僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ロボットの血

2006-03-31 | Weblog
ものすごく能力の高いCPUを搭載しているが走行機能は普通のロボットと、CPUはそうでもないが、走行機能に優れたロボットを2台用意する。
ヨーイドンで凸凹道を走らせると、前者が凸凹を避けたり、計算に時間をとられている間に、後者はボロボロになりながらも先にゴールするらしい。CPU能力の高い方は、転ぶと分かっているなら起き上がらないという合理性を優先させてるんとちゃうかな。逆に低い方は、そんなこと考えへんから、とにかく動いて結果を出しよる。
目的と手段の関係だけが人生ではないということを教えてくれる[頭の悪い」ロボットの方が「人間らしい」というのは、なんかちょっといいね。

こんな人が好き〈VOL5〉

2006-03-30 | Weblog
政治家をはじめ、最近は口が軽い人が多いなと思う。昔は「口が裂けてもしゃべらない」という人が大勢いたのにな。 どうせ軽いのならとことん軽いキャラで貫いてくれればいいものを、途中で引き返すもんやから、もう、後ろ姿だけの人になってしまう。ということで、今日のこんな人が好きは、 「口が裂けてもしゃべる人」 どうせなら、このくらいまでやれ!ちゅうねん。

色の文化

2006-03-29 | Weblog
色に例えられる地域性や人間性ってなんか豊かに感じるね。
例えば沖縄の人は健康的な小麦色。
東北の人はもち肌に例えられる白。
愛媛の人はみかんの黄色。ちなみに愛媛の人ってみかんばかり食べるので、ホンマに手が黄色い人が多いらしい。
というふうに考えていくと、いきつくのは、当然大阪。
真っ先に浮かぶのは虎縞の黄色。その次はなんやあやしいピンク。
次に街宣車の黒、新世界のソース色・・・やっぱり人間がごちゃごちゃなとこは、色もごちゃごちゃ。
混ざり合って何色か分からへんけど、とりあえず他にはない色には違いない。
果たしてそれが、豊かなのか、チープなのか。

こんな人が好き〈VOL4〉

2006-03-27 | Weblog
基本的に、毎日ブログを更新しようと思ってたんやけど、昨日は美しい睡魔が誘いに来たのであっさりそっちの誘いに乗ってしまった。
ということで頭の冴えない月曜日でもあるので、仕事中(昼休みよん)に更新することに。
ということで、今日のこんな人が好きはこれ。
「いちゃいちゃしてるカップルに、猫パンチを浴びせたことのある人」

仲のええのはそれでええねんし、二人の世界のことで誰にも迷惑かけてないんやから、ええっちゃあええねんけど、どうも気分よくないねんなぁ。
普段はあまり意識せんけどやっぱり俺の中には「日本男児」が息づいてるんやろね。
かといって当然叱りつける訳にもいかんから、ここはせめて猫パンチでも浴びせたいところ。

でも、最近はものすごくスマートにいちゃいちゃしてるカップルもたまに見かけるようになったね。こないだ電車の中でさりげなくキスしてるカップルがおってんけど、全然いやらしくなくて、清清しかった。
何で?気分悪いカップルの行為と何がちゃうねやろ?と考えてたら、「男前と美女、しかも口数が少なくうるさくない。」ということが判明。
俺みたいな中年にはまだ「人前でキス」なんてのは映画の中の世界で、”美しく見る”もんやったんやね。

ということで明日の日本を担う若者の皆さん、男前と美女はどうしようもないとしても、「人が見てる」というのを、ちょっと意識して「されて」みてはいかがでしょうかね。
映画スターになった気分で。かなり眉をひそめる中年が減ると思いますよ。ただしホントに殴られる人もいると思いますが。

