唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(5.キェルケゴールとハイデガー(1))

2019-01-12 11:25:07 | ハイデガー存在と時間

1)キェルケゴールとハイデガー

 ヘーゲル没後直近の哲学の動向は、一方にヘーゲルの影に隠れていたシェリング直観主義およびカント亜流のショーペンハウアーの顕在化、他方に共産主義に至るヘーゲル左派の胎動の開始があり、それに続く形で共産主義の台頭、そしてそれに対抗する生の哲学および新カント派の登場へと連繋する。キェルケゴールはマルクス・エンゲルスと同時代人であり、共産主義台頭当時の生の哲学の始祖の一人とみなされたり、シェリング直観主義の系譜に連なる非合理主義とみなされたりしている。ただしキェルケゴールは、他の知識人との交流の薄いデンマーク人として特段にそれらの潮流に組していない。その点で彼は自ら称するように当時の思想界における単独者であった。しかしその思想の最も重要な構成要素は弁証法であり、マルクス・エンゲルスと同様にキェルケゴールもヘーゲルの系譜として扱うのが最も妥当な扱いである。一方でハイデガーは自らを生の哲学の後継人とみなし、新カント派と親交と対立を繰り返す現象学運動の中心人物として登場する。ハイデガーはキェルケゴールの影響下において現象学の実存主義化を敢行し、哲学の傍流にあったキェルケゴールを始祖にする実存主義ブームを哲学世界にもたらした。そのハイデガーの挑戦は、もともと彼が自己課題として温めてきたキェルケゴールの哲学的改修を世に現しただけのものだと容易に想像できる。しかしヘーゲルの系譜にいるキェルケゴールを、反ヘーゲル派の系譜に組するハイデガーが哲学的改修するのは、無理があるのではないのかと予想される。もちろんその予想は、キェルケゴールの哲学的改修における弁証法の有無を基軸にした予想である。そして実際にハイデガーの実存哲学は、弁証法が停止している。この記事の眼目は、弁証法を停止させるキェルケゴールの哲学的改修がいかに暴挙なのかの説明である。簡単に言えば、弁証法はキェルケゴール思想の要であり、それ抜きにキェルケゴールの凄さを語れないからである。その説明には、弁証法とカント超越論の相関についてのドイツ観念論の哲学史的理解が必要である。まず超越とは、端的に言えば意識が自らの有限世界から対象の無限世界に飛び込むことを言う。意識が対象世界に飛び込むのは、意識が認識の真を得るためである。したがって超越とは、認識を言い換えただけの言葉である。当然ながら超越論とは、認識論に等しい。ただし超越には基本的に誤認識は含まれない。誤認識が露呈したならその超越は超越ではなく、せいぜい超越の試みに留まる。超越が成立しなければ、意識はただ誤りを繰り返すことになる。それゆえに超越論とは、超越の実現を考える理屈でなければいけない。ところがカント超越論は超越不可能論であり、一見するとそれは超越の断念の勧めである。しかしカント超越論も、先験認識を通じた超越を目指しており、やはり超越の実現を考える理屈になっている。そしてこの超越をできないと言いながら、超越の実現を目指す矛盾が、カント以後のドイツ観念論、さらに共産主義や実存主義を形成した。そこで次にカント不可知論と対決したドイツ観念論の超越の歴史を概観する。


2)歴史的精神における超越

 カント超越論は、ストア主義的独断論を有する懐疑主義的不可知論である。独断論から言えば、意識は意識によってのみ規定される。したがって意識は物体によって規定され得ない。その一方で不可知論から言えば、意識が認識するものは意識である。したがって意識は物体を認識し得ない。この独断論と不可知論は同じ理屈を別方向に捉えたものにすぎない。そしていずれの理屈においても物体による意識の規定は排除されている。このことは、カントが物体による意識支配の阻止を、意識に対する物体の影響の排除により行っているのを示す。しかしこの結果としてカント超越論では、理性は物体に優越するはずなのに、そもそも自ら住まう意識世界から物理世界へと超越できなくなってしまった。それは、超越論が超越を謳いながら超越を出来ないと言うジレンマである。そこでフィヒテは個人意識の限界を取り払うために、有限者の意識を無限者の意識に置き換える。しかし無限者の意識には、逆に自らの領域の外部が無い。すなわち世界はそのまま自我である。そのことは、無限者の意識において認識の全てが対象として現れ得ないのを現す。それゆえにシェリングは真理認識を直観として捉えるに至る。しかし区別の欠けた直観の真理は、伝達不可能な真理である。シェリングに対してヘーゲルは、真理が概念として対象化されるべきだと考える。すなわち闇夜の黒牛は、天才の業によってのみ認識されるものであってはならない。ドイツ観念論では最終的にヘーゲルにおいて、意識は再び有限者の意識に置き戻され、有限者の意識の無限連鎖において真理はロゴスとして表現される。ヘーゲルは、世代をまたがる有限者の群れにおいて、有限な意識を歴史意識に変え、それにより無限認識を可能にした。しかしそもそも個人が超越できないのは、個人の有限性に従っている。その有限性は端的にいえば、個人の死に代表される。死を超越できない個人には、死を超越する真理を見い出すことはできない。死を超越する真理は見い出し得るのは、死を超越した国家的精神だけである。結果的に意識の限界に対する意識の超越は、歴史的理性としての精神が行い、有限者としての諸個人はそのおこぼれを預かるだけとなった。


