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唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第1編第4/5章 共存と相互依存/中での在り方)

2018-08-27 06:59:49 | ハイデガー存在と時間

 世の中の在り方は、道具と事物の在り方で二様に現れる。両者の違いは現存在の在り方が事物の在り方と異なることから派生している。それは現存在における実存と世俗の分裂した在り方である。しかし現存在におけるこの世俗現象は、現存在の先験的な他者との共存構造に従うのではないかと予想される。ここでは現存在の共存構造を分析する第1編の4章、および中での在り方を再分析した第1編の5章を概観する。


[第1編 第4章と第5章の概要]

 事物と違って現存在の自己は、非本来的な世俗と本来的な実存の二つの在り方で現れる。それぞれの自己にとって相手の自己は他者であり、他者を媒介にして自己は自己たり得る。したがって自己と他者は、いかに互いに無縁だとしても、先天的に共存する。感情移入を根拠づけるのも、この共存構造である。他者は自己と対等な一つの現存在である。しかしむしろ他者は、自己を埋没させる共同現存在として現れる。現存在による共同現存在に対する配慮も、本来的に道具的配慮ではなく、相互友愛の対人的配慮である。しかし平均的日常における共存は、相互に無関心でいながら依存し合う相互依存にある。この相互依存は、自己と他者の本来的自己を世俗化する。
 現存在における内面的在り方は、現である。それは現存在における外の在り方を現す場であり、情念と了解と語りで構成される。

  • 情念
     世の中と共同現存在と実存の三者の先行的な開示の場。ただし情念がもっぱら開示するのは、現存在の被投性であり、物理事実ではなく、観念の原体験である。
  • 了解
     現存在の能力を統制する。ここで現れる現存在は、可能性としての自由それ自身である。それは現存在の投企性として現れる。現存在は情念の目的が実存にあるのを了解しており、それを根拠にして有意義性や適所全体そして道具連関全体、さらに本来的な自然を開示する。解釈とはこのような本来的な了解の明示である。しかし解釈から派生した陳述は、往々にして実存の道具連関ではなく、世の中の事物を根拠にした非本来の了解を提示する。なお解釈を基礎づける現存在の道具認識は視と呼ばれ、それはさらに予持・予視・予握によって基礎づけられる。意味とは、解釈が明示化した了解の個別部位であり、実存との関連でのみ語られる。したがって陳述が提示する非本来の了解は、意味を持たない。
  • 語り
     現存在自らを言表する投企。この語られた言表が言語である。語られたことによって言語は、一方で解釈を明示する道具として、他方で陳述を伝達する事物として現れる。ただし自己と他者の共存は現存在の構造なので、言語にできるのは共存の明示だけである。なお中世以後の合理主義の台頭が言語を語りから乖離させた、とハイデガーは解釈している。

ハイデガーは解釈と視の世俗形態をそれぞれ曖昧と好奇心と呼び、また語りの世俗形態を空談と呼ぶ。そしてこれらの世俗形態を、日常的に世の中に没入する現存在の自己喪失として捉え、その現存在の在り方を頽落と呼ぶ。



1)現存在と事物の在り方の差異(実存と世俗)

 自己の実体性を不断の残留に見出そうとすると、自己の在り方は事物の在り方と変わらなくなる。ところが自己の実体性には「その私は私ではない」との自己喪失表現が可能である。もちろん自己喪失する自己において自己は断絶して残留しない。そのような自己の在り方は事物の在り方から区別される。一方で自己喪失する自己は、やはり不断に残留して現れる。このような矛盾した自己喪失を可能にするのは、二つの自己が非本来的自己と本来的自己として現れる現存在の在り方である。自己は平均的日常において世俗(ひと)Das Manとして現れる一方で、その実体は実存として現れる。このときの非本来的自己と本来的自己は、それぞれ世俗と実存として対立しており、それぞれの自己にとって相手の自己は他者として現れる。またむしろ他者がいるからこそ、それらの自己は自己たり得ている。