犬をめぐって

2006-03-26 | Weblog
犬が好きで、今も2匹飼っている友達家族がいる。
男女二人の子供はどちらも成人していて、まだ家にはいるものの、もう手がかかる年齢ではない。つい数日前、そこの今年成人式を
迎えた娘がちょっとしたヘマをやってしまった。それがあまりに微笑ましいので、その話をしようと思います。
2匹も飼っているのだから、家族は皆当然犬好きで、その娘もとても犬を可愛がっている。ある日、何気にペットショップへ立ち寄ったところ、そこに、押尾学がなんぼのもんじゃいの勢いで、その娘のハートを奪った犬がおったそうな。
そういうシュチュエーションに出くわした時、人生多くのものを捨ててきた大人たちであれば、欲しいなぁ…けどお金もないし、第一3匹も育てられへんしなぁ…みたいなことで諦める。
しかも彼女の場合は、犬を育てることはほとんど親任せの、「子供」の立場で考えないといけない訳で、欲しければ自分の考えより先に、親に相談するのが当然なのだが、
そこは何と言っても二十歳。親に相談したら反対されるに決まってるということだけは、年期をかけてきっちりと理解していた。ところがその娘、さすがに二十歳、正論ほど彼女達にとってつまらないものはない。「チッチキチー!」と言ったかどうかは知らないが、
とりあえず、買っちまえばこっちのものみたいなノリで、晴れてローンまで組んでその犬を買ってしまった。自分の部屋で育てれば親にばれずに飼えるはずだと、永○議員も真っ青な根拠のないルートの自信を振りかざし、自分への説得をあっと言う間に済ませて。色々な手続きがあって、その日は連れて帰れないということで、その犬が来るのを心待ちにしていたそんなある日、彼女の矢田亜希子感をいとも簡単に吹き飛ばす出来事が起きてしまった。犬より先に、家に血統書が届き、運悪く、というか、ものすごく当たり前にそれをお母さんが受け取ってしまったのだ。
当然お母さんは、???何これ???てなことになり、これまた当たり前にペットショップに電話。娘の悪行を知ることになった。
当然、これ以上犬を飼えるはずもないので、押尾には気の毒だが、即キャンセル。普段は、一円でも安くと値切り倒し、少々のことでは
ムダ金を払わないやり手お母さんも、手付金は戻りませんという店員にかるーくうなずき、はいそれでけっこうです。そこから先は想像に難くない。二十歳を過ぎたその娘は、まるで小学生のように両親にこっぴどく叱られ、そこはやはり、ワンワンと泣いて諦めたらしいこういう時よく聞く論評に「ちょっと考えたら分かるやろう」というのがある。
確かに、彼女は社会人で、昼間自分が家にいない訳やから、自分の部屋で親にバレずに飼うなんてことが無理なことはちょっと考えたら
分かるはず。でも、ちょっと考えれば分かりそうな間違いをするときは、得てして分かってしているものであり、ちょっと考えてホントに分からない人は人の道を外れていく人なのである。
つまり、彼女の場合、自分の部屋で親にバレずに飼える訳がないということはもちろん分かっていた。でも飼っているのがバレた時、自分の両親ならきっと育ててくれるだろうという、両親に対する絶対の信頼感が、彼女を“ちょっと考えさせた”のだと思う。彼女のシュミレーションはこうだ。
犬をこっそり連れて帰り、一夜を過ごす。・・・ここまではノープロブレム。
さて翌朝、犬を部屋に置いて会社に行かなければならない。どうしよう?そうだ、お母さんには「私がでかけている間、決して部屋を覗かないで下さい」と言っておけばいい!鶴の恩返しを読んでくれたお母さんなら約束を守ってくれるはずだ。万が一お母さんが部屋を空けて犬を発見したとしても、2匹が3匹になったくらいじゃ分からないに決まってる。

「あらー、今日はどうしたの?いつもと顔つきが違うじゃなーい」
「しかも、小さくなったみたいね、色も違って見えるし・・・」
「あら、3匹いるように見えるわ、最近ほんと目が悪くなって、やーねー」
そして・・・・・「え゛ーーーーー!!」という内場の叫び。とまぁ、こんなとこ。で、こうなってしまえばお母さんは犬を手放すなんてことは絶対にしないので「こっちのもん」なのである。少々叱られようが、犬のウンチ片付け専門係りに任命されようが、「大成功」というドッキリカメラのプラカードを心の中で掲げて済ませるつもりだったんだろう。
「家族」は一緒に暮らしている。そこに「ある」ものは、全て家族のものだ。
親、時計、冷蔵庫、嘘、秘密、愛、裏切り、我儘、虫、お化け、先祖、かじりかけのパン、文化らしきもの、シロアリ、甘え、犬のウンコ、1円玉、コンドーム…そのすべては言葉になり、呼吸し、嫌でも家族に触れてくる。家族の中では、淋しさや悲しさも皆の「持ち物」なので、時には、それを自ら求めることさえ許される。

家族は正論ではない。狂おしいまでに求め合い与え合い、
信頼であれ裏切りであれ、幸せであれ不幸であれ、それを皆で味わい尽くすまで
決して離れない、矛盾だらけの生きる構造体なのだ。彼女はブランド商品を欲しがったのではなく、一緒に生きてゆく「命」を欲しがった。その点には「心の豊かさ」を感じる。がしかし彼女の行動はやはり我がままだ。だから家族はそれを通してはいけない。
でも、その我がままが息づくのが家族なのである。
家族は本当に難しく、そして楽しい。だからこそ、俺はこの家族を心から尊敬したい、そう思うのだ。