3)個人意識における超越

 ヘーゲル弁証法における歴史的精神は、個々の個別意識が得た有限な対象認識を通じて対象を概念として内化する。その概念は無限に現れる個別認識の総体として現れる。つまり歴史的精神は、自分自身で物理世界へと超越していない。その役割は個別意識に任されている。したがってフィヒテにおいて超越の役割を期待された神的自己は、ヘーゲルにおいて実際には超越を果たさずに個別意識に超越の役割を戻されている。その超越は、歴史的精神を通じた他者意識の内在化が果たしている。その表わす内容は、三人寄れば文殊の知恵と言うことわざで言い換えることができる。文殊の知恵を実現するのは、一人がほかの二人の知恵の欠落を補う相互補完である。しかしそのことが現すのは、ヘーゲルにおいて寄り集まった個別意識のうちの誰かが超越を体現すると言うことである。ただしその個人意識における超越について説明はされていない。したがってその超越主体は実際には不明瞭であるし、超越の具体的な在り方も謎である。とは言えこれにおいて有限世界から対象の無限世界に飛び込む超越主体は、個人意識だと極言されてもいる。個別意識が超越を行えるなら、フィヒテが始めた神の視点を持ち出さずとも、人間の視点で超越を語り得るはずである。逆に言えば個別意識が超越を行い得ないなら、同様に歴史的精神も超越を行い得ない。ヘーゲル式超越に関するこの疑問は、ドイツ観念論が打ち出した抽象的一般者による超越を現実的個人による超越へと引き戻すことになる。もちろんそのことは、不可知論のジレンマが再び個別意識につき返されることを表現する。またそれは、ドイツ観念論によるカント不可知論との対決が、大きく迂回したあげくに振り出しに戻ることでもある。その超越の模索は、一方で実存主義として現れ、他方で共産主義として現れる。そしてそれらの潮流が、ドイツ観念論における精神を超越の主役から引き摺り下ろすことになる。


4)外化から脱自へ

 ヘーゲルにおいて外化は、精神が自己の内奥から自己の外に存在者を排出することを言う。精神は意識なので、精神が外化する存在者も意識ならぬ存在者となる。それはまず物体であり、延長であり、空間である。外化はさらに客体としての法則や国家など全ての存在者の排出へと進む。そこには精神の自己も含まれる。それらの外化は、それ自身が再び外化されることにおいて精神に内化される。そこでの即自意識は自己否定における不幸を強要されており、対自化した意識もさらに自己否定を強要されて即自的概念となる。さもなければ意識の自己認識は完了しないからである。しかもいずれにおいても自己否定は個人意識に対して要請される。なぜなら無限者は自己否定しないし、自己否定できないからである。そしてこのヘーゲルの空疎で冷淡な物語は、有限者を自己疎外させたまま完結してしまう。もちろんマルクスとキェルケゴールの憤慨は、このしょうもない結末に向いている。それは、救いが実現されなかったことに対する憤慨である。ヘーゲルに対してキェルケゴールにおける歴史的精神は、同一個人が三人称で現れることで文殊の知恵を実現する。その個人意識において超越を体現するのは、時間的に後続して現れる同じ個人意識である。ヘーゲルにおいて不明瞭であった超越主体は個人意識に限定され、超越は直に個人意識の問題として示される。そこでの個人意識の超越運動は、個人意識が自らを外化し、同じ個人意識が外化した自らを内化する無限の反省運動において現れる。その運動はハイデガーの表現で言えば、投げられかつ投げる運動、すなわち被投企的投企である。この個人意識の超越運動に物理的媒体は登場しない。したがって異なる意識の間での外部媒体の知覚も不要である。その弁証法は個人意識における直観を通じて行われる。その弁証法は意識による物体の外化を不要にし、意識の自己自身の外化だけを残す。それゆえにその外化は既にヘーゲル式外化と形態を違えている。それは個人意識の成長変化である。ただし外化が必ずしも成長を表現しないように、その変化も必ずしも成長を表現しない。その変化はヘーゲル式の意識の歴史的積分ではなく、取捨選択を要請されている。しかも外部媒介の欠落においてキェルケゴールの外化と超越の一体性は、ヘーゲルのそれよりも明確である。それゆえにその外化は、ハイデガーにおいて脱自と呼ばれることになった。


