唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第2編第5章 脱自と歴史)

2018-08-28 23:10:18 | ハイデガー存在と時間

 死の先駆において在り方の意味を脱自として了解した現存在は、さらに自ら脱自する意味をさらに了解していなければならない。次にハイデガーが進むのは、死の先駆において不完全な現存在の全体把握を、始端への復帰を通じて運命と言う名の歴史的自己把握へと連ねることである。ここでは歴史を現存在の生起の系譜と捉え、ディルタイ歴史論の批判的継承者として自らをアピールした第2編第5章を概観する。


[第2編 第5章の概要]

 現存在の全体把握は、死の先駆だけではなく始端への復帰を要求する。それが要求するのは現存在の過去把握であり、歴史的自己把握である。ただし現存在は世の中での在り方であるゆえ、その始端は現存在の肉体的誕生ではなく、世の中での在り方の生起として現れる。その歴史は現存在において既在する過去の世の中であり、消失した過去ではない。したがって現存在が歴史的なのであり、世の中の歴史的存在者はそうではない。歴史は現存在の脱自の歴史として次のように演繹される。まず死の先駆を通じて現存在は、自らの既在を被投性において引き受け、状況に身を投じる決意をする。この被投性への復帰は、既在の伝承を含意する。ただし被投性への復帰を行うのは決意であり、決意が伝承を選択し構成する。この決意の内に含まれた現存在の生起を、ハイデガーは運命と呼ぶ。現存在の実存は他者と共存する世の中の在り方なので、現存在の本来的生起は、他者の運命と共同する民族の生起として現れる。歴史的現存在は運命の姿で実存し、本来的ではない歴史的現存在は、予期と忘却を繰り返す現成の中に自己を喪失する。なお歴史を含めて学問は実存論から語られなければならない。それらは原体験的実存から離れることができないからである。またそれだからこそ主観的であることが客観的だとハイデガーは断じる。中立を装う学問は自己喪失した日常性にすぎない。ハイデガーはヨルク伯によるディルタイ歴史論への批判を借りて、歴史の背後的な力として個人の実存を見い出す。



1)現存在における歴史

 死の先駆は現存在の全体把握を可能にする。しかし死は現存在の終端に過ぎない。そこで現存在の全体把握は、次に現存在に対して始端への先駆を要求する。それは要するに現存在の過去把握であり、歴史的自己把握である。ただしハイデガーは現存在の終端を身体的死と同一視しなかったように、始端を身体的誕生と同一視しない。そこでハイデガーは始端を誕生と呼ばず、生起と呼ぶ。現存在は生起から死の間隙に生きており、その自己把握は歴史把握から切り離せない。現存在の歴史の概念は、さしあたり次のようになる。
 a)遺跡
 b)由来や経緯
 c)伝統
 d)実存伝承
上記のいずれの形態であっても、歴史は現存する過去である。それは現存在において既在する過去の世の中であり、消失した過去ではない。歴史的なのは現存在である。世の中に在る歴史的存在者の歴史性は、現存在に劣後する。ゆえに歴史は、現存在の脱自の歴史として演繹されることになる。


2)現存在の歴史としての運命

 死の先駆を通じて現存在は自らが自由であるのを了解する。その了解とは、自らの既在を被投性において引き受け、状況に身を投じる決意である。そしてそのように了解する現存在だけが、自らの時代に対して瞬視できる。この被投性への復帰は、既在の伝承を含意する。ただし被投性への復帰を行うのは決意であり、決意が伝承を選択し構成する。したがって現存在の生起は、既在ではなく決意の内に含まれる。当然ながら伝承も既在への復帰と言うより、既在との対決として現れる。この決意の内に含まれた現存在の生起を、ハイデガーは運命と呼ぶ。一方でその現存在の実存は、他者と共存する世の中の在り方である。それゆえに現存在の本来的生起も、他者の運命と共同する民族の生起として現れる。それは共存する現存在の共同体の運命であり、個々の運命を合成したものではない。歴史的な現存在は、運命の姿で実存する。なお本来的ではない歴史的現存在は、予期と忘却を繰り返す現成の中に自己を喪失する。


3)原体験的実存と歴史

 ハイデガーにおいて学者は実存論から学問を語らねばならない。学者の語る学問は、学者の原体験的実存から離れることができないからである。またそれだからこそ主観的であることが客観的だとハイデガーは断じる。とくに歴史学の真性は、時間性に基づく歴史解釈に従うと考えられており、その普遍性は否定される。ハイデガーはむしろ中立を装う学問に自己喪失した日常性を見い出し、そのような学者の態度に欺瞞を嗅ぎ取る。そしてこの中立的歴史学に対する批判を、ディルタイの歴史哲学に対しても向ける。ただしハイデガーは「存在と時間」の目論見を、ディルタイ歴史論の批判的継承だと述べている。それゆえにその批判も、ディルタイに好意的なヨルク伯によるディルタイへの提言を踏襲する。ヨルク伯による批判は、ディルタイの歴史哲学が記念碑的・好古的に留まり、批判的歴史学になっていないと断じるものである。注目すべきなのは、ヨルク伯がディルタイに対し、歴史的事件の些末な事実ではなく、その背後的な力を見よと忠告するところである。この引用からは、歴史に内在する力として個人の実存を見い出そうとするハイデガーの意図が現れ出ている。その歴史観は、学問の中立性の否定や歴史の潜勢力を問題にする点で共産主義の歴史観に類似するように見える。しかしハイデガーの歴史哲学は、事物において歴史の潜勢力を捉えることを拒否する点で、むしろ唯物史観と対立している。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第2編6章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第2編4章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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