唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第1編第6章 現存在の在り方としての配慮)

2018-08-27 22:55:31 | ハイデガー存在と時間

 世の中の在り方を情念と実存と頽落で捉えたハイデガーは、その全体像および実在性と真理概念を捉え直す作業に入る。前章までに世の中の在り方として提示された現存在の在り方は、ここでは投げられかつ投企する配慮として示される。ただしそれは、現存在→世の中の在り方(=世界内存在)→配慮→時間性(=脱自)と出世魚のように名前を変える現存在の在り方表現の中間過程に過ぎない。ここでは不安を現存在の在り方全体の開示情念として捉えるところから始まり、カントやディルタイの真理概念批判に託けたフッサール批判で第1編を閉じる6章を概観する。


[第1編 第6章の概要]

 現存在の在り方は、情念と実存と頽落で構成されている。それは投げられた自己、および投企する本来と非本来の自己の三種の在り方である。日常的に頽落する現存在は、視において自らの本来の姿を捉えることができない。しかし不安と言う本来的情念において、現存在は自らの本来の姿を開示する。なぜなら世俗に埋没する日常的現存在が不安において恐れるのは、本来の自己だからである。その露わにされた本来の自己とは、自己の可能な在り方そのもの、すなわち自由である。その現存在の在り方は、自らの在り方に関わる在り方であり、したがって自らの在り方に先んじる在り方である。ハイデガーはこの在り方を配慮だと言う。すなわち不安は、配慮に先んじながら既に配慮する現存在の在り方を露わにする。
 ハイデガーにおいて物体の在り方を規定するのは、本来的に意識である現存在の実存である。一方で頽落した現存在すなわち世俗は、世の中と共同現存在による支配に安住し、その意識の在り方は物体に規定される。同様に世俗は在り方一般を、道具の目的論的在り方から物体の機械論的在り方へと定位する。そこでの存在の一般的な意味は物理的実在である。つまり世俗において物体は意識の実体であり、それゆえに物体は実在しなければならない。それに対してハイデガーは、現存在が物体に規定される前に既に世の中に投げ込まれている、と指摘する。もちろんその指摘は、観念論の唯物論に対する一般的非難、すなわち、物体は意識の内にしか現れ得ない、と言う非難の言い換えである。さらにハイデガーは、世俗が現存在における世の中での在り方に論及せず、そもそも物体の非実在を前提にして物体の実在を説いていると非難する。
 日常的現存在は了解の根拠に事物の実在を当て込み、自らと世の中の事物の一致において真理を確認する。しかし実在が実存に規定されるとなれば、日常的現存在が行ってきた了解は根拠を失う。それに対してハイデガーは、現存在は真理の中に投げ込まれており、現存在の原体験に真理があると考える。原体験の自律する真理に比べると、異なる真理との一致によって確認される真理は、他者に依存する従属的真理である。不可知論はこの従属的真理を、アリストテレスに始まりカントにおいて命脈を絶たれた素朴実在論の謬見とみなした。ところがその実在論批判の一方で、カント先験理論は真理を判断に、さらには思惟に依存させる謬見に進む。しかしその真理は陳述の枠内に留まっており、陳述において見出される真理である。カントと同様の誤謬は、カント式先験カテゴリーを純粋自我としたフッサールにも見出される。しかしその純粋自我は、情念の原体験から遊離した架空の思惟である。結局それらは、自らの他者への依存を忘却しただけの実質的な従属的真理である。それに対して実際の実在論の真理は、判断や思惟に依存せず、陳述の枠内に留まることなく、見出す真理として自律している。なぜなら現存在の在り方は、真理と非真理の両方に規定されているからである。その真理は、主観的である一方で、現存在の在り方の形式として先験性を得ている。



