僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

イルカ

2012-03-30 | Weblog
『イルカは鳴き声そのものではなく、その間にある無音の感覚で話している。』

ある学説でこのような論があるらしいが、正しくても間違っていても、とても豊かで面白い話だと思う。

そう言われれば、私たち人間も同じだ。やいのやいのと会話している時はいかにもコミュニケーションが取れているように思っているが、一人になってふと考えてみると、とても孤独だったことに気がついたり、逆に会話がなかったあとは、言葉が押し寄せてきて、深いつながりを感じたりする。

武満徹氏は次のように語っている。
「音符はいかにマニピュレートしたところで、そこに現れてくるのは懐似的なものでしかないように思える。それよりはこの世界が語りかけてくる声に耳を傾けるほうが、ずっと、発見と喜びに満ちた、確かな経験だろう」

いつかは尽きるエネルギーの議論がなされている。
でも、発見と喜びは無尽蔵だ。
まず自分自身のエネルギーのことを考えることが何よりも大切だと思う。

2012-03-26 | Weblog
「言葉はその生成において、最も根源的であるのに、なぜかものごとの皮相な部分をしか捉えようとしていない」とは、大岡信さんの持論である。

昨年の漢字に選ばれてから、「絆」という言葉をよく目に耳にする。私の仕事においても、キーワードは「絆」、という案件がいくつかある。

でも、まさしく大岡さんの言われる通り、「絆」という言葉が皆の共通認識として世に認められた時、すでにその根源的な意味は失われていて、絆を表現するために、絆という言葉を使おうものなら、それはもう表現ではなくなっている。

先日、いきつけのライブハウスの仲間たちのライブがあった。私たちもゲスト出演させてもらったのだが、大雨の中、交通の便の悪い場所で開催されたライブには満員のお客さんが来てくれた。音響トラブル等で決して条件的にも恵まれなかったのに、最後はアンコールでとても盛り上がった。

別に皆、絆を意識していたわけではないはずだ。音楽好きの仲間が集まるから行く。皆それだけで楽しいから。それ以外に理由などないだろう。でも、そこには確かに絆があった。

絆に花は咲かない。絆は高く伸びる幹も持たない。ただただ、その根を深く広く伸ばし、私たちは水や土としてそこで繋がる。

咲くこともなく、枯れることもない命。それが絆だと思う。

思案石

2012-03-16 | Weblog
自宅近くの道路のコーナー内側に「思案石」と呼ばれる石があったが、数日前、撤去された。
地元では知られた石で、高槻城があった頃、お堀の上にあったこの石の上で、罪を犯した人が自害しようかどうか悩んだことから、思案石という名前がついた、ということだから、その歴史はかなり古いものである。

で、そんな長い歴史と文化を持ったこの石がなぜ、急に撤去されることになったというと、「安全のため」であるらしい。

石は、先に話したようにコーナーの内側にあり、卵の横にしてその半分を地表に出したような形をしていた。長辺が約50センチ、短辺が約20センチ、高さが約20~30センチで、形そのものは鋭利ではないので触ったりして怪我をすることはない。しかし、その中途半端な高さゆえ、この石のことを知らない人、特に自転車で走行している人が、その存在をしらずに当たって転倒する、という事故がまれではあるが以前からあった。それに対応するため、石を黄色く塗り、目立つようにしていたのだが、それでもそのような事故が後を絶たなかったようだ。

でも、それならなぜもっと早くに撤去されなかったのか?それは石の存在理由ゆえ「取ると祟りがある」とされてきたからである。事実、過去に何度も石を撤去しようとした業者が事故にあったり大けがをしたり、ということがあり、もう誰もそれを取ろうとする人がいなくなっていたのだ。

でも、2012年3月、そのいわれに反して撤去はついに実行された。勇気ある業者なのか、こだわりのない業者なのか知らないが、一応お祓いをしたあと取り除いたようである。

さて、長くなったが、ここまでが石が取り除かれることになった経緯である。
でも私はこの石の除去に反対だったし、今でも残念でならない。それはそこに「恐ろしく貧困な発想」しか感じないからである。

怪我はしないほうがいいに決まっている。だから、石に当たって怪我をした人にはお気の毒である。昔と違って車の通行量も多く、舗装された道路のコーナーで転ぶと、下手をすると大事故になりかねない。「あの石がなければいい」と考えるのはごもっともなことだと思う。

でも、ここで考えるべきは、「しょせん、動かない石。さらに、文化を育んできた石」ということである。
とにかく、いつもそこにあるのだから、気をつけていればわかるし、もし分からずに当たって怪我をしたなら、普通に学習する人ならもう二度と当たらなくなるだろう。石より自分に注意すればいいだけのことだ。

そして、何より重大な問題は、撤去するということに、「文化に対する思い」というものが全く感じ取れないことである。
私は小さな頃、母や祖母にこの石の話をよく聞かされた。そして友達に「あの石なに?」とよく聞かれ、自分で答えもしたし、時には祖母に直接説明してもらったりもしたものである。私も、孫たちがもう少し大きくなったら、話して聞かそうと思っていたのに、もうそれもできない。

「あの石なに?」その一言から会話が始まり、皆それぞれに様々な想像をめぐらせる。それはやがて物語となり、人はそれによって楽しみ、学び、またその物語を語り継ぐ。たかだか「注意すれば防げる“危ない”」ごときでそのような豊かな営みを奪い去った、撤去という行為は、あまりに貧困な考えだと言わざるを得ない。

きっと私と同じような理由で反対する人はいたのだろうが、今のご時世、“危ないから”からという理由は「切り札」である。ブランコで怪我をする子供がいるから、といって公園からブランコが撤去される時代なのだから、この件も、切り札を持った“モンスター住民達”押し切られてしまったのだろう。

今、私は脈々と語り継がれてきた大切な物語(の始まり)をひとつ失ってしまい、その喪失感たるや、まさに「祟り」だと感じている。
でも、逆説的ではあるが、たとえ、対象が石を取り除いた人でなくとも、「石を取ると祟りがある」ということが嘘ではなかったことは私の唯一の救いだ。今後はここまでを物語として伝えていくことが、きっと思案石が私に与えてくれた努めなのだろう。

思案石よ、私を育ててくれてありがとう。そして、祟りをありがとう。

卑弥呼

2012-03-05 | Weblog
山岸俊男さんの「安心社会から信頼社会へ」には、確かこうあったと思う。

『我々が信頼だと思い込んでいるものは、じつは不確実性の小さい関係内での「安心」なのだ』と。

「卑弥呼を信頼していたわけではないけれど、卑弥呼と聞いて安心した」のかも知れない。

バカバカしい騒動の中にも、学ぶべきことはある。