僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

サプライズ

2010-09-28 | Weblog
最近多いプロポーズや結婚式でのサプライズ。
周りだけが楽しんでいることが多くあまり好きではない。

尊敬する亡き上司は決して私を褒めなかった。
教えて欲しいと言ったら、勝手に覚えろと言われた。
でも、私のミスの責任は全て自分が被っていてくれていた。
自分が何より大切な私が、この人のために頑張ろうと思った。
亡くなる2日前、お見舞いに行った時初めて“いつもすまん”
という言葉を聞いた。
弱音など聞いたこともなかったのに。
それが最後の言葉。
サプライズというなら、生き様に感動したいものである。

戦争にも劣る行為

2010-09-16 | Weblog
運動会のシーズンが近い。
子供は、自分を主張し争う中で、自分を知り人を知り、自らの立ち位置を知る。
順位をつけない競争なら、戦争のほうがまだ健全ではないのか。

※以前に書いたものを短く集約。運動会シーズンが近づくと特にこの思いが強くなります。

玩物喪志

2010-09-09 | Weblog
最近、やたらに物が壊れる。
まず、ギター練習用のノートPC。キーボードが誤操作して入力できなくなった。まぁかなりの安物で8年位経ってるからそんな時期かも。
次に、音楽作成用のデスクトップ。これはDVDが読めなくなった。でもこれ以外に不具合はないので、ドライブさえ買いなおせば解決する。
それから、娘婿のノートPC。何度か再インストール等したがどうにも動きの遅いのが直らない。修理に出せば直るかも知れないが、これも5年以上経っているので、買い換えたほうがいいだろう。
で、娘夫婦のビデオカメラ。これは俺が落として(泣)バッテリーの「止め」が壊れてしまい、バッテリーが保持できなくなった。また、落とした時にデータがクラッシュして(その後復活(冷や汗))今後も心もとないから修理するか、買いなおしたほうがいいと思う。
あと小さいもので言えば自分の部屋の扇風機やらなんやかや…

司馬遼太郎さんが「玩物喪志」ということを言っている。つまり物を愛してばかりいる人は健全な心を失ってしまう、ということだ。

きっとこの物の壊れよう、自分は物よりも人を愛して生きている証なのだと思いたい。
ちと無理あるかな?(笑)

豊かさ

2010-09-07 | Weblog
“豊か”という言葉がとても好きである。
そこにある幅と言おうか深みと言おうか、喜びも苦しみも全て包括しているその感じがたまらない。

昨日、仕事の関係で懇親会があったのだが、そこである人から聞いた話があまりに豊かだったので紹介したい。
その人は事情があり、しばらくドヤ街に住んでいた。その時代の話である。

そこでは毎日何らかの市場が開かれる。もちろん新聞紙の上が店だ。
靴屋がある。でもそこに両方揃っている靴はなく、どこかに落ちていたか捨てられていたものばかり。
服屋さんもある。汚れた下着におばちゃんおっちゃんがたかってくる。
食べ物も売っている。ゴミ箱捨ててあった刺身が、新鮮だということでなんと5円の超特価で手に入る。

ここまで聞いただけで俺は感動を禁じえなかった。なんという人のパワー、なんという純粋なエネルギー。でもその人の最後の言葉で俺の感動は極まった。

『でも、誰も死なんのよ。皆生きてるねん』

俺は思った。きっと生きるのに必死な人に死ぬ間なんてないのだ、と。

昨日俺はその人にあるお願いした。
察しはつくと思うが、俺をそこに連れて行ってくれというお願いだ。
もちろん住んでみなければ何も分からない。こういう行動は人見物だと批判されても仕方ない。でも俺は見てみたい。全く知らない世界のほんの一端でも。
そこにおられる方々には、世の中のちっぽけな人間が約1名、今より豊かな人生を歩むための糧を得る可能性を手に入れる、ということで許していただきたい。

もともと剥がれるような身包みも毛もないのがこれ幸い。
命を取られるようなことはない、とのことなので、できるだけ体当たりでその場に行きたいものである。


1%の大切さを改めて思う

2010-09-06 | Weblog
かなり前に「1%のスパイス」という記事を書いた(後述)。
概要は、物事に占めるわずか1%がとても重要な要素であるということだが、最近はこれはあらゆることに通じているなぁと痛感している。

