僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

夢の価値

2015-05-18 | Weblog
「いつかはクラウン」という名コピーがあった。いつかは…という副詞の先には夢がある。

私の場合、それは「マーチンD-45」というアコースティックギターである。車でいうと、クラウン、いやベンツに例えられる、ギターの王様と言われる逸品だ。
価格も王様に相応しく、新品だと100万円台以上である。となると、まず新品は買えない。それにアコースティックギターの場合は新品は鳴りが悪いし、色々な制約が厳しくなって昔のようにいい材料使っていないから、程度のいい中古のほうが安くていい音がするものが多く、必然的に中古を探すことになる。それでも市場では70~80万円以上の値がつき、中古にしてもやはり中々手の出ない品物なのである。
ということで、市場に出る前の程度のいい中古とめぐり合うチャンスをひたすら待ち続けて30年以上・・・ついにきましたそのチャンスが!!
あるライブハウスの元経営者で昔は自らもライブによく出演されていたミュージシャンの方がマーチンを数台保有していて、最近弾かないギター3本を私のウチに預けるからしばらく弾いてくれないか、という依頼を私にくださった。詳しい経緯は省くが、縁あって、その中に入っていたD-45を市場価格よりもかなりの安値で譲っていただけることになったのであーる。

そして先週末、ついに我が家にD-45が、どっか、と腰を据えることになった。
弾いてみると、その深くて美しい音はやはり他のギターとケタの違いを感じさせる。ただ、ある意味とても優等生なので、とんがったところがなく、何にでも使えるといえばそうだが、何を弾いても面白みがないといえばそうでもある。それでも一度は手にしてみたかったD-45。今後しばらくはライブの中心で使ってみようと思う。

「いつかはD-45」同じ想いを持つミュージシャン仲間は多く、もし私がこれを弾き飽きたら、譲ってほしいという人がすでに数人いる。
楽器であるゆえ、何よりも音が大切なのは当然である。でもホントに誰もが憧れる楽器というのは、楽器を取り巻く周辺をざわつかせるほどの影響力を持っている。買ってみないとそんなことは分からなかった。市場よりも安価とはいえそれなりだったから、経済的なことではかなり悩んだし、自分の音楽性に合うのかも相当に悩んだ。でももう自分は57歳。このチャンスを逃したら、次のチャンスはもうないかも知れない。家が傾く訳でもないので、えいや、で買ったけど、買ってみてよかった。

やはり、夢は叶えてこそその価値が分かるものである。

2015-05-15 | Weblog
去る4月24日、長女が予定日通りに女の子を出産した。私には4人目の孫だが、長女には初めての子供になる。

とにかく母子共に健康である。今は、これに勝るものはないし、将来的にもそれに勝るものはないはずなのだが、やがて、這えば立て、立てば歩めと成長の度合いに合わせて求められるものも変化し増えてくる。あどけない表情や鳴き声を聞いていると、やがて、健康だけでは生きていけない時がくるのが、分かってはいるが、なにか悔しい。

長女は里帰り中で、既にいる3人の孫たちと一緒に暮らしている。当然のごとく、孫たちは小学校や幼稚園で様々な病気をもらってくる。昨日から一番上の孫が手足口病になり、嘔吐も伴って学校を休んでいる。2番目の孫も嘔吐はないものの、手足口病が移りあちこちが痛いといっている。幸い一番下の孫は元気だが、状況からして、いつ移っても不思議ではない。当然一番小さい4番目の孫に移っても何の不思議もない。また、病気とは関係ないが、小学2年1年の男の子2人と、幼稚園児の女の子が揃えばそれはもうにぎやかなんて生易しいものではなくほぼ騒音に近い声が飛び交っている。

こんな環境下で4番目の孫である乳児は、全く何を気にする様子もなくスヤスヤと寝息を立てている。
今流行りの除菌や快適という安っぽい言葉とは無縁の世界で自分に必要な睡眠を取る術を心得ている。もちろん、このあと病気が移ってしまうかも知れないがそれは抵抗力をつけていく上ではいいことだと前向きに考えればなんてことはない。