2)現存在における他者の根拠(共存と共同現存在)

 現存在において自己と他者は同時に現れ、いかに互いに無縁だとしても、両者は共存する。この共存MitSeinと言う在り方は、現存在の先天的構造になっている。現存在は名簿一覧に搭載するかのように、この先天的在り方に共同現存在をはめ込む。したがって他者が居ないとしても、現存在は常に他者と共存する。つまり独我論は成立しない。感情移入はこのような共存構造に根拠づけられており、感情移入が共存を根拠づけるのではない。一方で他者は事物でも道具でもなく、自己と対等な一つの現存在である。そのことは道具が自己と他者の両方にとって有用であることにも示されている。しかしこの他者の現存在は、自己と共存する一方で、むしろ自己を埋没させる共同現存在として現れる。共同現存在に埋没する自己は、世の中における単なる「ここ」に堕する。


3)現存在の他者との在り方(対人的配慮と相互依存)

 現存在は道具に対するように共同現存在を配慮Sorgeする。ただし共同現存在は道具ではないので、その配慮は対人的配慮FurSorgeとして現れる。しかし対人的配慮であっても、自己を道具の如く扱う配慮、または相手を道具の如く扱う配慮も可能である。共存構造に従う本来の対人的配慮は、そのような道具的配慮に堕した対人的配慮ではない。それは自己と他者の相互的友愛である。一方で平均的日常における自己と共同現存在の共存は、目立たない相互無関心な在り方をしている。その目立たなさは、用途に徹した道具の目立たなさと同様の自己の相手への依存を現す。そのことが露呈するのは、自己と他者の相互依存MiteinanderSeinである。しかしこの在り方にある共存は、自己と他者の差異を際立たせて両者の平坦化を目指し、自己と他者の本来的自己を世俗化する。実存はこのような世俗の変様として現れる。


4)現としての中での在り方

 現存在において「中での在り方」は、「世の中」を外に見立てたときの内であった。その在り方は、「世の中」および「中での在り方」の全体を開示する。それゆえに内としての現存在とは、世の中での在り方を現す場である。すなわち現に存在する現存在の内面的在り方は、現Daである。現は情念と了解と語りで構成された現象の場である。


5)現における被投(情念と原体験)

 現の一区画を成す情念(情状性)Befindlichkeitとは、現存在に最も身近な現象の場、すなわち気分を指す。情念において現存在にとっての世の中と共同現存在と実存の三者が先行的に開示される。ただしそれらの開示を含めて情念がまず露呈するのは、現へと投げ込まれている現存在の被投性である。そしてそれらの事実が現すのは、観察に現れるような物理事実ではなく、観念の原体験(現事実性)Factizitatである。その原体験に現れる現存在は、世の中に襲撃されている。そしてこの襲撃に対する当惑によって現存在は、逆に現へと自らを投げ込む自己を見失う。一方でその当惑が露呈するのは、現存在における有意義性としての世の中の在り方である。このような情念の一つに恐怖がある。恐怖は恐怖自身が恐怖の対象と理由を開示する。そのことが言わんとするのは、恐怖の対象と理由についての認識は、恐怖の派生した姿だと言うことである。恐怖の対象と理由は、一見すると共同現存在を含めた世の中である。しかしその実際の対象と理由は、他者との共存を含めた現存在の自己である。


6)現における了解

 現の次の区画を成す了解は、能力を統制する。ただし現存在は、事物のように能力を偶有するわけではない。もしそうであるなら現存在は単なる事物である。したがって現存在は、可能性それ自身として現れる。すなわち現存在は可能の基体であり、つまり自由である。それは、現へと自らを投げ込む現存在の投企性として現れる。一方で先に見たように現存在は情念を了解し、情念が露呈した有意義性を開示する。ここでの現存在は、情念による開示の目的が現存在の実存にあるのを了解している。そしてその了解は、自らの実存を可能にするための現存在の在り方である。それは現存在の在るべき在り方をこれまでの在り方に即して開示する。それゆえに有意義性の開示は、適所全体そして道具連関全体、さらに本来的な自然の開示へと連携する。ちなみに実存了解は、中での在り方の了解である。当然ながらそれは世の中の了解でもある。


