唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(3.時間論としての「存在と時間」(3))

2019-03-07 22:55:44 | ハイデガー存在と時間

8)ハイデガー時間論の修正方向

 ハイデガーにおいて現存在に時間をもたらす時間性は、一方に現存在に脱自をもたらす決意、他方に決意の欠けた脱自としての頽落が現れた。その脱自のダブルスタンダードは、決意と頽落の対立図式と言うよりも、決意と脱自の対立図式であり、さらに言えば時間性と時間の対立図式になっている。それは時間性から時間を派生させようとするハイデガーの目論見に反し、時間をそもそも時間意識の始まりに定立する。ただしその循環する相互関係は、意識と物体の対立図式を時間論において再現したものである。当然ながら唯物論式の単純な反論で言えば、そもそも決意は時間を前提にしているではないかとの言い方に落ち着く。そして観念論式の単純な反論も、決意なくして時間は時間たり得ず、時間は存在しないと言うことであろう。両者の水かけ論を避けて落としどころを探すと、やはりキェルゴールへの回帰が浮上する。キェルゴールの絶望の弁証法には、ハイデガー式の決意と頽落の二元対立が無いからである。ハイデガーは決意の非恒常性を補完する別の時間性として頽落を樹立し、時間の恒常性を説明する。それに対してキェルケゴールは、決意を促す情念として不安の代わりに絶望を措く。現存在において不安の対象は未来であり、自らの自由であった。一方で絶望の対象は過去であり、自らの卑小な現実である。絶望は反省において現れるが、キェルケゴールにおいて絶望は不安と同様の恒常的な情念である。人間意識は悦楽の果てに虚無を味わい、怒りと憎しみの終わりに苦悩を知る。しかしそれらの絶望は実際には常に悦楽や憎悪と一体にある。すなわち悦楽や憎悪の始まりには、既に絶望がそれらの内に胚胎している。それゆえに解脱した意識にとって、悦楽や憎悪は既に絶望として目に映る。悦楽や憎悪はおそらくハイデガーでは頽落に該当し、現存在の本来的脱自を許さない。ところがキェルケゴールではそれらの絶望が常に人間意識の脱自の契機として現れる。すなわち全ての道は信仰に通じている。なぜなら絶望は、神の啓示だからである。それは不断に人間意識に働きかけ、常に人間意識を脱自させる。それゆえに絶望がもたらす時間経過は不断に進むことになる。ただしキェルケゴールでは、時間経過の各局面に脱自が得た実存に偽りは無い。人間意識に現れた絶望が啓示であったように、人間意識に訪れた実存はやはり福音だからである。それゆえに実存を到来させる脱自は、人間意識に黄金の輝きを与える。ところがその本来的時間としての人間意識の脱自は、人間意識に現れた途端に黄金の輝きを失い、鉛色の像へと変化する。それは、具体的時間性の抽象的時間化であり、脱自の表象化である。そしてその脱自の輝きは二度と戻らない。キェルケゴールにおいて、徐々に訪れる絶望の闇の中で人間意識を内から輝かせるのは、信仰に対する確信だけである。


9)実存主義における時間の図式表現の修正

 時間性から時間を派生させようとするハイデガーの目論見は、発達心理学的に主観から客観が現れ出る理屈として結実すべきである。その意味で時間性に決意を持ちこむハイデガーの試みは、高次元な意識を時間意識の始まりに定立する無茶な時間論に見える。それに対してキェルケゴール弁証法は、時間経過が脱自に一元化されている。その脱自は主観的時間としての時間性であり、ことさらに決意を必要としない。決意が現れるとしても、絶望の後にそれは現れる。日常的時間がこの時間性としての脱自から派生する理屈は、概念の一般化および抽象化の理屈に準じる。すなわち客観的時間とは、主観的時間が一般化および抽象化したものである。さしあたり主観的時間の大きさは、恣意的な大きさとしてまず現れる。そのことは主観的対象の大きさが、恣意的な大きさとしてまず現れるのと同様である。またそれだからこそ実存の現瞬間は、単なる瞬間ではなく永遠が開ける。しかしその大きさの恣意性を除けば、脱自に一元化された時間像は、未来から過去に時間が流れる時間像ではなく、過去から未来に進行する時間像として日常的な時間進行を表現する。それは先に実存主義における時間の基本的な図式表現として示したものとなる。この同じ時間の図式表現を、ハイデガーの時間像に倣って描き直すと次のようになる。

              ┌→(実存)→→→→→→→→→┐
              ↑          ↓
  (信仰)・・・・・・・・・・・・・・脱自←←←絶望←←←←←←←(非実存)
   未来        現在         過去

上記の図柄は、ハイデガー時間論における決意と頽落の二重構造が消えている分だけすっきりした姿になっている。すなわちこの図柄では、決意と頽落の区別なしに時間は同じように進む。その時間進行を規定するのは、人間意識の絶望および脱自である。そしてさしあたり脱自の結果として人間意識の実存は実現する。ただしここではその実存の姿が本来的であるのか頽落的であるのかは問われていない。とは言えそれが頽落的であるなら、おそらくその実存は虚妄であり、人間意識は絶望を繰り返すことになる。この時間像も、ハイデガー時間論のように、現在を先頭に過去と未来を尾に引きながら実存に向かう彗星のような姿として捉えられなくもない。しかし上記の単純化された図柄で見る限り、そのような奇異な時間像としてわざわざ捉える必要も無い。


