば楽器やオーディオ、録音機材につぎ込み、物として残っ
ているものも数多い。今でもテレビを見るときはギターを抱えながら
見てるし、昔は寝るときにギターを抱えたまま寝て、朝起きたらまだ
抱えてたなんてこともあった。ちなみに敬愛するCHARにも同じ経験
があるらしく、この「朝抱き」がCHARと一緒というのが俺の最もさみ
しい自慢だったりして。

ただ、この程度の「努力しない音楽好き」はどこにでも
いて、プロの
ミュージシャンにになれるような腕がある訳やないから、好きな音楽
を仕事にはできなかったけど、50歳の足音が聞こえ始めてきたこの
頃になってなんかえらく、音楽漬けの毎日を送ってみたいと思うよう
になってきた。

世間では、定年になってからそれまでやりたくてもに出来なかったこ
とを始めるというのが通例で、それまではひたすら我慢するというの
が常識になっているけど、どうも俺はそれには納得できない。
定年の60歳になるまでまだ12年もある。その間に体力は間違いな
く落ちていくし、何があるか分からん訳でひょっとしたら命があるかど
うかも分からない。そんなことを考えたら、やりたいことをやるのはや
りたいと思った時以外にない。

でも理屈はそうでも、当然生活費を稼がなあかんし、「働いている」
というのは社会人として最も基本的な人のつながりなので、たとえ
ばバンド活動をするとして、バンドメンバーの中に一人だけ無職が
いるような状況やと、まずメンバーとしての後ろめたさみたいなものが
生まれてしまうことにもなるから、そういう面でも仕事をやめる訳には
いかない。

安倍新総理の政策課題のひとつに「再チャレンジ可能な社会の
構築」というのがあるけど、こういうことにも何か答えてもらえるもん
なんやろか。今ほど政治が気になることはないわけであります。


だろう運転が必要な時

2006-09-20 | Weblog

「だろう」運転はいけません!と教習所で習ったなぁ。
行けるだろう、曲がってはこないだろう、飛び出してはこないだろう・・・
こういう運転が事故を引き起こす。
だから運転するときは必ず「かもしれない」運転を心掛けるように

曲がってくるかも知れない、飛び出してくるかも知れない・・・この心
掛けが事故を防ぐのだと。

確かにその通りで、俺は運転免許を取ってほぼ30年、ずっとそれを
心掛けて運転してきたので、人身事故は一度もなく、物損事故が
たった一度あるだけ。それも信号待ちからの発進時にちょっと油断し
て前の車に軽く追突したというもので、当然相手に怪我はなく、相
手の車はわずか数万円で直るような事故やった。

だから、車の運転についていえばこの心掛けには大賛成やし、大切
なことや
と思う。

でも、言葉は悪いけど「
人の運転」についてはどうやろう?
人生において人と付き合うということは相手を上手に運転して、
自分も上手に運転してもらうということでもあるように思う。
こんなことをしたら相手が傷つくかも知れない、気分を悪くするかも
知れない、だからやめておこう、また逆にしてあげよう、と、かも知れな
いという気持ちをもって運転する。分かりやすい言葉に直すと「思い
やり」ということになる。

車の運転の理屈からすれば、この「かも知れない」を持ってすれば、
人間同士の事故(=もめごと、けんか等)なんか、ほとんど起こらない
はずやねんけど、ところがどっこい、そううまくはいかんところが人は難し
い。

まず他人の心が分かることなど絶対にない、という大前提がある。
これは至極単純に他人は自分じゃないから。

他人が分からないものであるということに加えて、全く分からないうち
から、だろう運転をすると相手を傷つけるし、自分も傷つくから、とり
あえず他人には最初のうち、かも知れない運転で乗ってみるのが通
例。
けど、そのうち付き合いが長くなればなるほど「かも知れない」ことが
はっきりしてきて、それが減ってくる。そして最後には、こいつにはこう
いうことを言っても大丈夫だろう、大丈夫に決まってるという「自分の
判断」に戻ってくる。
つまり思いやりの正体は自分以外にない。で、他人は自分じゃな
いから、どんなに長く付き合っても、どう工夫してもうまくいかんことも
あるわけよ。

ほな思いやりなんか必要ないのかと言えば当然そんなことはなくて、
だろう運転もしなくなって、自分のやりたいように運転し始めたら、こ
れは事故ばっかりでそのうちどっちもスクラップや。

だから、人とうまく付き合おうとすれば、結局はだろう運転に習熟す
るしかない。かも知れない運転でも付き合えないことはないけど、そ
れだと、ドライバーの神経が持たへんから。

そないしてみると、ホンマに人の運転ってのは難しいねぇ。特にちょっ
とボディーラインの凹凸がきつい車は特に難しい。
どうやっても、これでいいという運転方法はないんやから、少々運転
を間違えても、
時にはわざと事故を起こしたりもしちゃっても、だろう
運転を続ければ、それはきっとそれで
いいの「だろう」。


次元違いのキャスティング

2006-09-19 | Weblog
竹中平蔵氏が参議員を辞職することで、女子?プロレスラーの神取忍
さんが繰り上げ当選するらしいね。
この人のことはテレビで何度か見ただけでどんな人なのかほとんど知らん
ねんけど、どうも噂によると、話すことがなくて3分で演説を終わったとか、
小学生でも知っているような質問にも答えられないとか、予想してたとは
いえ、プロレス以外のことは何も知らないという人らしい。

一方、竹中さんは、経済学者として超一流やし、書いておられる本も
分かりやすく面白い。政治家には体力よりも知力―知力にはある程度
の人格も含むと思う―が求められるのは言うまでもなく、今回の政治家
としての責任のとり方や度量は別にして、政治に携わるだけの知力を
持ち併せていた人だったということには違いないと思う。

