唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(4.知覚と情念(1))

2018-11-15 07:00:20 | ハイデガー存在と時間

1)原初的意識としての情念

 先行記事で筆者は「存在と時間」を意識成立に関する発達心理学として解釈した。事物的知覚よりも内感的情念を先行させようとするハイデガーの試みは、この解釈においてとても魅惑的に現れる。それと言うのも、意識の原初に現れるのは、事物的知覚よりも内感的情念ではないかと期待されるからである。もともと情念は、理性や悟性に比較して動物的な原初的意識作用として扱われている。情念は個別偶然な意識であり、思い込みにおいて虚偽を含み、その対象も質料なのか形式なのか不明瞭である。単純に言えばそれは、理性や悟性のように客観を飾らず、客観を構成する以前の主観に留まるからである。同様に情念は、知覚との比較でもやはり原初的な意識作用だとみなされ得る。それと言うのも、情念は内感であり、身体的媒介を必要としない直観だからである。一方の知覚は、知覚するための身体機能を必要とする。その身体的媒介の必要は知覚を既に対象をありのままの姿から引き離す。それに対して情念は身体的媒介が不要であり、情念の対象は情念と一体になって現れる。もちろん実際には情念にしても、内感するための身体機能を必要とするのであろう。しかしそうだとしても、情念は知覚に比べるとより意識に対して直接的であるのに変わりは無い。情念の原初性は、事物的媒介の不要性によって支えられている。もしここで情念を知覚の原初的姿として解釈するなら、その解釈は情念のハイデガー式解釈へと容易に連繋する。そこでの知覚は、情念の派生した姿、あるいは頽落した情念として現れる。


2)知覚は原初的意識か?

 情念は価値判断を含む。例えば漠然とした気分であっても、快不快の感情であっても、情念は現状に対して利害評価をしている。利害評価は現存在を利に誘導し、害から遠ざける目的因である。それゆえに情念は、価値判断の欠けた事物的知覚と違い、それ自体が既に意志である。したがってもし意識が情念に始まるなら、意識は生まれついて投企をしていることになる。しかも情念は、対象の真偽や善悪または美醜を評価するために、対象と離れた別の基準を立てなければいけない。そこには目的因だけではなく、形相因までもが顔を出している。情念を原初的意識作用として捉えようとすると、逆に目立ってくるのは情念が抱える複雑な構造である。その構造の複雑さは、情念を原初的意識作用として捉えることに疑問をもたせる。意識の成立と発達を考えるなら、原初の意識はもっと単純な構造であり、それから複雑な意識構造へと発達すべきだと考えられるからである。この点で言うと知覚は単純である。まずそれは価値判断を含まない。知覚は利害と無関係に対象の状態を捉え、それを表現するだけである。またそれよりも問題なのは、先行記事でも述べたように、対象が定立されるからこそ、初めて対象の評価が可能となる現実である。すなわち価値判断は価値判断すべき対象をあらかじめ定立しなければいけない。当然ながらその定立にも価値判断が含まれていてはならない。このことが表すのは、情念が自らに先行して知覚を必要とする現実である。結果的にこの捉え方が要求する意識の原初的な姿は、情念ではなく、知覚になりそうに見える。そうであるなら、意識の成立と発達の捉え方も、先に考えた姿と逆転したものとして現れなければいけない。すなわちそれは、情念から知覚が派生するのではなく、知覚から情念が派生する姿である。