10)主観的時間と客観的時間

 脱自は人間意識において自らの意識変化として現れる。したがって脱自はまず人間意識にとって感性的所与である。それは目前に物体が出現する変化と変わらない。それゆえに客観的時間が主観的時間から派生することをもって、時間は意識に過ぎず、その物理的実体は無いと断じることは無理である。その無理は、物体が感性的直観において現れることをもって、物体は意識に過ぎず、その物理的実体は無いと断じる独我論の無理と変わらない。客観的時間が主観的時間の一般化および抽象化したものであるとしても、その主観的時間を規定するのは、やはり時間の物理的実体である。したがってここでの主観的時間から客観的時間が派生する姿は、主観から客観が生まれるときの一般化や抽象化の仕方に含まれてしまう。もともと直観における対象の主観的な現れは、対象の実体を正確に表現すると限らない。とくに第一印象に現れる対象は色も形も大きさも大雑把であり、そのためにそれらを正確に計測するための指標が必要とされる。すなわち主観的な熱や重さや拡がりは、度量衡を通じた計測によってのみ他人や後日の自分と共有される。このことは時間についても同じである。しかしそのように現在の自分における主観的な現れを他人や後日の自分と共有できるのは、同じ度量衡を現在の自分と他人、および後日の自分が共有するからである。空間的指標は例えば平均的な人間の歩幅や身長としてひとまず現れ、メートル原器に結実する。しかしその元の姿は、意識と離れた自然物にすぎない。共同体構成員の合意が度量衡の単位を決定したのだとしても、その度量衡の単位は自然物の中に見出される幾つかの候補から選ばれるだけである。それは意識の内から先験的単位として現れ出ることはできない。つまり主観はそのまま客観になることができない。人間意識は何らかの客観に帰依することにおいてのみ自らの主観に対して客観を見出す。客観は最初から人間意識に対して現れないにせよ、脱自の反復において現れる複数の自己、またはそもそも自己ならぬ他者が、現存在する自己に対して客観を現す。


11)時間の意味と決意

 決意は現存在の脱自を促す。ただしもともと決意自身が既に現存在の脱自である。同様に頽落もまた既に現存在の脱自である。これらの脱自は、絶望によってもたらされる。すなわち絶望を媒介にして人間意識は決意し、あるいは頽落する。キェルケゴールに回帰する形で得られるこの時間論は過去の因果を優先させる点で、ハイデガーの目論見に対立する。そのハイデガーの目論見とは、未来の理想を過去の因果より優位に立て、人間の自由を確保しようとする目的論を言う。それに対して過去の因果を未来の理想より優位に立てた場合、脱自としての時間は容易に無機的な日常時間に変わる。その場合、過去の因果がその威力において人間から自由を奪うと推測されるからである。その限りで時間の意味を決意として捉えるハイデガーの解釈は、時間の本来の姿を鮮明にする点で有意である。しかしそれは逆に現存在を脱自不能な静止点に変える。そのときに現存在の脱自は、世界の変化に代替されることになる。すなわち現存在自身は不変な静止点となり、代わりに現存在を取り囲む世界が脱自し、その変化が時間として現れる。それは到来し既在となる時間の流れであり、その中で現存在自身の主体は保持される。そしてその時間の流れは、現存在の決意が生んだものだと理解される。しかしこの時間的独我論は、空間的独我論と同様の謎を抱える。独我論の謎とは、目前の空間的対象が自分の意識の一部なら、なぜその自分の意識は随意にならないのかの謎を言う。随意にならない空間的対象は自分ではなく他者であり、自律する客体である。独我論にとって自律する客体との遭遇は、そのまま自らの理屈の困難との遭遇になる。この同じ困難は時間的独我論にも成立する。そのためにハイデガーは、随意な時間を決意に推進させ、随意にならない時間を頽落に推進させる。この時間的二元論は、それ自身がハイデガー時間論の矛盾である。ハイデガー時間論が難解な姿であるのは、この二元論的矛盾の賜物である。しかし脱自不能の静止点となった現存在自身は、自由な主体となった見返りに今度は自ら主体であることを放棄する自由を失う。なるほどキェルケゴールにおいても思想の最大の関心事は自己であった。しかしその自己は絶望を通じて常に解脱する。ハイデガーの自己はそうではない。その主体は自己否定を拒否して自我に固執するので、現象学的判断停止にも耐えられない。その現存在は自ら持つ最大の自由、すなわち自分自身から解脱する自由を失っている。それは脱自の自由であり、それこそが時間の意味を成している。そのことが明らかにするのは、ハイデガー時間論があからさまにキェルケゴール実存論から逸脱していることである。
(2019/03/07) 前の記事⇒(時間論としての「存在と時間」(2))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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