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唯物論者

唯物論の再構築

投下労働価値説と支配労働価値説

2010-12-31 11:19:04 | 資本論の見直し

1)投下労働価値説

「より多い労働とより少ない労働との交換を、一方は対象化された労働で他方は生きている労働だという形態の相違から引き出すことは、なんの役にもたたない。このやり方は、商品の価値は、その商品に現実に対象化されている労働の量によってではなく、その生産に必要な労働の量によって規定されるのだから、ますます馬鹿げたものになる。ある商品が6時間労働時間を表しているとしよう。それを3時間で生産することができる発明がなされるならば、すでに生産されている商品の価値も半分だけ下がる。今ではその商品は、以前のように6時間ではなく、3時間の必要な社会的労働を表している。つまり、その商品の価値量を規定するものは、その商品の生産に必要な労働の量であって、労働の対象的形態ではないのである。」資本論1巻17p559

 上記のマルクスの記述が示すのは、商品に対象化済みの具体的な労働力量ではなく、商品の再生産に要する抽象的な労働力量を、商品価値に扱う投下労働価値説である。労働価値論が捉える商品価値はこの投下労働価値説に従っており、それに派生する形で地代などが考察される。この投下労働価値説に対して、商品が支配する労働力量を、商品価値に扱う労働価値説も存在する。それは支配労働価値説と呼ばれている。この支配労働価値説での商品は、労働力蓄蔵物であり、一種の労働力版蓄電池として現れる。しかし売り手と買い手の双方にとってその蓄蔵労働力量は、該当商品の再生産に要する抽象的な労働力量でなければ、その商取引が成立しない。それだけで言えば支配労働価値説は、投下労働価値説と同じである。ここで両者を区別するのは、支配労働価値説が捉える商品の蓄蔵労働力量を、売り手または買い手の商取引に対する支配力が決定することにある。ちなみに商取引に対する支配力が、商品価値をその再生産に要する労働力量から乖離させる場合、その支配力は、売り手または買い手の恣意として現れる。したがって支配労働価値説における商品価値の規定者は、端的に言うと意識である。つまり支配労働価値説は、観念論である。支配労働価値説において商取引に対する支配力は、商品の効用として商品に内蔵する。それゆえに上記でもその商品を労働力版蓄電池として表現した。ところがそもそも商品自体は、牛や馬と同様に労働力を蓄蔵できない。牛や馬を含めて商品がもたらす労働力の代替効果は、なるほどその商品が無い場合に必要な労働力量になると想定される。しかしその代替労働力量は、該当商品の商品価値に影響しない。該当商品の商品価値は、あいかわらずその商品の再生産に要する労働力量だからである。そしてもっぱらその商品価値は、それが実現する代替労働力量より小さい。また代替する元の労働力量より小さくなければ、わざわざその商品を使用する理由も無い。もちろん新規開発商品における商品価値は、少なくともその新規開発に要した労働力の分だけ、新規開発商品の生産に要する労働力量より大きい必要がある。加えて競合商品の価値量との差分が特別剰余価値が加わる形で、競合商品と同じ商品価値で現れる。しかし長期的に言うとその特別剰余価値は消失する。最終的にその商品価値は、商品の再生産に要する労働力量に転じる。それは以前の商品価値より小さくなる。上記に引用したマルクスの投下労働価値説は、このことの説明になっている。


2)支配労働価値説

 支配労働価値説は、地代や美術品など、投下労働価値説で説明が困難な商品価値を説明する際に登場してきた。その登場は、アダム・スミスの時代から投下労働価値説とともに始まっている。この支配労働価値説における商品価値は、先に述べた通り、その商品が支配する労働力量である。その商品の労働力支配量は、該当商品の再生産に要する抽象的な労働力量より大きくなることもできる。この場合に商品の労働力支配量を決めるのは、基本的に該当商品を支配する売り手である。もし売り手が商品価値を、該当商品の再生産に要する労働力量より大きくするなら、その商品の価値量は、投下労働価値説の考える商品価値より大きなものとなる。もちろんダンピングのように売り手が逆に商品価値を、該当商品の再生産に要する労働力量より小さくして、該当商品を売ることもできる。この場合だと、その商品の価値量は、投下労働価値説の考える商品価値より小さなものとなる。いずれにおいても商品価値は、該当商品の再生産に要する抽象的な労働力量から乖離する。ちなみにここでの支配力は、商品経由で買い手を支配する売り手の力にすぎない。その買い手を支配する売り手の力は、オークション取引のように、逆に売り手に売却を催促する買い手の商取引としても現れる。しかしその場合でも支配力を持つのは売り手であり、買い手ではない。