7)了解の派生(解釈と陳述)、および本来的認識としての視

 本来の了解は自らの実存を目的にする投企として現れる。逆に非本来の了解は、実存から離れ、世の中に規定された投企として現れる。解釈は本来の了解から派生し、了解を自分のものへと仕上げる。一方で陳述は解釈の派生態であり、伝達しつつ規定する提示である。解釈は事物の意義づけではなく、了解の明示化である。しかし解釈から派生した陳述は、往々にして非本来の了解であり、そもそも了解からも離れてしまう。このために解釈での存在者が道具として現れるのに対し、陳述での存在者は事物として現れる。ハイデガーは本来の了解を構成する配視などの目立たない道具認識を視Sichtと呼ぶ。視に対して観察として目立つ事物認識は、視の派生態である。それには直観や悟性などの従来の認識論が扱う認識も含まれる。なお視を基礎づけるのは予持・予視・予握である。それぞれは解釈における了解の明示化を基礎づけ、投企を構成している。


8)了解を構成する明示された部位としての意味

 現存在の了解対象は、もっぱら意味ではない。それは道具や事物の存在者またはそれらの在り方として現れる。一方で意味は、そのような存在者または存在者の在り方と区別されている。むしろ意味は、解釈において明示されたところの了解の個々の部位であり、了解において開示を構成する現存在自身の明示化である。したがって解釈において自分のものとなった本来の了解だけが意味を持つ。すなわち、現存在だけが意味の有無に関わる。他の存在者は現存在を通じて意味に関わるだけであり、そもそも意味を持たない。したがって陳述に過ぎないだけの非本来の了解も、同様に意味を持たない。そのような了解に意味を見い出そうとすれば、事物因果の無限循環に巻き込まれてしまう。そのような循環から離脱するためには、意味を見い出し得るような本来の了解を必要とする。そのような了解では、循環する道具連関の始端か終端に常に自由な実体、すなわち現存在が現れるからである。


9)現における投企(語りと言語)

 現の三つ目の区画を成す語りは、現存在自らの言表である。それは現存在の純然たる投企として現れる。語りは本来の了解の吐露であり、したがって解釈の言表でもある。あるいはむしろ逆に、言表されていない語りが解釈である。当然のことながら、本来の了解と無縁な語りも可能であり、それは解釈ではなく陳述に留まる。また語りが言表されれば、それは言語となる。そして言表されたことにより、存在者としての言語は一方で解釈に対応した道具として現れ、他方で陳述に対応して事物として現れる。ただし語りは言語だけの現れだけではなく、身振りや表情、抑揚など言語以外の全ての現存在の現れである。当然ながらそれは現存在の肉体でもある。現存在が自らの構成に共存を含む以上、現存在と共同現存在は共存においてもともと結合している。語りにできるのは、その共存の明示化だけである。なお「語り」に対応する「聞く」は、了解することと同義である。古代ギリシャにおける人間定義は、ロゴスを持つ動物である。ハイデガーの理解では、ロゴスは語りである。しかし中世以後にロゴスが陳述と理解されたことで、人間が単なる合理的動物となり、陳述化した語りと解釈において本来の言語の在り方が見失われたとハイデガーは考える。


10)現における堕落した日常

 ハイデガーはさらに現の日常的な在り方として空談と好奇と曖昧を加える。ただし空談と好奇は、実存から遊離して世俗が行う語りと視であり、また曖昧は、世俗が行う無責任な解釈である。すなわちこれらの日常的な現はそれぞれ語りと視と解釈の世俗的変様であり、その現存在は総じて世の中や相互依存へと自らを没入させ、日常的に自己を喪失している。ハイデガーはこのような現存在の在り方を頽落と呼ぶ。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第1編6章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第1編3章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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