5)脱自における自己超越

 一見すると脱自は個別意識の時間進展に等しい。しかし単なる時間進行は超越を実現するものではない。それはヘーゲルにおいて同一の有限認識が無限に現れても、その総体としての歴史的精神が同じ有限認識を抱えるだけだったのと同じである。つまり脱自は単なる時間進行ではない。それゆえにキェルケゴールは脱自を規定するものとして絶望を用意する。それは死に至る病である。死ぬのは誰かと言えば、それは投げた個人意識の自己自身である。古い個人意識の自己は絶望して死に絶え、投げられた新しい個人意識の自己が再生を果たす。古い個人意識が試みた超越は、直観を通じて新しい個人意識が実現する。新しい個人意識が持つ新しさは、古い個人意識が抱えていた有限性の突破を表現する。キェルケゴールにおいてその有限性の突破は、信仰に根差した個人意識の在り方の進化として現れた。すなわちその超越は、個人意識における自己自身の超越に等しい。しかもキェルケゴール弁証法では、個人意識の自己否定がそのまま個人意識の自己肯定に等しい。なぜなら個人意識において外化と内化は同時進行するからである。したがってヘーゲルの場合と違い、キェルケゴールにおいて意識は、外化した意識の自己に対してことさらに内化を試みたりしない。古い自己にとって新しい自己は外化した自己であるが、新しい自己にとってすれば古い自己の方が外化した自己だからである。言い換えるなら、超越は古い自己から新しい自己への脱皮において実現されている。その超越はことさらに無限者を有限者の外に立てて、それとの同一化を図る苦労を有限者に対して必要としない。なぜなら脱自こそが超越だからである。当然ながらその超越は有限者に対して充実をもたらし、見知らぬ無限者に提供される空疎なものとして現れることも無い。


6)実践としての超越

 キェルケゴールは、超越主体を問題にすることでヘーゲル弁証法を組み替えた。しかしそこで示される超越は、始めに示された超越から随分かけ離れた姿をしている。始めに示された超越の姿は、有限な意識が無限認識に至るものであった。端的に言えばそれは、意識が物体に到達する超越である。ところがキェルケゴールが示す超越とは脱自であり、有限な意識における自己限界の突破である。そしてキェルケゴールの弁証法の先に、物体に到達する意識はおそらく現れない。ヘーゲルにおいてもキェルゴールにおいても、無限認識は有限な意識の積分として現れる。ヘーゲル弁証法は、媒介としての物体を自己産出しながら、自己発展を遂げる神の独我論であった。キェルケゴール弁証法は、その弁証法を個人意識に移植した。しかしヘーゲルがまだ意識による物体への到達を目論んでいたのに対し、キェルケゴールはそのようなことに興味を持っていない。むしろその絶望の弁証法は、外在に絶望することで意識の興味を物体から引き剥がす。それどころかその意識は、内在に絶望することで世界にも興味を失くし、さらに自己に絶望することで意識は自己を喪失して行く。自我実在の絶対性は、キェルケゴールにとって有限者の錯覚であり、反省において現れるだけの経験的真理となる。世界の実在を疑い得るように、ヘーゲルにおいてもまたキェルケゴールにおいても、自我の実在は疑い得ている。超越の対象が雲散霧消する中で、その歴史的精神が到達する先は信仰である。そして弁証法の結末が信仰に至ることにより判然とするのは、キェルケゴールにおける脱自が宗教的解脱だったことである。さしあたりその到達点について着目せず、超越の実現可能性について着目すると、とりあえずヘーゲルにおいてもまたキェルケゴールにおいても無限認識が現れるのは、無限に連鎖する有限者の眼前である。しかしそれは個別の有限者にとって、または有限者の個別の局面にとって無限に先の未来の出来事である。キェルケゴールの場合、この約束された救済が無限に先の未来だと言うことが有限者の絶望の一つの契機にもなっている。そして超越を無限に先の未来に実現するつけは不可知論の復活として見えてくる。しかしそれでは救済は永久に実現しない。キェルケゴールにとって信仰は、この救済の未実現に対する答えである。その言わんとすることは、救済が脱自における各瞬間に実現されていること、当然ながら無限認識も脱自における各瞬間に実現されていることである。そのことが表現するのは、意識の認識も脱自における各瞬間に物体に到達していることである。その結論は不可知論を脱している。むしろそれは不可知論と全く正反対の全可知論にはまり込んでいる。キェルケゴールの場合、信仰の御旗がその全可知論を可能にしている。とは言えその非合理な結論は、唯物論に通じる超越の実現を現している。それは、意識が脱自において物体に到達することである。それが表現することは、意識が自ら意識でなくなることにおいて、意識ではないもの、つまり物体に到達可能なことである。当然ながらその脱自は、意識の運動として現れることもできない。超越が意識の運動ではないのであれば、超越は物理運動でなければいけない。もちろんそのような超越とは、実践にほかならない。


