唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(5.キェルケゴールとハイデガー(2))

2019-01-27 11:32:29 | ハイデガー存在と時間

9)キェルケゴールの追随者たち

 キェルケゴールにおける個別意識の弁証法は哲学世界に衝撃をもたらし、ハイデガーやヤスパース、サルトルなどの実存主義の系譜を生んだ。しかしそれら後続の実存主義は、もっぱら現象学に依拠することにより自我の実在にあぐらをかく。その自我はフッサール式の純粋自我である。それが目指すのは、自我の実在による自我以外の実在の基礎づけである。その自我はカント式の自我の形式としての超越論的自我ではない。フッサールにとって自我の実在は疑い得ないからである。フッサールは自我を様々な世界および内在が現れる場に扱い、反省の有無に関わらず実在し、各種存在の基底を成すものとして扱う。それは、神に成り代わった超越者である。それゆえにキェルケゴール式の絶望において現れる自己喪失も、フッサール式自我を死に至らしめることはできない。それはせいぜい心情的出来事に留まる。しかしこの意識の不死は、意識を自らの意識世界から出られなくする。すなわち死の不可能とは、超越の不可能に通じる。そしてこの超越の不可能は弁証法を停止させ、さらに時間を停止させる。簡単に言えば超越の無い世界とは、進歩が止まった静止した世界である。その世界では因果が等式によって代替され、運動はその時間遅れの列記に留まる。それは見栄えを良くしたとしても、せいぜい諸関係が等号で結ばれるだけの数学的世界である。このような超越者における死の欠落に対し、決死的覚悟を死に代替させることが試みられる。そこで期待されるのは、代替された死による超越の実現であり、超越の実現による時間の起動である。しかし決死的覚悟は生であり、死に代替しない。したがってそれは超越の実現ではなく、せいぜい超越を準備することしかできない。時間の起動に必要なのは超越であり、決死的覚悟ではない。この勘違いは、超越を意識の運動にみなす観念論固有の性癖が絡んでいる。そしてその性癖は、時間を意識の出来事にみなす観念論固有の性癖と連繋している。しかし時間が意識の出来事であるなら、当然ながら事物の運動も単なる意識の出来事となる。それはカントが物理を意識の出来事にみなしたことの再来である。もちろん事物の運動でさえ意識の出来事なら、超越も意識の出来事に留まらざるを得ない。しかし物理は意識の出来事ではないし、超越も意識の出来事ではない。


10)現象学におけるキェルケゴール復活の背景

 経験論において自我は反省の都度に現れる観念の塊である。その自我は現れるその都度に姿を変えており、連続するその現れを帰納することで得られる類概念である。その自我では、自我に固有と見られる各種特徴も経験的なものとみなされる。したがってそれらの特徴が過去に必ず現れていたとしても、それらが将来にも必ず現れると保証されない。このような経験的自我の扱いに対してカントは自我の先験性を模索する。そして経験を可能にする統覚として自我を位置づける。ただし経験的自我に対するカントの超越論的自我は、時空間と同様に有限者の意識に固有な形式に留まる。要するにその自我は思考しない。したがってカントは、経験論の考えと同様に、意識の実在を認めていない。もちろんカントが自我の実体化を躊躇したのは、彼自身の不可知論にしたがっている。経験的自我が自らの同一性を確認するためには、自我は自分自身から飛び出さなければいけない。すなわち自我は自らの視点ではなく、神の視点において自らの同一性を確認する必要がある。カントは自ら有限者の超越不可能を宣言した手前、有限者の無限者化に繋がる自我の実体化を許容することはできない。このような超越できないカントに代わって、神の視点において経験的自我の同一性を図ったのがフィヒテである。これによりドイツ観念論において自我は、有限者の意識ではなく無限者の意識となる。それは神的自我としての精神である。自我に固有と見られる各種特徴の持続を保証するのは、この無限者の精神である。フィヒテの神的自我は、シェリングではスピノザ式自然神に変わり、さらにヘーゲルではロゴスとしての絶対知となるが、キェルケゴールにおいて元の有限者の意識へと戻って行く。ただしフィヒテ式自我の超越性は、これらの系譜のいずれにおいても維持された。ヘーゲルとキェルケゴールの場合では、精神の超越性を保証するのは弁証法である。すなわち有限な意識の無限連結が精神の超越性を保証した。ところが精神の超越性に保証は不要であり、有限な意識は有限なまま超越可能だとする思想が登場する。それがフッサールの現象学である。現象学は、カントが躊躇した自我の実体化に踏み込む。しかし自我の有限性の復活は、有限な意識による超越の困難の復活でもある。ところがドイツ観念論を無視するフッサールにはこの困難の自覚は無い。そこで現象学の世界においてドイツ観念論に通暁するハイデガーが、フッサールの代わりにこの超越の困難に立ち向かうことになった。その挑戦の足場が、キェルケゴールの実存主義である。ただしもともとハイデガーはキェルケゴールに心酔しており、むしろキェルケゴールの哲学的改修を目論むために逆にフッサールの現象学を利用したのが実際の経緯である。現象学とキェルケゴールの実存主義は、共に媒介を嫌う直観主義において親和するからである。


