唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(4.知覚と情念(3))

2018-11-16 06:48:19 | ハイデガー存在と時間

16)暗然としたイデア論

 以上に示した唯物論では、知覚から情念を派生させつつ、自律の成立において情念を意識の始まりとして示し、スピノザ式機械論を脱する情念論を提示した。意識の始まりをその自律の始まりとして捉える限り、上記の唯物論とハイデガー実存論の間の差異は埋められている。すなわち上記の唯物論とハイデガー実存論はともに意識の自律の始まりを情念に見出しており、いずれにおいても意識は情念から始まる。しかし唯物論は、知覚を物理に扱って情念に先行させ、情念の自律において情念を意識の始まりとして扱うだけである。それに対してハイデガー実存論では自由を得た道具把握、すなわち視が物理的知覚に先行し、視が自由喪失において頽落したものが物理的知覚である。視はもともと不安に基礎づけられた投企であり、単なる認識であるよりは意志であり、さらに言えば情念である。物理的知覚を情念に先行させる唯物論、情念を物理的知覚に先行させるハイデガー実存論、この二つにおける物理と情念の先行関係は正反対であり、その差異を埋めることはできない。もともと現象学では、現象に従って意識にとっての意識を陳述すると、物理や知覚は全て意識の派生態でしか現れ得ない。なぜなら現象学は、次のような使い古された唯物論批判を無批判にかつ積極的に受容するからである。すなわちそれは、全ては意識においてのみ現れる、それゆえに全ては意識の派生態としてのみ現れざるを得ないとする実質的な独我論である。しかしそうだとしても意識にとっての意識自らの現象を陳述させることにこだわるなら、さしあたり知覚と情念の派生関係を度外視し、とりあえずハイデガー実存論に従って、後付けで情念を知覚から派生させる方策を後で考えるのも一つの現象学的方法であろう。ところが知覚と情念の派生関係を後回しに検討しようとすると、情念を規定するものがいなくなり、いきなり情念は自律した絶対者に化けてしまう。ここで情念の絶対者化を避けようとすると、必然的にイデア論が現れて来る。イデア論では意識の質料因は目的因に劣後し、さらに目的因は形相因に劣後する。ただし情念が価値基準としてのイデアに依存するなら、情念の絶対者化は避けられるからである。とは言えイデアは価値基準であり、価値判断としての情念はイデアに規定されてしまう。当然ながらイデアに規定された情念は、今度は逆に自律を失い、その自由を喪失する。それゆえにハイデガー実存論は、イデア論が表面に出ないようにして暗然としてイデア論を取り込み、それにより独我論を排除する。ハイデガーの実存論では、その暗然としたイデア論が一方で視の予構造として現れ、他方で不安の絶対者化として現れている。


17)価値基準の予持・予視・予握

 ハイデガーは道具把握を事物知覚に先行させ、その道具認識を視と呼ぶ。視を基礎づけるのは予構造であり、予構造は予持・予視・予握に分節される。ただしハイデガーの予持・予視・予握の説明は、読んだ字のとおりに対象をあらかじめ持ち、見て、把握するだけなので、それらの姿は判然としない。とりあえず判ることは、その予構造の各分節の登場順序が、世間的思考で考える認識順序から見ると逆転して見えることだけである。世間的思考で考える認識順序では、対象は認知されてから記憶として保持される。ところが予構造では、対象の認知の前に対象が保持されるからである。しかしもともと予構造は、事物知覚ではなく道具認識を基礎づけるものとして説明されている。したがって予構造が基礎づけるのは、知覚ではなく情念のはずである。すなわち予構造とは、情念を可能にする構造でなければいけない。つまり情念とは原初的価値判断であり、その価値判断を可能にするものが予構造である。これらのことから、次のように予構造の正体も露わになってくる。すなわち予構造とは、価値および価値基準の樹立機構だと言うことである。それが行うのは、まず対象の見当をつけ、次に実際に対象を確認し、最後に始めの見当を視の正規な基準として確保する一連の運動である。もともと情念における内感と価値の結合は、現存在の投企である。しかしその価値の結合を可能にするのは価値の先行的実在である。それゆえに内感と価値の結合は、現存在におけるあらかじめの価値の策定を、現存在の先行的な投企として必要にする。それだからこそ予構造において保有し確認されている対象も、やはり価値でなければいけない。すなわちハイデガーにおいて現存在は、形相を目的に先行させ、理念を欲望に先行させている。