3)情念に先行する知覚

 唯物論的思考において考えると情念に対する知覚の優位は明らかなように見える。ところがここで観念論的思考に立ち戻り、この情念に対する知覚の優位を見直すと或る問題点が露呈する。情念に対する知覚の優位は、スピノザ式機械論へと帰結するからである。それは知覚と情念の連繋を必然的な物理連鎖で繋ぎ、意識の自由を錯覚にしてしまう。しかし先に述べたように、情念は価値判断であり、意志である。意志は行為を自由に選択するから意志である。意志にそのような自由が無いのであれば、意志が意志である理由は無い。その場合、情念と知覚の間に差異もなくなる。この状態で意識が自らの自由を確保しようとするなら、カントが行ったスピノザ機械論への対抗策に頼らざるを得ない。それは対象を不可知にして自由を捏造するものである。なるほど対象が不可知なら、その対象への働きかけも対象によって規定されることは無い。とくに未来は不可知なので、未来への働きかけの方向は全て自由となる。しかしこの対抗策は、めでたいようでちっともありがたくない。それだと意識が対象の可知を知ることは、意識の不自由の発覚に等しいからである。もちろん実際にそこで発覚するのは、意識の不自由ではなく、機械論に対するカント式対抗策の挫折である。不可知論は、むしろ意識にスピノザ式機械論を確信させる役割を果たすだけに終わる。情念論はハイデガー式解釈へも進めず、機械的唯物論へも進むわけに行かない。この情念論の行き止まりは、唯物論においてハイデガー式情念論を解釈し、その改造を検討するのであれば、あらかじめ情念論を唯物論的見地において、整理することを要求している。以下にその整理した情念論を記述する。


4)知覚の物理

 情念との比較で知覚の単純さを理由にして、知覚を原初的意識に扱うのは誤りである。簡単に言えば、知覚は意識ではなく物理だからである。それは外部刺激の反映であり、言わばネットワーク伝送された外部情報である。伝送における電文変換が複雑な事情は、電文を意識に変えるものではない。そのように知覚を物理として理解するなら、それが情念に先行し、情念より単純に見えるのも当たり前にもなってくる。知覚が意識ではない理由は、知覚における自由の欠如にある。なるほど一見すると知覚が価値判断の前提であることは、価値判断に対する知覚の優位だと受け取れる。しかし実際には価値判断において知覚は単なる参考対象に留まる。なぜなら価値判断が前提にしている知覚は、一つの知覚ではないからである。もし価値判断が一つの知覚だけを判断材料にするのであれば、そもそも価値判断に選択の余地も無い。そのような価値判断は一つの答えしか知らず、知覚との差異も失ってしまう。そのような価値判断は価値判断ではない。したがって端的に言えば、価値判断は価値判断である限り、そもそも知覚から自由である。またそのように価値判断が知覚から自由でなければいけない理由は明白である。知覚は錯覚を含み、知覚への無条件な追従は生体としての現存在を危険にさらすからである。知覚への不信は、そのまま知覚を価値判断に対して劣位させる。ただしここでの知覚と価値判断の間で発生する規定的優劣の逆転は、実在と実在性の間の規定的優劣を逆転させるものではない。実在はどこまで行っても実在であり、それが無になることは無い。同様に物理と意識の間にも実際には規定的優劣に逆転は起きない。規定的優劣の逆転は、あくまでも意識が物理と意識に代置したところの知覚と価値判断の間で起きている。この情念における規定優位の転覆を可能にするのは、価値判断の自律である。それゆえに問題の焦点も、価値判断およびその自由の成立へと移る。