 一方でダンピングによる販路支配などの利益が無い場合、商品価値を該当商品の再生産に要する労働力量より小さくするのは、売り手にとって明らかな損失である。この損失に関わらず売り手が該当商品を売らなければならないとしたら、そこには別種の支配力が作用している。この場合に該当商品の労働力支配量を決めるのは、該当商品を支配する買い手しかいない。もし買い手が商品価値を、該当商品の再生産に要する労働力量より小さくするなら、その商品の価値量は、投下労働価値説の考える商品価値より小さなものとなる。もちろん資金洗浄や賄賂のような形で買い手が逆に商品価値を、該当商品の再生産に要する労働力量より大きくして、該当商品を買うことも可能である。この場合だと、その商品の価値量は、投下労働価値説の考える商品価値より大きなものとなる。いずれにおいても商品価値は、該当商品の再生産に要する抽象的な労働力量から乖離する。ここでの支配力も、商品経由で売り手を支配する買い手の力として現れる。その買い手による売り手の支配は、資本家による労働者支配、大企業による中小企業支配として、売り手による買い手の支配よりも広く普遍的に資本主義社会に現れる。

 売り手が買い手を支配しようとする場合、売り手は競争販売者によって同一商品を廉価販売するのを阻止する必要がある。そうでなければ売り手は買い手を支配できず、その商品価格も該当商品の再生産に要する抽象的な労働力量に落ち着いてしまう。それゆえに売り手による買い手支配は、競争販売者の一掃を必要とし、該当商品の生産の独占または販路の独占を必要にする。当然ながらそのような売り手は、該当商品販売を支配する大資本を体現する。これと同様に、買い手が売り手を支配しようとする場合も、買い手は競争購入者によって同一商品を高値購入するのを阻止する必要がある。そうでなければ買い手は売り手を支配できず、その商品価格も該当商品の再生産に要する抽象的な労働力量に落ち着いてしまう。それゆえにここでも買い手による売り手支配は、競争購入者の一掃を必要とし、該当商品の消費の独占または販路の独占を必要にする。当然ながらそのような買い手は、ここでも該当商品購入を支配する大資本を体現する。結果的に商取引における支配力を行使するのは資本家だけである。すなわち有産者だけが無産者に対して実価値より高く商品を売りつけ、無産者から実価値より安く商品を買い取ることができる。

 上記の支配労働価値説は、単純に言うと支配者の恣意だけが商品価値を決定するとの形でまとまる。しかしこの結末は、需要曲線と供給曲線の一致点に商品価値が現れるとした経済学の基礎的商品価値論から後退している。これだと支配者の恣意だけが商品価値を決定すれば良く、支配者は需要曲線と供給曲線に頓着する必要もないからである。しかもその恣意的商品価値は、あらかじめ商品の実価値を鑑定して、それを基準にした形の高値と安値の決定を含んでいる。つまり支配労働価値説は、投下労働価値説を前提している。ただしその前提する投下労働価値は、もっぱら対象化済み労働力量であり、商品の再生産に要する抽象的な労働力量ではない。それゆえにアダム・スミスの価値論でも、支配労働価値説は投下労働価値説の補足的役割を演じるに留まらざるを得なかった。