18)価値基準樹立の困難

 先の唯物論では、価値の策定におけるイデアの先行的既在を避けて、それを肉体の価値基準の先行的既在に代置し、他方で情念の価値基準の経験的樹立を並立した。すなわち肉体的物理と情念の恣意を並立した。ただし肉体の価値基準は自然の価値基準の一部が本体に対立して分離したものである。さらに肉体の価値基準と情念の恣意的価値基準は、自然の価値基準を前にして分離して現れることが許されなかった。つまり肉体的物理と情念の恣意は分離不能であった。ここでの肉体的かつ情念的価値は、さしあたり生体の利害であり、その量的表現は快不快の大きさである。すなわち生体にとって価値とは、自然がもたらす生の至福と死の脅威になっている。ただし生体は至福と脅威をそのものとして捉えることができない。生体はそれらを、自らの延命の可能性と不可能性として捉えるだけである。その可能性と不可能性は量と質を持ち、その量と質において生体は至福と脅威を評価する。このように唯物論の困難は、情念の恣意を偶然に留め、その発現を無視することとして現れざるを得ない。そこにあるのは、最初から情念を意識として扱わず、現存在の自由の成立において初めて情念を意識として発現させるための困難である。一方で観念論は観念としての価値の先行を受容し、その由来を想定する労を不要にできる。要するに観念論は、価値をイデア的実体として君臨させ、その出所を問わずに済ませることができる。なぜなら観念論において始原的実体は観念であり、物質ではないからである。唯物論における意識が自由を得て初めて意識として現れるのと違い、観念論における意識はもともと自由であり最初から意識である。しかしそれだけだとイデアの観念的実在の自明化は、唯物論における物理的実在の自明化と大差が無い。すなわち真理や価値としてのイデアは、どのように形成されるのかが不明に終わる。精神が人倫を経て宗教そして国家として現れ、最終的に絶対知となる道筋を描いたのはヘーゲルである。しかしそのヘーゲルにおける精神は、カントの物自体やプラトンのイデアと同じものである。したがってヘーゲルの精神現象学とは、イデアの先験的自明化の排除に腐心したイデア形成の理屈だと言うことが判る。同様にシェリングの自然哲学やキェルケゴールの実存論も、やはりイデア形成の理屈だと言っても良い。一方でイデア形成の理屈を超越の彼方に措いて、それを不可知に扱ったり、逆に先験的自明化に満足したり、あるいは現れたままに扱うだけの観念論も存在する。ハイデガー実存論は、それらの観念論に含まれる。ハイデガー実存論がイデア形成の理屈にならなかったのは、ハイデガーが予構造のとば口で立ち止まり、価値基準の形成の理屈、すなわち倫理へと踏み込まなかったところに現れている。ただしそれは、踏み込まなかったのではなく、踏み込む意欲は存分にあったのに踏み込むことができなかったと見るべきかもしれない。もちろんそこに足止めをかけるのは、ハイデガーにおけるナチズム加担に対する自責の念である。


19)観念論的価値と唯物論的価値

 凍えるほどの寒さは、単なる寒さではないし、マイナス何十度と言う数字を言うのでもない。それは血流低下により生体維持を脅かす危険な寒さを表現する。したがって凍えるほどの寒さは、もっぱら無価値である以上に負の価値を持つ。その具体的な価値は、生体が講じる低体温への過大な防衛負担に等しい。すなわち凍えるほどの寒さの表現する価値は、微細な筋運動や手足のすり合わせにより体温を上昇させ、体表面を服で覆って身を寄せ合い、冷風を避けて家屋に避難する行為の総量に等しい。このような価値は、ハイデガーの場合、存在者における負の道具性に等しく、死の重みとして存在者の実在を構成する。ところが一方でこのような価値は、個別の現存在に即応して現れる。例えば現存在がウィンタースポーツに生き甲斐を見い出しているなら、凍えるほどの寒さはむしろ生の重みを得る。このような価値の多面性は、道具性の正負において相互に矛盾する。それゆえにハイデガーの場合、価値の規定者は物理ではなく、意識に存する。すなわち価値は主観的なものである。したがって凍える寒さは、物理による規定ではなく、意識による規定となる。しかしそれでは、あたかも意識の捉え方一つで真冬の現実が真夏の暑さに変わるかのようである。この独我論的理不尽は、もともと凍えるほどの寒さが生体的危険と冬季競技における有用性を併せ持つことを無視している。実際にはその価値の多面性を、様々な物理的前提が支えている。すなわち価値の多面性は、それ自身が既に物理である。例えば冬季競技者は、丸裸で雪山スキーをするわけではない。彼はあらかじめ防寒対策において厳寒を無効化し、その廃絶をもって雪山スキーをする。多面性を支える諸条件を無視していきなり価値を主観に引き移すのは、逆に価値の多面性を損壊し、価値を単なる主観に変える。凍える寒さの価値を規定するのは、意識ではなく、やはり物理である。