5)価値判断の原型

 価値判断の原型は、自然世界の中に既に現れている。並べられた小石に雨が降り続けば、軽い石は押し流され、砂岩は侵食により粉砕する。ここで押し流す石や粉砕する石の選択をしているのは、直接的に言えば雨である。すなわち雨が、石の持つ属性を判断材料にして石を選択し、それらを押し流したり粉砕している。もちろんこの説明に対して、雨はどの石にも無差別に降っており、雨は選択をしていないとの反論が起きなければいけない。しかしそれは、選択者を石の側に変えるだけである。どのみち行為者は雨か石であり、どちらも無機物である。いずれにせよ選択は実際に起きている。似たような表現を探せば、「海流が砂を運ぶ」とか「風が木の葉を落とす」の言い方は生活の中でよく使われている。これらの表現で見ても、その行為者は既に特定の砂を運んでおり、特定の木の葉を落としている。それでもそれは選択ではないと言い張るとすれば、選択行為を人間固有の行為として限定する必要がある。ただしそれは、海流や風は意識を持たない、だから選択がそこに起きてはいけない、と言っているだけである。その反感の内側には、意識を人間的で聖なる存在者に見立て、物体を非人道的で汚らわしい存在者として斥ける世俗宗教が貼り付いている。もちろんここでの雨や石に対するスピノザ式擬人化は、自然の中に意識を見い出そうとするものではない。ここで起きているのは、意識による選択ではなく単なる物理である。同じような擬人化可能な選択は、雪や塩や水晶のような無機物の結晶にも見出せる。高温状態からの冷却や溶解液の蒸発は、溶解液中の分子運動を停止させ、分子相互を結合させ、そして結晶を生み出す。結晶化は溶液中で激しく動いていた分子がエネルギー消失に伴い近辺の分子と結合することで発生する。結合の仕方は分子構造に従うだけであるが、分子自身にとってそれは結合先の選択である。この結晶の成長と同じような捉え方をすれば、有機物からの生命体の発生も似たようなものとして現れる。違いがあるとすれば、そこには意識的選択の誕生が予想される点だけである。しかし選択について意識の関与を問わないのであれば、選択は自然世界の巷に見い出し得る。もちろんその選択は、諸物の運動の単なる結果にすぎない。ここでの選択の中心点となる選択の目的は、単なる自然秩序の維持である。とは言えその選択に関して第三者が関与しているわけでもない。したがってさしあたりこの選択は、物理法則の姿において自律している。この巷に見出し得る選択は、意識の価値判断の質料的原型だと考えられる。ただしそれにはまだ魂を吹き込まれていない。そこには喜びや悲しみはどこにも無い。あるのは、秩序の安定と不安定に伴う自然の平穏と咆哮だけである。しかもこの自然の選択は、個々の生体に対して利するものと限らない。例えそれが生体に利するものだとしても、それを意識の価値判断に変えるためには、自然の選択に対するさらなる一押しがまだ必要である。


6)価値判断および自由の成立

 生命体による選択と物理的選択との差異は、生命体における物理ならぬ意識の出現にある。その差異をもたらすのは、個々の生命体の自律であり、自由にある。この自由の出現を可能にする条件は、先の記事(「発達心理学としての『存在と時間』」)での「意志の成立」で述べたとおりである。すなわち物理運動自らによる外界刺激の遮蔽、ないしは外界刺激の消失があれば、物理運動は投げられる身分から脱し、投げる身分に変わる。これと同じように、情念も知覚から遊離して暴走ないし独走するなら、それは意識となる。情念の知覚からの遊離は、情念自身が行う場合もあれば、知覚自身の静止において始まるかもしれない。いずれにせよ情念の自律が情念を意識に変える。しかしこの自律が意識を規定する説明は同語反復かもしれない。自律とは自由であり、意識の存在も自由である。したがって自律が意識を規定するとの言い方は、自由は自由である、または意識は意識であると言っているだけである。そこでこの同語反復の内容をさらに確認する必要がある。このために次に再び物理としての知覚、内感としての情念、そして価値判断としての情念についてそれらの差異と関係を見直すことにする。ここで情念について内感と価値判断を分けているのは、筆者が内感を現存在に対して投げられたものと捉え、価値判断を現存在が投げるものと捉えるからである。もちろんそれは、既に意識としてある情念と意識ではない内感の二つがあり、しかも知覚がそれらと区別されているのを表現している。ただし包括および派生関係を言えば、内感は知覚の一種であり、内感ともども知覚は物理的存在者である。それに対して情念は、内感から派生した意識である。以下でまず知覚と内感、そして内感と情念の区別を述べる。


7)知覚と内感

 ひとまず強烈な光線や熱のような知覚を除いて言えば、現存在の生体利害に絡む価値判断に知覚は関わっていない。例えば視覚に現れる長さや色は、それ自体として現存在の生体利害に関わっていない。その長さが長すぎるのか短すぎるのかは生体の都合でしかなく、その都合についての判断も知覚ではなく判断作用としての意志が行う。意識はもっぱら視覚映像を、眼が向いている先に現れた物体そのものだと考える。しかしその予想は、身体の外に在る物体と視覚映像を結合する悟性の働きだと考えられている。同様に温感に現れる温かさや冷たさも、それ自体として現存在の生体利害に関わらない。そして意識はやはり温かさを、もっぱら肌の周辺に現れた物体そのものだと考える。ここでもその予想は、肌の周辺に在る物体と温かさを結合する悟性の働きだと考えられている。しかし視覚が視覚対象を身体外に在るものとして明白に扱うのに対し、温感は身体外に在るのか、身体内に在るのか、その所在がそもそも不明瞭である。このような差異は知覚を大雑把に以下の二グループに分ける。