3)労働価値論における二説のまとめ

上記に示した投下労働価値説と支配労働価値説の二説における商品価値実体の捉え方に加えて、価値実体の実在性と価値説としての難点をまとめると、次の表になる。

 商品価値実体の捉え方価値実体の実在性と価値説としての難点
投下労働価値説商品の再生産に要する抽象的な労働力量価値実体が、現在の流動的労働力量として実在。
しかし再生産用労働力量の見積もりに、専門の鑑定を必要。
支配労働価値説商品に対象化済みの具体的な労働力量対象化済み労働力量自体は確定しており、専門の鑑定が不要。
しかし価値実体が、存在しない過去の労働力量として非実在。

上記二つの労働価値説は、そのネーミングの悪さもあって、その違いを区別されないどころか逆転して理解されることも多い。とは言え往々にして両者の鑑定価値量も同一になるし、同一になるのを期待されている。しかしそうだとしても両者は、やはり似て非なる労働価値論である。投下労働価値説の価値実体は物理的実在であるのに対し、支配労働価値説の価値実体は実在しない過去の記憶であり、表象的意識として観念だからである。端的に言うと、投下労働価値説は唯物論であり、支配労働価値説は観念論だからである。また実際に俗流観念論者は、労働価値論を投下労働価値説ではなく、都合よく支配労働価値説にねじまげて流布することが多い。それと言うのも商品価値を対象化済み労働力量に扱うのは、労働価値論への攻撃材料として非常に有効なものだからある。むしろ商品価値を対象化済み労働力量に仕立て上げる見解は、観念論者にとって一種の信仰にすらなっている。それゆえに唯物論者は、労働価値論での商品の価値と価値実体のそれぞれの定義を示し、両者の関係を整理しておく必要がある。


3補)支配労働価値説と限界効用理論

 共産主義の登場に呼応して経済学に現れた商品価値論に限界効用理論がある。結論を先に言うと、限界効用理論は支配労働価値説の亜種であり、労働価値論としての支配労働価値説を、意識が商品価値を規定する観念論へと純化した理屈である。その純化の方向は、まず商品価値決定における需要曲線と供給曲線の二元論を効用曲線に一元化させる形に進む。さしあたりその効用曲線への一元化は、商品再生産に必要な労働力量を価値規定者の二番手に追いやる必要に従う。それと言うのも、需要曲線と供給曲線を規定するのは、いずれも労働力量だからである。それが目指す目的地点は、最上位の価値規定者に意識を樹立する観念論への経済学の純化である。この限界効用理論は、労働力に代わる価値実体として効用を提唱する。その効用価値量は、再生産用労働力量からも、また対象化済み労働力量からも遊離している。とは言えその効用の内実は、もっぱら再生産用労働力量と支配労働力量の混成物になると見込まれる。ただし効用はさらに都合に応じて、恣意的な支配労働力量にも転じる。すなわち限界効用理論は、価値量を正体不明な闇夜の黒牛に変えて恣意的に示すことにより、労働価値論に対抗する。そこで優位に現れるのは経験的に得られた現象価値であり、その現象価値を規定する原理的価値ではない。限界効用理論は、必要に応じて再生産用労働力量、対象化済み労働力量、さらには支配労働力量を優位に立てて、労働価値論を否定する。しかしこの何でもありの理屈では、効用曲線が需要曲線と供給曲線へと再分化する道が塞がれている。したがって商品価値も需給の均衡点ではない。その経済学的後退を後押ししたのは、再生産用労働力量によって商品価値を一元規定しようとする共産主義への対抗心である。その対抗心が限界効用理論に、効用による商品価値の一元規定をもたらしている。しかし共産主義における再生産用労働力量による商品価値の一元規定は、需給の均衡点としての商品価値の分析の延長上にいる。これに対して限界効用理論における効用による商品価値の一元規定は、需給の均衡点としての商品価値の分析からの退歩にすぎない。このために限界効用理論が再び商品価値の分析を試みようとすると、再び効用曲線を需要曲線と供給曲線へと再分化する道に舞い戻らざるを得ない。このために限界効用理論における効用の説明も、経験的現象論から商品価値を語るのが精一杯になっている。結果的に労働価値論を否定する現状の経済学における商品価値論の内実も、マルクスの生産価格論と大差の無いものに収束している。
(2010/12/31)


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