1)現存在の総体を開示する試み

 実存において現存在は、投げられた自己を情念において捉える一方で、自由に投企し得る自己を了解している。しかし他方で現存在は世の中と共同現存在の支配下で日常的に頽落し、この実存を忘却している。このような現存在の素描は、現存在の在り方が情念と実存と頽落で構成されているのを露わにする。すなわち現存在の在り方の総体は、投げられた自己、および投企する本来と非本来の自己の三種の在り方である。しかし分裂した現存在の在り方を総合しても、結局その総合は現存在の本来の姿ではない。また投企する自己が日常的に頽落する以上、現存在は視において自らの本来の姿を捉えることもできない。一方で現存在において投企する自己が実存と世俗に分裂するのに対し、投げられた自己すなわち情念はこの分裂から外れている。また情念はもともと全存在者の先行的開示の場である。それゆえにハイデガーは、視の代わりに情念において現存在の本来の姿を捉えるよう試みる。現存在を世の中での在り方として捉えたハイデガーの存在論は、世の中での在り方を「配慮」の一文字にまとめる作業に進む。


2)不安が開示する現存在の総体

 現存在における世俗への埋没とは、端的に言えば実存からの逃避である。逃避において現存在が恐れているのは、事物や道具のような世の中の特定の存在者ではない。したがって現存在は無を恐れており、あるいは世の中での在り方の全体を恐れている。ハイデガーはそれを本来の自己への恐れだと断じる。そしてこの恐れを不安だと限定し、逆に恐れを頽落した不安として派生情念に扱う。もともと情念は視に先行する対象の捕捉であり、それ自身が対象の現れである。したがって不安が捉えているのも本来の自己であり、不安こそが本来の自己を露わにする。不安は、本来の自己が可能な在り方そのものであり、自由であるのを開示する。それだからこそ世俗への埋没は、現存在を不安から解放し気楽にさせる。世俗とは自由から逃避した現存在の姿である。不安は実存と世俗の両方から独立しているので、両方を開示する。


3)配慮としての現存在の在り方

 現存在の本来の在り方は、自らの在り方に関わる。したがってその在り方は、自らの在り方に先んじている。ただしここでの先んじた現存在と先んじられた現存在は同じ現存在である。実はこの在り方の図式は、現存在と世の中との相関にも該当する。すなわち現存在は世の中に先んじた世の中であり、世の中は現存在に先んじられた現存在である。したがって現存在と世の中は、主観と客観のように切り離れていない。このために現存在の実存は、世の中での原体験から離れられない。その在り方は、単に自らに先んじているのではなく、自らに先んじながら既に在る在り方である。それは現存在の基本的な在り方であり、意欲や願望、性癖や渇望などの他の在り方全般もこの基本的な在り方から派生する。ハイデガーはこの在り方を配慮だと断ずる。すなわち配慮する現存在は、それが道具的配慮であろうと、対人的配慮であろうと、配慮に先んじながら既に配慮している。


4)物理的実在への問い

 頽落した現存在にとって存在者は道具ではなく物体である。この把握は在り方一般の、道具の目的論的在り方から物体の機械論的在り方への定位である。結果的に存在の一般的な意味も、存在者の在り方ではなく、物理的実在となる。当然ながら現存在の在り方までもが、物理的実在として現れる。しかしこのことは次に以下のような疑問を生む。意識により保証されてきた物理的実在が、意識無しにその実在を保証され得るのか? また意識から離れた世の中の実在を証明できるのか? 完全に道具ではない物自体の認識が可能なのか? 物理的実在の意味は何か? 


5)物理的実在の実体性

 ハイデガーにとって本来的に意識が物体の在り方を規定する。しかし世俗は、世の中と共同現存在による支配に安住しているがゆえに、その逆の信念を持つと考えられている。それは、物体が自律した実体として実在するとの信念である。ハイデガーはカントによる物体の実在証明を、同様の世俗的信念だとみなす。その証明では、変化する自己を規定するのは、不変な他者すなわち物体である。つまり物体が意識の在り方を規定する。そしてそのような意識の実体であるゆえに物体は実在しなければならない。しかしハイデガーはカントの説明を次のように非難する。物体に規定される意識は物体である。しかもその自己は、あらかじめ他者を自己以外として分離し、孤立している。しかし自己と他者を分離するのは、世の中と一体にある時間的実体としての自己である。またその世の中は道具連関の全体であり、カントの示す物理空間ではない。自己は物体に規定される前に既に世の中に投げ込まれている。そのような在り方が、配慮として既に明らかにされたものである。