こんな人が好き〈VOL3〉

2006-03-25 | Weblog
「車の全長より短い距離を車で移動したことのある人」

しかもタクシーとかだったらもう完璧。

「3メートル先までお願いします」
「はい、3メートル先ですね、お客さまの位置からだとちょうどボンネットのあたりになりますが」
「どのくらいで着きますか」
「そうですねぇ、渋滞に巻き込まれなければ2秒くらいでしょうか・・・」
「ああ、ちょうど一服できますね」

なんて会話がぜひとも欲しいところ。

こんな人が好き〈VOL2〉

2006-03-24 | Weblog
眠気をさますのに有効なのは、なんと言っても笑い。と、いうことで「こんな人が好き」2回目はこれ。

「電車の椅子を机として使う人」

これ、実はホンマにいたのよ、阪急京都線に。
最初は床に座らはるから気分でも悪いのかなぁと思ってみてたら、おもむろにPCを取り出しシートの上に置いて、ものすごく会社員の雰囲気でスマートにキーを打ったはった。
しかも正座やから、常識に外れてるのに礼儀正しい人に見えるからこれまた不思議。
ひざの上にPC置いて触ってる人は最近珍しくないけど、いやはや、こんな予想外のことされるとね、これはもう尊敬せざるを得んでしょ。
ところで、それってひざの上に置いてするのよりどれだけいいことがあるのかね。
ひざは汚れるし、人にはヘンな目で見られるし、若干足元のスペースとりすぎてるし・・・未だ気になってます。

それがどうした

2006-03-23 | Weblog
ブログ2日目。早速昨日の決断はどこへやら、ちょっと別の書きたいことができたので、「こんな人が好きシリーズ」は明日以降に繰り下げということで。

「それがどうした」という考え方が大好きなのです。
なんたっていつでも誰にでもこう言うだけで、およそ、物事をリセットする力がある。
例えば、

〈社長に〉
仕事でヘマをする→「それがどうした」と言う→会社に縛られなくなる=人生をリセットできる。

 〈ヤクザに〉
脅される→「それがどうした」と言う→少なくとも記憶が飛ぶ目に合わせてもらえるか、思考する必要のない世界へ誘ってもらえる
=来世までリセットできる。

〈奥さんに〉
浮気がばれる→「それがどうした」と言う→真夏でも凍えるほどの家庭内温度になる
=地球温暖化をリセットできる

どうよ?この恐るべき力。さて、ここから先は冗談抜きの話やけど、俺はこの「それがどうした→リセット=対等・平等」と考えているので、誤解を恐れずに言えば、いわゆる身障者と呼ばれる方々に対してもこの気持ちを持って接している。もちろん五体は人間の基本なので、その機能が一部でも働かないということがあれば、明らかに社会的に不利だし、その方々に対して俺たちが労わりの心を持って接するのは当然だと思う。社会保障も充実させるべきだろう。それは理解しているつもり。

でも、同情はいけない。同情する気持ちは自然やけど、自然な気持ちが相手を尊重しているかといえば決してそうじゃないから。

いつか仕事でバリアフリー展に行ったことがある。
そこには車椅子の人をはじめ様々な障害をもった方々が大勢いたんやけど、皆、五体満足の俺よりもはるかに生き生きとしていて、なんかとても自分が恥ずかしく感じた。たぶんその人たちは、体のどこかが不自由なことに「それがどうした」という気持ちを持っていて、もっと言えば五体満足な俺たちにも「それがどうした」という気持ちを持っておられるんやと思う。

そういう方々は社会的弱者であっても人間的弱者ではない。
人間として対等に向かい合わなければ失礼やと思う。
つまり「それがどうした」とは相撲でいえば、「はーっけよい」。
“同じ土俵で”人間同士が正々堂々と向かい合う姿勢なのだ、と思うのです。

春分の日 ブログ開設

2006-03-21 | Weblog
春分の日の今日、WBCで日本が優勝。それに合わせた訳やないけど、
今日ブログを始めることに決めてたので、何となく世界一気分。
そんな、韓流ブームに流されてるおばちゃんより雰囲気に流されてる
俺やけど、とにかく始めることにします。

初めの数回は「こんな人が好き」シリーズでいこうと思う。
ということで、初回はこれ。

「毎日、風呂のふたを鏡割りして入る人」

酒樽やなくて風呂のふたを鏡割りして、毎日なんかに優勝した気分を
味わってる人がおったら、もう一生ついていきます(笑)。