弁証法の説明に登場する「量から質への転化」とは、弁証法における概念生成運動を現象面から捉えた表現である。そしてヘーゲルにおける「量から質への転化」は、同時にヘーゲルにおける真無限と悪無限の区別に当てられている。悪無限では、運動が同次元の循環を永久に続ける虚しい反復として現れる。それに対して真無限では、運動が循環の終点に別次元の循環を開始させるような発展的成長として現れる。つまり真無限における「量から質への転化」は、低次元な循環が高次元な循環に移るパラダイムシフトとして発現している。弁証法の説明に登場する「否定の否定」とは、同じ弁証法の概念生成運動を「量から質への転化」と別の角度から捉えた表現である。
「否定の否定」とは、媒介を通じた対象の自己定義のことである。概念生成運動において対象は、自らの他在を媒介にして自らを理解する。この表現はヘーゲル風なので言い直すと、概念生成運動において意識は、対象を異なる存在との対比においてのみ理解する。なぜ概念生成において意識は、対象を直接ありのままに理解せずに、遠回りに媒介者を立てて理解するのかと言えば、直接知が無内容だからである。青い色は、ただ青だけが世界にある限り、青としての色彩的立場を持つことは無い。意識は青を、赤や緑のような異なる色との対比においてのみ理解するからである。このときの意識の運動は、青を「赤ではない」と理解し、さらに「緑ではない」と理解し、さらに青と異なる他の「それぞれでもない」と理解をする。しかし最初に現われる「青=非赤」「青=非緑」の等式は、単なる相対表現であり、悪くは無いが良くも無い。赤でなければ青、または緑でなければ青、とならないからである。ところがこの青い色の最終表現は、相対表現を脱した絶対表現を生み出す。意識による青の理解は、最終的に「『青ではない色』ではない」に落ち着くからである。もちろんそれは、「青=非非青」という恒等式の実現である。このときの意識の中では、量的に進んだ青の相対的理解が、青の絶対的理解へと質的転化を起こしている。このような概念生成の運動については、ヘーゲルの著述よりもマルクスの価値形態論を読んだ方が、判り易いかもしれない。ちなみに意識による青の理解は観念の弁証法なのだが、青そのものは光源の粒子波動の波長の差異であり、その色は物理運動の自己表現である。観念の弁証法とは、自然の弁証法を反映したものにすぎない。
「否定の否定」、すなわち二重否定では最初の否定が、対象自らによる自らの他在への置換により行われる。そして次の否定は、他在による自らの最初の対象への復帰により終わる。ヘーゲル弁証法では、最初の置換と次の復帰の運動に動因が存在しない。理念の自己展開では、この回帰運動がさも当たり前のようにして進む。そこでヘーゲル弁証法は、対象と他在の間に対立を持ち込み、両者の矛盾を通して概念生成運動の動因説明に当てる。しかしこの説明は、より一層に概念生成運動の理解を阻むものである。例えば青と赤、青と緑という色彩間に矛盾対立があるというのは、おそらく筆者を含めた読者の日常的理解を超える説明である。ヘーゲルの記述では、そこいら中でこのような表現が登場する。このような色彩の概念成立は、そもそもの色彩間の区別が概念生成運動の開始前に成立している時点で、既に胡散臭い部分がある。この胡散臭さは、一つにはヘーゲル弁証法における概念生成が意識内で閉じていることに拠っており、二つにはヘーゲル弁証法に人間が居ないことに拠っている。すなわちそこでの概念生成には、自然と人間との対立関係において説明すべき事柄の全てが欠落している。このためにまだマルクス流に、概念生成運動の動因として階級対立を適用する方が、よほど読者に親切と言うものである。もちろんマルクスは、概念生成運動の全てに階級闘争を見い出すようなことをしていない。しかし階級闘争理論の趣旨として自然と人間の間の闘争を読み取るのは、正当な唯物論的理解である。人間としての労働者階級にとって資本主義の経済システムは、人間に対立し、人間を疎外する自然として現れるからである。この構図は、自然と人間の間の対立関係に留まらず、無機的自然と生命体、存在一般と個体の間の対立関係に援用可能なものである。当然ながら資本主義における階級分離と同様に、色彩の直観的差異、さらにはその物理的差異も、特定の色が生命体に対立する自然として現れた経緯、または個別の物体に対立する自然として現れた経緯が宇宙史のどこかにあり、そのときに色彩の直観的区別、および物理的区別そのものが発生したのであろうという唯物論的推測も成立する。いずれにおいても、概念生成運動に留まらず、物理的差異自体の生成運動を、動因を含めて説明するのは不可能ではない。そこに見える不可能は、哲学が自らに与えた範疇的ジレンマに基づいている。
形而上学の基礎に形而下学が現れてはならない。このために論理の学としての哲学は、諸前提を破棄して論理の純粋な構築を目指す。この意味で自然と人間の対立を論理生成の前提として措定するのは、哲学において邪道として現れる。したがって意識内部で閉じたヘーゲル弁証法の胡散臭さは、哲学そのものの胡散臭さである。つまり哲学史においてヘーゲルは弁護されるべきであり、むしろ唯物論の方が「素朴」の名の下に非難される。またそれだからこそ哲学は、論理を先験的なものとみなして純化の道を目指してきた。ただし先験理論は常に、観念論の場合には天上を目指し、唯物論では地上を目指す。具体的に直観形式としての時空間で見れば、それは意識世界の観念的先験形式であるのか、それとも物理世界の現実的先験形式であるのかという風にである。先験形式の観念性が続く限り、哲学は形而上学としての孤塁を守れるのだが、先験形式の物理性が露呈すると、そのたびに哲学の範疇的ジレンマが再び顔を出す。それはまるで、胡散臭さの自覚なしに宗教を意識内に閉じ込めるものとして、大乗から非難された小乗仏教のごとくである。胡散臭さの自覚なしに概念生成を意識内に閉じ込める限り、哲学は自らの観念論を抜け出ることができない。実際にはこのジレンマが鼻につくようになる度に哲学は、自ら形而下に下り、再び形而上へと回帰する二重否定を繰り返している。レーニン的解釈で言うなら、それは哲学の唯物論への収斂の過程にすぎない。
(2014/01/14)
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