11)実存主義に対する世界の補完

 ハイデガーの「存在と時間」は、現象学における「イデーン」のスピンアウト著作の装いで登場した。それゆえに「存在と時間」においてハイデガーは、フッサール式プラグマティズムに従う形で事物の本来の姿を道具として扱い、同じくフッサール式先験的空間の世界を継承し、世界を道具の意義全体として示すことになった。ハイデガーはこのフッサール式世界によって、キェルケゴールにおいて欠落した物理的な超越対象の補完を目指す。すなわちハイデガーによるキェルケゴールの哲学的改修は、その弁証法に対する超越対象の付与から始まる。超越対象の付与が必要なのは、キェルケゴール弁証法を超越論の本道に引き戻すためである。超越論の本道は、意識による意識世界から物理世界への超越の実現である。しかしキェルケゴール弁証法の超越先に物理世界は登場しない。キェルケゴールは意図的に超越先から物理世界を排除する。なぜなら物理世界への意識の撞着は、信仰の実現にとって邪魔だからである。つまりもともとキェルケゴール弁証法は超越論の本道から外れている。しかもキェルケゴールにとって邪魔なのは物理世界に限ったことではない。信仰に外れたすべての事柄は、最終的に無意味であり、その信仰の真も個人の実存において決められる。したがってキェルケゴール弁証法の超越対象は、最終的に個人の実存を目指す。キェルケゴールの超越の原型は、ヘーゲルの外化である。そのヘーゲルにおいて、個別意識が外化したのは仕事である。そして仕事は、とどのつまり物である。概念は物を媒介にして知覚を通じて次の世代の個人意識に内化される。超越は世代を超えた歴史的精神による自己実現および自己認識として現れる。その超越対象は、個別意識の外に現れる物体から焦点を外していない。それに対してキェルケゴールの精神が外化するのは物ではなく、意識の自己である。その仕事は自己自身であり、自己自身の未来と過去である。精神による外化対象の把握も、物体の知覚把握ではない。その弁証法は個人意識の内面で起きているので、概念は物の媒介を必要としない。その概念も、直観を通じて次の自分の精神に内化される。すなわち精神による自己の外化は、後続する精神による自己の内化に等しい。それだからこそそこでの自己直観は、そのまま対象認識であり、超越を実現している。ただしその認識対象は、個別意識の外に現れる物体から焦点が外れている。認識対象に対する両者のギャップは、キェルケゴールが自らの著作について心理学を語っているつもりであったこと、その絶望を媒介にする個別意識の弁証法も神学世界に提示したものであること、そもそもキェルケゴールが自らを哲学者とみなしていないことに従う。しかしこのキェルケゴール式超越において物体が現れるとすれば、それは道具として現れるのではないか? これがハイデガーの期待する現象学と実存主義の癒合する姿である。


