戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応四年四月十九日

2005年04月19日 | 板垣退助日誌
祖父江可成ら迅衝隊が古河につくと北方をはるかを宇都宮方面に火焔を天をこがすのが見受けららた。
祖父江可成ら迅衝隊は土方歳三ら旧幕府軍が宇都宮城が危急の知らせに接する。

慶応四年閏四月十九日〔6/9〕板垣退助日誌

2005年04月19日 | 板垣退助日誌
この日土佐藩兵は板垣退助の反対を押し切って彦根藩兵二個小隊と出撃する。
土佐藩兵は祖父江可成を司令とし、軍監谷干城・桑原助馬・安岡覚之助など、迅衝隊四番小隊・七番小隊・十二番小隊、断金隊を引き連れて出発する。
彼らは午前三時に今市を出発し、大桑にて二手に分かれて谷干城たちの一隊が小百川を渡ろうとすると、銃撃に遭い苦戦する。
土佐藩兵を襲ったのは旧幕府軍ばかりではなく、藤原・栗山地方の猟師たちが土地勘のある地形を利用して銃撃し、土佐藩兵を悩ませる。
正午ごろに彦根藩兵が救援にかけつけて、谷干城の一隊はようやく敵を追い払うことが出来て難を逃れる。
谷干城の一隊が苦戦しているとの情報を聞き、板垣退助は「おんしらはあれほど意気ごんで出掛けおいて、いまさら弾丸が足りぬなどと泣き言をいふとは何事か。」
と伝令をしかりとばしたが、板垣退助は弾薬を送り届けさせ、自ら北村長兵衛の砲兵隊をつれて救援に向かうが、すでに戦いは終わっていたため
板垣退助は今市に帰還する。土佐藩士らの被害は戦死者二名、負傷者四名、旧幕府側の戦死者二名、負傷者十二名という結果であった。

先鋒総督の使者が下野方面の旧幕府兵の鎮定の功により、土佐藩の今市に来て感状を賜る。