戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

小栗上野介の徳川埋蔵金 管理人の勝手な独り言 【3】

2005年04月07日 | 管理人の勝手な独り言
管理人の勝手な独り言 【3】

昨日は小栗上野介の処刑を更新しましたが、その小栗は慶応四年、勘定奉行であり前年の江戸の薩摩藩邸焼き討ちを命じたこともあり、薩長軍に徹底抗戦を主張したが受け入れられず、知行所でもある上州権田村に引きこもる。

その際に噂として実は赤城山に幕府財宝を埋蔵したという、徳川埋蔵金伝説か生まれる。

時の大老、伊井直弼が尊王派やる諸外国列強に徳川幕府の財宝が奪われることを案じて大学頭幕府学問所頭取、林鶴梁に命じて埋蔵を計画させて、実際に埋蔵に当たったのが小栗上野介であり、そのため上州各地には埋蔵金に関する言い伝えや物証が数多く残っているとされている。


勝海舟と西郷隆盛の会談による江戸城受け渡しの際、江戸城内の金蔵がまったく無くが、薩摩・長州の間で小栗忠順が徳川幕府最後の勘定奉行であることから、徳川埋蔵金との深い関わりがあるのではないか、疑惑がもたれたという。

一時はテレビでも大々的取り上げられ、何度となく視聴者を釘付けにした徳川埋蔵金。特に有力視された赤城山麓を始め、利根郡新治村猿ヶ京温泉、三国峠近く永井の宿場跡、沼田街道の片品村など、現在も発掘中というから、驚きである。

小栗上野介が処刑されたときに、板垣退助は日光を占拠しています。もし、本当に徳川埋蔵金があれば、板垣退助もすぐに調査し発掘したことだろう
また、板垣退助が日光に入る前にいた大鳥圭介ら伝習隊が日光の財宝を持ち出したり、探したという事実もない。
それよりか、旧幕府の大鳥圭介ら伝習隊や板垣退助ら迅衝隊も戦略的に価値が無いと判断して、さほどここに腰を落ち着いていたという気配もない。

それよりか、日光の麓今市にて激しく両軍は戦うことを思うえば、ゲスのかんぐりではないが、意外に今市にて埋蔵金たぐいの財宝の一部があるのかと思うのは、管理人の強引な論法か。

また、後日小栗上野介の処刑についての私見を述べます。