参議員は政治面での国の代表。野球なら9人、サッカーなら11人の日
本代表に選ばれるのと同じような超難関であって、そこに入れなかった
補欠の人も実力は紙一重というのが、まぁ議員の椅子を争ってる人の
普通の姿やろう。

でも、今回の件で、単純に言えばそっくり入れ替わることになる二人の
実力差は、リトルリーグから王ジャパンに参加するくらいの無茶加減。
しかもこれなら同じ野球同士やけど、カテゴリーも違うから、もう今や惑
星と認められなくなった冥王星とモグラほどの距離がある訳で、いくら選
挙で選ばれたからとはいえ、あまりにそれは無茶というもの。
もちろん票を入れた方にも責任はあるけど、どうせ比例区のたなぼた当
選やねんから、神取さんには悪いがそんな人に税金から給料を払われ
たもんにゃあたまったもんやない。

大体、そんな人が国会で何をするの?寝てる人にコブラツイストをかけ
るとか、名前忘れたけどピンクのスーツ着たおかしなおばちゃんと、レズの
問題について答申するとか?
きつい冗談やけど、これがホンマにやりそうな気がしてくるから恐ろしい。

スポーツマンの持つ精神の健全さとか、潔さとか、物事を突き詰めた人
の賢さとか、そういうものはとても貴重やし、今の政治に必要な要素や
と思う。でも国会に欠かさず走ってこられても仕方ない。せめて文武両
道やった人じゃないとなんぼ何でも政治家は無理やろう。

ここは、せめてスポーツマン(や断じて!)らしく潔く神取さんには参議員
を辞退願いたいし、そんな人に辞退を促すのが全うな政治家のやるこ
とやないのかなぁ。

アイデンティティーが崩れる時

2006-09-18 | Weblog

生まれて初めて食べ物のカロリーを気にしている。

この間、血液検査をした時に血液中に「乳び」という、簡単にいうと
油成分のようなものが認められたからで、お医者さんにいつ血管に
この乳びが詰まって脳梗塞等の病気を引き起こしても不思議では
ない状況にあるといわれた。

直すには食事制限をして、とにかく揚げ物等の油成分の多いもの
や麺類等のカロリーの高いものを食べないということを徹底して続け
る以外に方法はないらしく、それができなければ、糖尿病になって、
ほとんど何も食べられなくなるか、血管が詰まって命を失うか、命が
助かっても重大な後遺症が残ってしまうか、そういうことが間違いな
く現実としてやってくる。

でも俺は今まで「早く多くきれいに」食べるという3拍子揃った食べ
っぷりが自慢やったわけで、その内の早く多くをやめてしまわなあか
んということはほとんどアイデンティティーの崩壊といってもいいぐらい
の重大事。命に関ることなんで、そんな理屈をこねてる間はないし、
即食事制限を実行に移したとはいえ、心情的には実に受け入れ
がたいことなのだ。

納豆は思ったよりカロリーが高かったり、桃やクラッカーが思ったより
カロリーが低かったり、食べ物に関してはちょっと賢くなったけど、な
んかすごいむなしい。

過労死ならぬ、カロリー死したらどうすんねんなどと、頑張れなかっ
た時の言い訳も思わずでてしまう今日この頃です。


神秘

2006-09-17 | Weblog
今日、俺のおふくろと嫁さんの両親を招いて敬老の日のささやかなイベント
を開催した。

内容は、長女の手料理でもてなすというささやかなものなんやけど、その後、
皆で子供が生まれた頃からのアルバムを見て、結構盛り上がってしまった。

そのアルバムには今もまだ元気なおじいちゃんおばあちゃんともう亡くなった
おやじや、たくさんの友人達と写った写真があって、ウチの子供達がいかにた
くさんの愛情を受けて育ってきたかが良く分かる。

アルバムを眺めてるうちに長女が写っている写真を見つけたんやけど、何故
か写真がモノクロ。なんで?と思ってよく見るとそれは嫁さんのアルバムの中の
一枚で、嫁の写真やった。
でもそのそっくりさといったらどう見ても長女にしか見えない。さっきまで見てい
た長女のアルバムの中に、笑顔の作り方、顔の角度、おまけにあめちゃんを
持つ手の位置や角度まで、全く同じ一枚があるのだ。
もうなんか気持ち悪いくらいクローンしてて、これがカラー写真ならどうやっても
見分けがつかないくらい似ている。というか同じと言っていい。

DNAと言ってしまえばそれまでやけど、当然DNAも環境によって様変わりする。
そんな条件の中で、服装は違っていても全く同じ笑顔が引き継がれたという
のは、その前の激動の時代から嫁もたくさんの愛情を受けてきたということで
あり、先人の努力たるや、もはやこれは奇跡というか神秘の世界といっていい
ほど神がかり的なものがある。

そういえば俺の何世代か前のおじいちゃんは村長をしていたらしく、その墓は
村が建ててくれたもので、寺の中でも一番大きくて目立っている。

この素晴らしき先人達に囲まれた俺達にそのわずかな遺産さえ感じられない
のがまた神秘ではあるけれど。

敬老の日

2006-09-16 | Weblog

自分が年齢を重ねるほど、長く生きてこられた方々の偉大さが分かる。

悠々自適の暮らしをされている方も、青いテントで暮らしている方も、
頑固じじいも、口うるさいばあさんも、日本に骨をうずめる人も、海外
に居場所を求める人も、一日を生きることのとんでもない大変さを何
十年も乗り越えてこられた。

社会のポジションというのは、そういうことをひたすら繰り返した人だけが
得られるもので、老人はそれだけで尊敬に値するものだと改めて思う。