12)実存主義に対する弁証法の停止

 ハイデガーの実存論は、フッサールの危機意識を継承する。それは、人間を物体化する社会に対する危機意識である。その危機意識が見い出す人間の物体化は、資本主義の必然的弊害として共産主義が示した労働疎外の別表現として解釈されるのも不可能ではない。ただしハイデガーの実存論は対象の物理的表現を人間の物体化と同一視し、それを人間的堕落に扱う。その向かうところは、対象の物理的表現ではなく、対象の道具的表現である。それゆえにハイデガーの実存論は、対象の物理的理解を目指す唯物論と遊離する。一方でハイデガーの実存論は、自己の超越的表現を自己本位に押し留める点でキェルケゴールの実存主義とも遊離する。その向かうところは、自己を滅却する信仰ではなく、アプリオリに了解された自己実現である。ただしハイデガーは、自らとキェルケゴールの差異を一般論と個別論の差異に見立てている。そうであるならハイデガーの実存論は、超越対象に信仰する個人が現れるのを排除しないであろう。ところがそれにもかかわらずハイデガーが目論む実存主義の一般化は、むしろ信仰する個人が超越対象として現れるのを排除する。なぜならハイデガーにおける死を拒絶するフッサール式自我が、自らの滅却と超越を拒むからである。もともとキェルケゴールにおいて超越は、最初から個人の実存を目指す形で現れない。弁証法の始まりにおいてその超越対象は無く、個人意識は充実している。しかしその個人意識に絶望が飛来する。それは個人意識の無として現れる。すなわち個人意識にとって超越対象は自らの無である。ところがその同じ無を抱える限り、個人意識は自らの無を捉えられない。無を克服するために個人意識は様々な施行を試みる。しかし無知で無能な個人意識においてその施行は、ほとんど成功の見込みが無い。それゆえにそこに啓示が要請される。そして啓示を通じて個人意識は自らの無が何だったかを初めて知る。もちろんそこでの無の正体の把握とは、個人意識における超越の実現である。このときに個人意識は、絶望を媒介にして生まれ変わっている。すなわち超越の前後の個人意識は、同じ個人意識ではない。超越前の個人意識にとって超越後の個人意識は、自ら抱えた無を既に克服している。もし超越前の個人意識が超越後の個人意識を見ることができるなら、それは自らの外に現れた自らの完全体、すなわち自らの実存である。ただし個人意識が自らの実存を目指すようになるのは、この超越の経験を通じた後である。だからこそキェルケゴールにおいて個人意識の断絶は要請される。ところがハイデガーの現存在にこの断絶は無い。そして断絶が無いので、飛躍も無い。この断絶および飛躍の欠落は、ハイデガーにおいて弁証法の停止として現れる。フッサールの純粋自我が消えたり現れたりしたのと比べると、ハイデガーの現存在はキェルケゴール式自我よりもフィヒテ式独我にずっと近い。この個人意識の断絶と飛躍の喪失、そして弁証法の停止は、この現存在と世界の一体化から帰結している。


13)キェルケゴールの哲学的改修の頓挫

 ハイデガーにおける弁証法の停止は、基本的にハイデガーがフッサール式自我に従ったことの当然の結末である。一方でそれは、キェルケゴール弁証法が持つ直観主義的傾向を純化した結末でもある。しかしキェルケゴールが物理世界の排除において信仰の実存に至るのに対し、ハイデガーの実存はどこまでも自己本位である。ところがこの自己本位の背景に、物理世界の温存を見出すことはできない。ハイデガーは物理世界の温存に熱心ではなく、むしろ道具世界の温存に熱心だからである。ハイデガーにおけるこの道具世界の温存も、基本的にフッサール式プラグマティズムに従っている。ところがその道具世界の温存は、物理世界の温存よりもさらに実存を世俗化して、それを道具主義的実存に押し留める。ハイデガーは道具主義的実存からの離脱を頽落と評するだけであり、その超越に興味を持たないからである。しかしその道具への固着は我欲の固着に連繋しており、よほど物理への固着の方が個人意識を我欲から解放する。それゆえにハイデガーにおける物理世界の排除は、実存のなんらかの進展に連携しない。すなわちハイデガーにおける実存は、本来の我欲にまみれた自己本位な姿から抜け出られない。結果的にもっぱらハイデガーが注意して避けようとするのは、その本来の姿が世俗的一般者になることであり、我欲を離れて対象と向き合うことになる。ハイデガーとフッサールのいずれにおいても、個人意識の超越を阻害し、対象認識の実現を不可能にしているのは、弁証法の停止である。このことは、キェルケゴールの優位点が直観主義ではなく、弁証法にあるのを露わにする。ハイデガーとの比較で見ると、ヤスパースは個人意識による限界突破について語っている。それゆえにその語りの差異は、ハイデガー実存論に対してヤスパース実存主義をキェルケゴール実存主義により忠実なものにする。筆者の場合、キェルケゴールとヤスパースの実存主義はその読後において感動を覚えたのに対し、ハイデガーの実存論は感心しただけに留まっている。この読後の感覚的差異は、やはりこの個人意識による限界突破の有無に応じている。実存主義において個人意識による限界突破は、常に絶望と連動する。したがってハイデガー実存論における弁証法の停止は、絶望の欠落と言い換えた方が実存主義にとってより正しい表現であろう。またこの言い換えの方が、ハイデガーによるキェルケゴールの哲学的改修の実態をより明らかに表現するはずである。その実態とは、ハイデガーによるキェルケゴールの哲学的改修が、現象学の実存主義的改修にすぎず、キェルケゴール実存主義の最も重要な部分の継承に失敗していることを表現する。
(2019/01/27) 続く⇒(キェルケゴールとハイデガー(3)) 前の記事⇒(キェルケゴールとハイデガー(1))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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