20)根源的情念としての不安

 唯物論から見た情念論との比較でハイデガー情念論を見た場合、最も目立つのはその実存論において不安が持つ特権的地位である。不安は対象の無い情念として扱われており、強いてその対象をあげるなら自由または世の中がそれに該当している。また不安は本来の自己開示、または死の確信でもあると言われている。しかも不安は現存在を先駆的決意に誘導する脱自の根源的規定者でもある。このようにハイデガーが不安を対象から切り離す理由は明白である。意識を物理の支配から解き放し、意志の自由を確保するためには、不安は物理の支配下から離脱していなければいけないからである。ハイデガーの実存論では、不安を通じて決意が醸成し、現存在は投企する。不安は現存在における自由の根源である。そのように自由な根源的情念がそもそも物理に屈していたのでは具合が悪いのである。一方で志向対象の無い志向作用は現象学では許されない。そこでハイデガーは不安の対象として自由や世の中のような漠然としたものを提示し、最終的に不安の対象を現存在の未来として描く。未来の非存在は悲観的意識において不安の醸成に都合が良い。おそらくここで念頭にすべきなのは、生まれたての現存在である。その現存在には明らかに自らの既在が無い。この現存在は予感と連繋すべき表象を持たないので、可視化不能な予感は現存在の中で完全に宙に浮いてしまう。おそらくハイデガーなら、この生まれたての現存在に渦巻く情念に不安を想定するであろうと考えられる。すなわち赤ん坊は自由へと放り出され、世界に対して不安を感じるのである。自らの既在を持たない現存在にとって、自らの既在は、世界そのものなのである。生まれた子供が先ず泣くのは、このためかもしれない。しかし未来の非存在は楽観的意識において期待を醸成するものである。また不安は安心の否定であり、そもそも安心を前提にする。そうであるなら、確定した未来の存在は悲観的意識においても安心を醸成するべきである。そのように考えるなら、自由や世の中を対象にした情念も、不安に限定されず、安心や期待であっても良さそうである。すなわち意識の動因に不安を措くのは、ハイデガー式レトリックの自己都合のように見える。したがって生まれたての現存在に渦巻く情念も、不安ではないと筆者は考える。そもそも赤ん坊は生まれ出る前も、胎内で既に胎動を始めている。


21)原初的価値判断としての快・不快

 情念の原初的姿は、筆者の考えるところで言えば、単なる快と不快である。ただし不快は快の否定であり、快を前提にする。したがって根源的情念は何かと言えば、それは快でなければいけない。そうであるなら、生命体が持つ本来の気分も快のはずである。逆にそうではなく不快が本来的な気分だとすると、全ての生命体は自殺すべきものでしかない。快と不快は内感に価値判断が付着させた価値である。その付着する価値も、上述したようにもともと自然が生体にもたらした生の至福と死の脅威である。すなわち快または不快とは、自然がもたらす生の至福と死の脅威の模写である。したがってこれまで単純に表現してきた快や不快にも、自然がもたらす至福と脅威の種類に応じた様々な快や不快の種類があると考えられる。その具体的な中身は、水分補給や栄養摂取、体温の安定や身体各部の休養、さらには性的満足や共存他者との融和など多岐にわたらなければいけない。そしてその具体的姿は、生体における該当事象の発生である。例えば食事の満足を考えた場合、そのもともとの姿は、生体各部における食餌対象の最終的包摂である。一方で実際の食事の満足は、生体における食餌の開始、または食餌対象の味の確認、さらには食餌対象の捕縛で既に発生する。すなわちまだ食べ終わってもいないどころか、食べ始めてもいないのに、食事の満足は既に開始している。そして満足の先取りにおいて、生物は投企をしている。もちろん人間はその最たる生物であり、計画的行動を知性において実現している。それを可能にしたのは、悟性による価値の結合対象の拡大である。もともと情念において悟性は、価値を内感と結合していた。しかし価値の結合対象が内感を超えて表象や概念に拡がり、それによりもともとの情念の直観的反応は、知性の計画的対応にまで変化している。この価値の拡大結合は、生体内で食餌対象の模倣的包摂として現れるはずである。つまり始まりの内感への価値結合が脊髄反射に例えられるなら、表象や概念への価値結合は条件反射に例えられる。ただしここでは投企の現実態が無条件反射として現れるか、条件反射として現れるかにまで論及する必要はない。さしあたり理解すべきことは、次のことである。情念の原初的姿は一種の化学反応であり、それは生体に利するものに出会えば、生体が自らに至福を与え、生体に害するものに出会えば、生体が自らに死を与えるような生体の能動だと言うことである。したがってその能動は物理と意識の境界にある。そしてその物理的能動を明確に意識の投企へと変えるのは、生体に偶然もたらされた自由である。情念は原初的価値判断であり、その始まりの姿にはさらにもっと単純な姿が要求される。それだからこそ筆者は、不安ではなく、快および不快を根源的情念として扱う。
(2018/11/15) 続く⇒(知覚と情念(4)) 前の記事⇒(知覚と情念(2))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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