7)頓挫した唯物論

 唯物論はもともとドイツ観念論式の認識の迂回をせず、物体の意識反映において直線的に対象認識を捉えてきていた。同じことを超越問題で見るなら、唯物論にとって超越とは、個人意識による物理世界への飛び込みであり、実践である。すなわち物体の不可知を打破するのは、個人意識による次の瞬間の実践である。したがって不明な対象認識は、意識が次の瞬間に対象を実際に手に取ることにおいて解消される。物体の意識反映であろうと、意識の物理世界への飛び込みであろうと、それは意識の脱自における物体への到達である。その結論は不可知論を脱しているが、キェルケゴールの場合と同様に不可知論と全く正反対の全可知論にはまり込む。そこで問題になるのは、不可知を生む対象認識の不明さの由来であり、意識が対象を手に取るための方法である。すなわち唯物論は、対象の可知を邪魔するものの正体を明らかにすること、そしてどうすれば意識は対象を手にすることができるのかを問題にした。その追及が目指すのは、無知蒙昧と邪悪の起源を明らかにすることであり、それらの原因でもあり結果でもある貧困と無所有の根絶である。結果的に共産主義におけるヘーゲル弁証法の組み替えは、キェルケゴールにおけるそれが超越主体を問題にしていたのに対し、超越の実現へと直接的に向かう。そしてその後回しのつけは後になって共産主義を自滅に追い込んだ。もちろんマルクスは超越主体を無産者階級、すなわち労働者階級だと明言している。しかしそれは実存主義式の個人意識ではない。それは貧者の群れであり、端的に言えば意識を持たない物理である。そしてその物理が超越を、すなわち革命を実現するとマルクスは期待した。もちろんそれは人間の無所有と物体化を是認するものではない。超越の実現にあたり人間は否応なしに物体にさせられてしまうのだと共産主義は考えていた。ところが共産主義の現実は、マルクスの詰めの甘い予想を色々な形で打ち砕いている。ただしいずれの形においてもその挫折は、次の理由により引き起こされている。それは、人間の無所有と物体化を共産主義自身が押し進め、牽引したことである。それは自称共産主義国家で起きただけではなく、革命を目ざす各国共産党の内部でも起きている。人間の顔を持つ社会主義は、チェコやハンガリーなど共産圏諸国だけに必要だったわけではない。それは革命を目ざす各国共産党にこそ必要だったのである。局地共産主義の持久戦が敗退した現在、教会に判断を委ねるヘーゲル版判断停止と自己否定は既に有効ではないことも暴露された。教会において再生を期待された観察理性は、支配者の強欲において実現されなかったからである。それでもヘーゲル式に超越の可能性を個別意識に見出すなら、個別意識の多様性がそれに該当しなければいけない。同一の有限認識が無限に現れても、その総体としての歴史的精神は同じ有限認識を抱えるだけだからである。この場合に超越の実現は、個別意識の多様性の実現に等しくなる。それが表現するのは、自由な社会の実現である。唯物論において超越とは、自由に対立する阻害要因の廃絶運動である。またそれだからこそ共産主義の登場は、ヘーゲル弁証法の一つの必然になっていた。結局それらが突きつける要求は、共産主義における内なる革命である。もしその要求が解決不能な論理矛盾であるなら、共産主義は既に役目を終えた思想であり、不要となった過去の思想として葬りさられるだけである。
(2019/01/12) 続く⇒(キェルケゴールとハイデガー(2))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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