 外的知覚 …視覚・聴覚・嗅覚などの知覚
 内的知覚 …温感・圧迫感などの内感

二グループの一方の外的知覚は身体外の物体との結合が直接的であり、知覚と対象の間の差異が現れにくい知覚である。他方の内的知覚は知覚として対象から遊離しており、それ自身として現れる内感である。この内感と対象の結合は、悟性が与えた恣意的な結合にすぎない。ちなみに触覚や味覚は、二グループの境界上でどちらにも転ぶ中間的な知覚として現れる。外的知覚と内感はいずれも知覚であるのは同じなので、悟性は内感を可能な限り身体外の物体に結合する。例えば悟性は熱さを太陽に結合する。しかし悟性が内感を結合すべき身体外の物体を見い出せなければ、内感は悟性自らに結合されるしかない。その結合はもっぱら内感を、内感の現れた原体験として現存在の記憶の内に在る表象に結合する。この内感と表象の結合は、内感を意識に昇格させる錯覚をもたらす。それどころかこの錯覚はさらに、知覚全体を意識へと昇格させる錯覚に至らしめる。ただしこのことは、知覚と内感を区別すべき理由ではない。両者を区別すべき理由は、知覚としての内感が意志としての情念に派生することにある。


8)内感と情念

 強烈な光線や熱のような知覚は、それ自身が現存在の生存を選択する。それらは場合によって現存在を死滅させる。ただしそれは先に述べた自然による流石の選択と同様に自然が行う選択である。さしあたりそれは意識による選択ではなく、単なる物理である。一方で意識による選択は、意識の価値判断として、すなわち情念として現れなければいけない。その価値判断で情念は、現存在の価値基準に従う形で、対象に価値を結合する。ここでの価値は生体にとっての利害の具体的表象を言う。現存在の価値基準は、現存在の恣意的基準であり、現存在の自由を表現する。この生体における情念の価値判断は、内感に耽溺する安住動作、あるいは逆に内感を拒否する防御動作として現れる。もちろんそれは身体生理学的に言われる反射と機構的に同じものである。身体は特定の内感に対して快的表象または不快的表象を結合するわけである。同じことをハイデガーの実存論から言えば、それは投企だと呼ばれる。内感への耽溺はそのまま対象の肯定評価であり、内感の拒否はそのまま対象の否定評価である。この内感への耽溺と拒否は、生体への利害に対する情念表現であり、それぞれ快と不快の情念へと一般化される。したがって対象に結合される価値は、快と不快において量的表現される。この価値において情念が表現するのは、現存在が生きるための経験の蓄積である。しかし情念がそのような教訓として妥当なものたり得るかどうかは確証されない。それと言うのも、情念における対象と価値の結合は、悟性による恣意的な結合だからである。このときの結合が恣意的であるのは、先の述べたように、悟性が内感の妥当な結合対象として、適当な対象を見い出せなかったからである。すなわち内感では、対象との結合が乖離しており、知覚と対象が別物のごとく現れるからである。このときに内感の結合相手として妥当な身体外の物体を見い出せなければ、身体外の物体ではない何か適当なものへと、悟性は内感を結合するしかない。情念において悟性が内感に結合するのは、既在する快と不快を代表する何らかの記憶である。この内感の結合対象の快と不快は、身体生理学的に言えばおそらく快と不快を代表する糖や酸素のような何らかの物質であろう。しかしこの結合の妥当性は、恣意的かつ経験的なものに留まる。その恣意的かつ経験的な結合は、雛が初めて見た生き物に親としての愛着を持つ場合のように、決定的破滅と常に背中合わせである。しかも情念の価値判断は、知覚が錯覚を含むのと同様に、その価値判断が誤判断である可能性を持つ。またそもそも悟性が内感に結合する快と不快が、記憶の忠実な再現であるとは限らない。そのような情念への無条件な追従は、生体としての現存在を危険にさらす。それだからこそ情念への不信は、情念を知性に対して劣位させる。
(2018/11/15) 続く⇒(知覚と情念(2))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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