6)物理的実在の実体性

 ディルタイにおいて物体は抵抗者であり、カントの場合と同様に、意識の規定者である。しかし抵抗者として物体を露呈させるのは、意識の在り方である。この在り方は存在者によって規定されず、したがって意識は物体によって規定されないとハイデガーは考える。その物体と意識の関係は、客観と主観の関係に置き換えられても変わらない。カントとディルタイのいずれにおいても、その実在問題は現存在における世の中での在り方にまで論及していない。そもそも物体の実在証明は、物体の非実在を前提にして物体の実在を説明している。その証明は、自己の実在を確信できずに世俗的信念に頼ったものにすぎない。したがって物体は、現存在が実存する限りにおいて実在する。物体の実在を規定するのは、現存在の実存である。


7)実在と真理

 日常的現存在は、自らと世の中の事物の一致において真理を確認する。その非本来の了解の根拠が事物の実在である。しかし実在が実存に規定されるとなれば、日常的現存在が行ってきた了解は根拠を失う。それは世俗にとっての真理の喪失でもある。それゆえに実在に続いて次に真理とは何かが問われることとなる。ハイデガーの解釈では、真理は隠蔽を解かれることで確認される。したがって真理は他者に依存せず、現存在の自律した原体験として現れる。その原体験の真理は、異なる真理との一致によって確認される必要は無い。このような自律した真理に比べると、喪失し得る真理とは、異なる真理との一致によって確認され、他者に依存する従属的真理である。不可知論はこの従属的真理を、アリストテレスに始まりカントにおいて命脈を絶たれた素朴実在論の謬見とみなした。ところがその実在論批判の一方で不可知論は真理を判断に、さらには思惟に依存させる謬見に進む。その謬見にはカントの先験理論も含まれている。その真理は陳述の枠内に留まっており、陳述において見出される真理としてやはり従属的である。


8)自律する真理

 配慮する現存在は真理の中に投げ込まれる一方で、その原体験を語る自らを投企する。それゆえに本来的に現存在の在り方は真理の内にある。一方で現存在の在り方は情念と実存と世俗で構成される。それゆえに曖昧な了解に基づく好奇なだけの空談は、原体験の真理を隠蔽し、また偽る。なぜなら頽落した現存在は非真理の中での在り方だからである。したがって現存在の在り方は、真理と非真理の両方に規定されている。アリストテレスのおけるロゴス解釈も、真理と非真理の両方の在り方を可能にしている。このような実在論の真理は、判断や思惟に依存せず、それから自由である。したがってその真理も、陳述の枠内に留まることなく、見出す真理として自律している。その真理は主観的である一方で、現存在の在り方の形式として先験性を得ている。


9)純粋自我の従属性

 不可知論に対する基本的反論は、不可知論が不可知の真理を知り得る矛盾を指摘することにある。この反論に対してカントは不可知の真理を知り得るとみなし、不可知の真理を先験理論へと昇格することで不可知論を維持した。一方でカントに倣い、逆に不可知の真理を放棄する不可知論も現れる。それは不可知の真理を知り得ないとみなし、不可知の判断を停止する先験理論である。いずれの先験理論であってもその目指すところは、経験的真理の追放による永遠の真理の樹立である。純粋自我または意識一般は、経験的真理を追放した残滓であり、それゆえにその主観は先験的真理の役割を期待された。ところが経験を喪失した自我や意識は、情念の原体験から遊離し、現存在の構造から外れた架空の主観である。その架空性は、志向対象を持たない志向作用の架空性と変わらない。またその先験的真理は、自らの自律した原体験を忘却している。それは忘却において他者に依存する従属的真理である。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第2編1章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第1編4/5章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

唯物論者:記事一覧


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ハイデガー存在と時間 解題... | トップ | ハイデガー存在と時間 解題... »

コメントを投稿

ハイデガー存在と時間」カテゴリの最新記事