ライオンはわが子を谷底に突き落とし、はい上がってきた子だけを育てる、という話がある。そのような生死関わる環境までとはいかないが、親が意図しなくても、あらゆる意味での菌の中に置かれている乳児は、それに近い環境にいるのではないか。これは親にとっても子供にとってもなんと幸せなことであろうか。

健康だけでは生きていけない。しかし健康でなければ絶対に生きていけない。
小さな小さな命よ、兄弟のいない家にはないであろう試練がもう与えられている。でも、あなたには、何があっても絶対に守ってくれる家族がついている。どうかすこやかに、上の3人の孫にも負けない元気な子に育って欲しい。

とりあえず今は健康だけでいい。やはりそれだけなのである。


のたれ死に

2015-05-07 | Weblog
最近、人として生きるとはどういうことなのかと考えることが多い。
もちろん考え方は人それぞれ、ということを大前提に私の考えを書いてみたい。

一個人として生まれたからには「その人であること」が最も大切だと思う。
例えば他人に合わそうとばかりする人、他人のことばかり気にして行動する人は、すなわち「自分の型」がないわけだから、そんなのは、ただ心臓が働いているだけに過ぎないのではないか。男女を問わず、人と付き合う時の判断基準は「自分にとってその人の存在価値があるかどうか」であろう。それが相手によって変化してしまったら、その人である意味がない。

ひとつ例を挙げる。
紅白歌合戦にも出た元プロミュージシャンがいる。この人はとにかく酒癖が悪くて行きつけの店では必ずと言っていいほど出入り禁止にされてしまう。言葉づかいもよくなければ気遣いもない。周りに迷惑ばかりかけているやっかい者だ。
もちろん私に対しても例外ではなく、何度も殴ってやろうかと思うくらい腹の立つ思いをさせられた。
それがいつの日だろう。久しぶりにあった彼から「兄さん、お久しぶりです」と声をかけられた。一瞬誰なのかと疑う位今までの彼からは考えられないような言葉づかいである。
彼に何があったのかは分からない。あちこちで出入り禁止にされて遊ぶところがないので、テキトーな言葉を並べただけかも知れない。ただ、私がその言葉を聞いた時、真っ先に思ったのは「残念」ということだった。
良くも悪くも彼ははちゃめちゃだから彼なのだ。人に気遣いなんかしないし、礼儀なんか知ってたまるか、が彼なのだ。
そのはちゃめちゃさが紅白歌合戦に出られるほどの曲を生み出したのだ。誰にうっとうしがられようが、どの店も出入り禁止になろうが、それが彼なのだ。ひとりどこかで野垂れ死ぬ。それが彼の生き方であるべきだ。誰かに媚びを売ったら最後である。
(態度を改めたからかどうかは知らないが)この間、出入り禁止を解かれた店に来た帰り、彼は階段から落ちて救急車で運ばれたそそうである。幸い命に別状はなかったらしい。ただ、“あくまでも象徴的に”ではあるが、私はそこで彼に死んでいて欲しかった。彼らしく死ぬチャンスを逃した。そう思った。


もうひとつ、男女の話も例に挙げる。
殺人者に惚れる人がいる。DVの人に惚れる人がいる。障害を持った人に惚れる人がいる。きっとそれは良くも悪くも「それがその人である」からだ。良い面も悪い面も含めて、それはその人の細胞が生み出している。世の中で生きていくには、ある程度の社会的バランス感覚が必要なので、殺人者である人のそうでない時の振る舞いは私たちには計り知れないほど魅力的なのかも知れない。

尊敬する谷川俊太郎さんはこう言っている。
「自分の生が、自分の墓石であることを願う」
人に迷惑をかけることはいけない。他人の命を奪うことなど当然ながらもっての外だ。
が、生きていくことは、誰にも迷惑もかけずに存在を消すことではないはずである。

その葛藤を生きる。それこそが生きるということではないだろうか。