かのエジソンは99%の努力と1%のひらめきだと言った。これは何事も地道な努力なしではなし得ないということを教えてくれるが、また、1%のひらめきがどれほど大切であるかも教えてくれる。
それは、橋を造ることに例えてみると、100mの橋を99mまで完成させても、残りの1mがなければ何の意味もなさない、ということである。この場合、99mの橋をそのまま無駄にせず残しておいて、また利用することを考えるのが普通であるが、場合によっては残り1mができなかったために全てを諦めなければいけないこともあるわけで。もちろん99mを作り上げたノウハウは残るとしても、それがなければものごとが成り立たない、という意味での1%の大切さである。

でも1%のホントのすごさはその“膨張率”にあると思う。
99%の汗はどうやっても1%のひらめきの代わりになることはできないが、1%のひらめきは時に20~30%、場合によっては50%、奇跡的ではあるが99%の汗にもなり変わることができる。これこそが1%の持つ最大の魅力なのだ。
99%の努力をする人にこそ1%のひらめきはやってくるのだが、しかしその1%を備えていない人というのもやはりいて、その人は99点をいつも取れるが100点はまず取れない。
逆に1%のひらめきがあり努力しない人の場合は、努力がゼロでも時に15点位とれることもあるが50%位努力したからといっていつも50点以上取れるわけではなく、下手すりゃ0点の時すらある。しかしこのタイプはこの50%の努力で120点位をたたき出すことがまれにあるのである。
ただ、このタイプは仕事には向かない。当然仕事にはいつも100点近い成績をコンスタントに残すことが要求されるから「99%努力タイプ」が最も適しているといえるだろう。
しかし仕事には少なからず120点を求められることがある。そんな時1%を備えていない人にこれはできない。

企業は可能性を信じて人を採用する。時にこの「1%ひらめきタイプ」も採用することがあるだろう。でもその人に1%があるかどうかは働かせてみないと分からない。下手すると退職した時に1%がない人だったと分かることもあるはずだ。

でも、デジタルが幅を効かせる世の中、“不確かで希少なもの”に賭ける1%の勇気こそが必要とされているのではないだろうか。



『1%のスパイス』
「当たり前やん」と思うことが多い。
命がけで人命を救った消防士、とか、危険を顧みず犯人と戦った警察官、とか、雨の日も風の日も欠かさず新聞を届けてくれるお兄さん、とか・・・

こう言った“分かりやすい逆境”を克服していく人の話は聞いている人の心にストレートに訴えるものがあるので感動的ではあるけど、その人たちは皆そういう仕事に就いて、それをするために給料をもらい、警察官を例にとればピストルだって持ってる訳で、どれもやって当たり前の話ばっかりや。

でもそこは人間、それではあまりに機械的すぎて、面白くもなんともないので、誰もがその当たり前のことでも無意識に感動的にしようと思うようになっている。
この当たり前は料理に例えるとまぁ普通のサンマ定食みたいなもんやけど、それにちょっとしたスパイスを加えるとサンマが鯛の味に感じたりする訳で、誰もがそのスパイスを持ってるのよ。

たとえば、
「当たり前のことやけど、誰にでもできることじゃないスパイス」とか、「背景を暗く落として主役を目立たせるスパイス」とか。人によって様々なスパイスを持っていて、このありきたりの料理を感動的な料理にして食べてるわけや。

でも、基本の食べ方はまず素材だけの味だけで食べてみて、素材がどんな味なのかをよく知った上で、それをもう少しおいしくいただきたい時だけ、スパイスを振りかけてみること。最初からスパイスを振りかけて食べたんでは、100%の素材の味、つまり「真実」が分からんようになる。

そしてそのスパイスの分量は、素材にに対してほんの1%程度でいい。
それが素材の味を活かすスパイスの“ころあい”というもの。
でも、最近はそのスパイスを料理の主役にして、やたらに振りかけ、元の素材の味が分からんまま食べてる人が多いし、テレビ番組なんかもまたしかり。

サンマはどこまで行っても鯛にはならんっちゅうに。