唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(4.知覚と情念(4))

2018-11-25 11:39:06 | ハイデガー存在と時間

22)価値判断の補正者

 価値判断は情念に始まる。そこでの対象の価値を規定するのは、自由な意識の恣意である。あるいは、そもそも価値自体が自由な意識の恣意である。その自由な意識の恣意を基礎づけているのは、内感の物理的対象の不明瞭さである。端的に言うなら、情念の物理的対象が見えないことが、情念を価値判断たらしめる。そしてその対象の不可視に乗じる形で、悟性が内感に恣意的対象を結合する。この恣意的対象が価値である。価値はハイデガー式に用途として捉えられても良いし、プラトン式にイデアとして捉えられても良い。ただしいずれにせよ身体における用途やイデアは、快または不快に自らの一般的表現を見出す。それゆえに価値の大きさも、快または不快の大きさとして現れる。この悟性による内感と価値の結合は、恣意的であるがゆえに意識における対象の大きさもいい加減なものとなる。結果的にその情念は、対象に比して大きすぎる恐怖、または小さすぎる痛みのような出鱈目な情念として現れる。自然界ではこのような情念の恣意的な価値判断に対し、自然の価値判断が補正を行う。すなわちその補正は、不当な価値判断を行う個体の自然淘汰として現れる。それゆえに経験的諸科学から見ると、妥当な価値判断の成立とは、情念の妥当な大きさへの自然収束に過ぎない。同じことを経験的諸科学から離れて言えば、妥当な価値判断の成立とは、単純に内感と対象の一致である。しかしもともとそのような単純一致が可能であるなら、恣意的な価値判断を補正するために、わざわざ自然淘汰を待つ必要も無い。人間的意識では、このように情念の恣意的な価値判断を補正するものは理性だと呼ばれる。それゆえに情念論を語る上で理性への言及は避けられない。ところが上記に述べてきた情念論において、理性は登場していない。同じことはハイデガーの情念論についても該当する。ただしハイデガーは、情念の価値判断を理性の判断と同一視し、主観的なことが客観的なことだと決め込んでいる。したがってハイデガー情念論に理性が登場しないのは、驚くことではない。実際にはこのハイデガー情念論における理性の欠落は、そのままハイデガー情念論における合理的投企の説明の欠陥部分に該当する。したがって情念論における理性への論究は、価値判断の補正をどう説明するかのためだけではなく、ハイデガー情念論を理解する上でも必要とされている。


23)真偽判断

 知覚において悟性は知覚と対象を結合する。この結合での対象は、知覚の物理的実体として現れる。ただし物体は知覚において現れるものである。それゆえにその結合の内実は、例えば陰影と色彩の結合のような知覚同士の結合になる。さしあたりこの知覚同士の結合で、どちらが知覚の物理的実体に該当するのかは、ここで問われる必要は無い。知覚において結合される二者はいずれも物体であり、両者における知覚と対象の関係は相対的なものに留まるからである。例えば陰影が知覚であれば色彩はその対象であり、色彩が知覚であれば陰影はその対象だとみなされる。そしてこの二者の結合関係は、内感においても基本的に変わらない。とは言え知覚と違って内感では、悟性が内感と結合するのは、もっぱら諸表象となる。ここでの結合は、例えば冷ややかさと鉄板のような内感と対象の結合として現れる。ただしその両者における知覚と表象の関係も、やはり相対的なものに留まる。例えば鉄板が知覚であれば冷ややかさは表象であり、冷やかさが知覚であれば鉄板は表象だとみなされる。とは言えここでの物理的実体は、やはり鉄板である。しかしもし両者ともに表象であるなら、両者は等価である。ただしその数式的な抽象的相等関係は悟性にとって足元の不確かな不気味な関係である。それゆえに悟性は、もっぱら抽象的相等関係の現実性を得るために、知覚の再結合を行う。要するに現存在は、実際に物を手に取って確かめることを行う。ただしこのような確認行為の内実は、情念の価値判断を確認するための真偽確認となっている。すなわち価値判断は自ら価値判断であることを放棄し、真偽判断へと判断の行方を委ねている。もちろんこの情念の自己否定が表現するのは、現存在における理性の登場である。


24)情念の脱自

 内感と表象の結合は、情念において内感と価値の結合に特化して現れる。それを可能にするのは、そこでの悟性における対象結合の自由である。すなわち内部知覚を情念に変え、意識の価値判断を可能にするのは、悟性が内感の結合対象を自由に定立できることに依拠する。この自由があるからこそ悟性は、内感と価値の結合、すなわち価値判断を行うことが可能となる。結果的に意識において程良い熱は快楽として現れ、突き刺さる侵入感は激痛として現れるように、個々の内感は意味を持つ。しかし悟性による意味付与は、内感に対するだけで終わるものではない。なぜなら悟性における対象結合の自由は、価値の結合対象を内感に限定しないからである。悟性は内感に価値を与えたように、表象にも価値を与える。まずそれは表象としての過去に価値を与え、その中でも特に予兆に関わる過去に価値を与える。これらの表象の意味付けは、ハイデガー式に考えれば現存在における意味付けられた時間の発生である。ただしこれらの価値判断は、いずれも真偽判断ではない。真偽判断は、価値判断自らに対する価値判断として現れなければいけない。すなわち真偽判断とは、表象に対する価値の結合でさえなく、情念に対する価値の結合を言う。それは個々の情念に対し、悟性が例えば痛みに快不快を付与し、満足に快不快を付与することにより、情念についての情念をもたらす。さしあたりその情念は、目先の欲に眼を奪われたことについての自己憤慨であり、目先の苦痛を回避したことについての自己満足である。一見するとそれは現存在における自己の発生なのだが、情念に対する情念は、自ら対象にするところの先行して既に生じた情念を自己だと捉えていない。すなわちそれは反省する自己意識ではない。ヘーゲルの場合、自己意識は独断と懐疑に疲れて自己否定した意識、すなわち不幸な意識である。ここでの情念に対する情念は、そのようなヘーゲル的自己意識に到達していない。すなわちその情念は、まだ独断と懐疑の混乱を経験する以前の原初的な反省としてのみ現れる。一方で情念についての情念は、自らが情念であることを維持するなら、先行して既に生じた情念を情念から除外する必要がある。また先行して既に生じた情念は、過去の情念であり実際に既に表象化している。しかしそうであるなら先行して既に生じた情念は、情念ではなく内感であり、すなわち知覚だったことになる。ところがこのような扱いは、反省する現存在にとって混乱をもたらす。実際に先行して既に生じた情念は、恣意的な価値判断であり、知覚ではないからである。そしてその情念に対する情念にしても、やはり恣意的な価値判断であり、知覚ではない。ここに起きているのは、二つの価値判断の対立である。しかしこの混乱に対する終結は、先行して既に生じた情念を情念のままに留めることを要求する。実際に本来の情念は、先行して既に生じた情念だからである。そうであればその反省する情念は、自ら情念であることをやめなければいけない。これにより反省する情念における価値判断は、真偽判断として自らを区別し、価値判断に対して形式的に優越する。そして反省する情念は、理性として生まれ変わる。すなわち理性とは、脱自した情念を言う。


25)頽落と理性

 ハイデガーにおいて情念論は、原初的意志に自らの実存を委ね、理性を排撃する反理性主義の牙城になっている。当然ながらそれに対する唯物論からの評価は、情念の充実で意識を欺き、理性の判断に現存在の頽落を見い出すような主観第一主義となる。このようなハイデガー評価は正当なものである。ただしこれは若干頭ごなしな評価であり、ハイデガーに対して優しくないのかもしれない。それと言うのも、上記にあるように価値判断に対する真偽判断の優越は、形式的なものだからである。価値判断と真偽判断は、いずれももともと情念である。すなわちここでの価値判断と真偽判断はいずれも恣意であり、真偽判断に特段の優越を見出すことができない。そうであるなら真偽判断が行う価値判断の評価は、価値判断の原型を損壊するだけの単なる気の迷いになってしまう。この点では、価値判断から離れた真偽判断を頽落として断じ、価値判断の原型をそのまま真偽判断に適用する考えにも一定の妥当性は成立する。しかしそこで価値判断から真偽判断への通路を閉じてしまうと、意志は情念に閉じこもったまま理性になることができない。すなわち価値判断の原型を保持しようとすると、逆に真偽判断はそのまま宙に浮いてしまう。理性の不要化とは、真偽判断の不要化だからである。それだからこそハイデガーにおける真理は、真偽判断が見い出す真理ではなく、露呈を期待されるだけの現象学的真理となる。もちろんその真理は、唯物論における認識対象の物理的実体ではない。唯物論における物理的実体は、理性を通じて近づき得るものである。それに対してハイデガーにおける現象学的真理は、現存在の実存において意味を持つ価値である。すなわち真理とは現存在の実存に即した存在者の在り方であり、偽は現存在の実存から乖離した在り方である。その真理に至るために必要とされるのは、理性ではなく直観である。理性はむしろ肝心の認識対象をどんどんと遠ざけるだけの煙幕の役目を果たしている。弁証法的思考にとって真理に至るための道は封鎖されており、カント式の先験認識が超越のための道筋として期待される。そして現象学こそがこの期待を実現する唯一の方法だと宣言される。しかし理性が見い出すべき真理を、情念が見い出す価値によって代置したつけは、そのままハイデガー実存論を、真偽判断の発生の必然を説明しない媒介を排した直観主義にする。それがもたらすのは、真理を情念に委ねる非合理主義である。
(2018/11/25) 前の記事⇒(知覚と情念(3))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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