唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(9.国家と富)

2017-08-17 00:15:08 | ヘーゲル精神現象学

9)国家の外化

 目的論的因果の必然性を保証する者は、意識一般である。ただし理性の始まりにおいて、この意識一般はまだ直接態にある。それは自己意識にとっては宗教教団であり、理性にとっては人倫的共同体として現れる。それらは個々の個別者が要求する必然の調停者であり、個別意識のもたらした無秩序の単なる対極である。しかし今ではこれらの教団や人倫が、個別意識にとっての必然として現れる。教団や人倫への忠誠は意識に徳をもたらす。ただし徳に現れるのは思い込まれた意識一般にすぎない。それゆえに徳において主語は相変わらず自己意識であり、意識一般ではない。それは真面目な意識であるが、自らの言葉と裏腹に忠誠を誓う相手を知らない。結果として徳の意識は、自らの幸福を実現できない。それに対して意識一般の現実は、共同体における個々人の仕事である。そしてその実体は、共同体における仕事全般の規律であり、習俗や慣習や掟であり、各種の法として現れる事自体である。意識一般における主語は事自体に移り、そこでの自己意識は事自体に従属することで述語として現れる。ただしそれだけでは意識一般にしても、徳と同様に自らの忠誠を誓う相手を知らない。結果的にそこに現れる真面目な忠誠、すなわち立法的理性や司法的理性は、徳と同様の思い込まれた意識一般として現れるか、世俗的に形式への従属を誓うだけの無内容な意識となる。その場合の意識一般の主語には、個人意識の恣意か、または到達不可能な物自体が君臨する。結果としてここでも意識は、自らの幸福を実現できない。意識一般が忠誠を誓う相手は、到達可能な目的でなければならず、その忠誠の誓いも強制であってはならない。それは教団や人倫として現れるだけではなく、精神として結実すべきである。すなわち意識一般は自ら精神であるだけではなく、精神を自らの主語に措き、精神に従属する述語とならなければいけない。そこで「精神現象学」は理性の章までを序論に扱う形で、本論たる精神の章で序論部分の記述論理を再度踏襲し、意識一般として現れた人倫、さらに国家について語り始める。


9a)物としての神々、意識としての人間

 ヘーゲルにおいて直接知に実在として現れた物は、神々の掟を体現する。一方で物の実在から漏れた意識は、人間の掟を体現する。つまり神々の掟とは物理や生存本能などの自然法則であり、人間の掟とは言葉や慣習や法などの社会規範を指す。それゆえに前者における神々は自然であり、女性的な論理において家族における人倫を形成する。その掟における一般者は死者である。弔いにおいて家族は死者を一般者とし、その死を超克する。一方で人間の掟において人間は意識一般へと純化され、その男性的な論理が共同体を国家へと導く。その掟における一般者は生者であり、その人的表現は共同体の長である。人倫はこの二つの掟の統合である。家族を支配するのは、女性が司る神々の掟である。しかし家族を存立させているのは、男性が支配する人間の掟である。神々の掟は人間の掟を追放しようと試みるが、家族が人間である限りそれはできない。なぜなら肉体は意識の支配を受けており、その限りで存在可能だからである。逆に人間の掟も神々の掟を克服し、支配しようとする。しかし人間の掟は神々の掟を自らの基底に持つので、神々の掟から逸脱できない。なぜなら意識の存在は肉体であり、死ななければならないからである。それでも人間の掟の虚実を自覚した諸個人は、ここで自己否定において物としての自らの不幸から離脱しようと試みる。それが表現するのは、諸個人における不死の願望であり、死の超克である。一方で実在性の欠けた人間の掟は、諸個人の承認において国家として現れ、神々の掟を通じた恫喝をもってさらに諸個人の否定を促す。個人はここでの自己否定を通じて市民となり、一般者として国家に献身することで徳を実現する。


9b)二つの掟の調停

 神々の掟と人間の掟は、女性と男性、個別者と一般者、家族と国家、あるいは現実と理想、もしくは生命と意識の対立として現れる。個人や家族、または国家は、このような二つの掟の調停に失敗したなら、没落を経験することになる。調停の失敗とは、例えば個人や家族の国家からの離反であったり、国家儀式と化した家族慣習であったり、逆に家族化した国家の腐敗であり、国家の一般者からの逸脱である。いずれの失敗においてもそこでの没落者は、実際には神々の掟か人間の掟のどちらかの掟だけに従い、他方の掟を疎んじている。ただし没落者を含め、個人や家族、または国家は、もともと二つの掟のどちらかに重きを置き、その掟の部分を体現した存在者であり、言わば二つの掟の影として両者の対立軸に浮かぶ駒に過ぎない。したがって没落者の悲劇が体現するのは、二つの掟の矛盾である。それらの悲劇が示すのは、人倫共同体として現れた国家が二つの掟のいまだ直接的統一のままにあることである。そのような矛盾は、共同体の成員を破滅させるだけではなく、人倫共同体自体をも没落させる。ところが人倫的共同体の没落は、民族の運命を無政府状態と人倫共同体の再建を繰り返す悪無限へと委ねる。しかも一方で強力な他民族に対する恐怖は、人倫共同体の成員に対して人倫共同体の没落ではなく、その存続ないし再生を要請する。それは神々の掟とも言える強力な自然力である。そしてそれは神々の掟でありながら、諸人格の連繋を全ての個人に要請し、むしろ共同体の成員に人間の掟としての国家を承認させる。それだからこそ人倫共同体は、国家としての強さを持つ。もちろん人倫共同体におけるその強さは、個人を駆逐する専制として現れる。そこに現れる国家の姿は、神々の掟を追放する人間の掟である。それは成員の個性を否定して抽象的存在とし、自らを意識一般として体現する。本来ならそのような国家は、それこそ没落すべきある。ところがここでの人間の掟は、実は神々の掟を同時に体現している。なぜならその専制は、諸人格の連携と承認が保証しているからである。すなわち専制は必要悪として成員に承認される。それどころかそもそもそれは悪として現れることも無い。それゆえにここにおいて思い込まれた意識の一般性は、現実のものとなる。ヘーゲルはライブニッツ式に現実を理性の最善の選択結果として理解する。


9c)教養と啓蒙

 国家専制の確立においてひとまず終焉した神々の掟と人間の掟の対立は、次に啓蒙と教養の対立の形で現れる。国家専制の下では、専制の都合に応じた国民の意識支配がまず教養として現れる。教養は人間の掟を条文化したものであり、その内実は国家への忠誠を要求する支配層のための国民向け行儀作法である。一方で啓蒙は神々の掟を概念化したものであり、その内実は要するに科学である。教養と啓蒙は国家と国民の対立が表面化しない状態では、相互補完的に調停され、両者の間に対立が見られない。しかし国家と国民の対立が表面化すると、両者は激しく争うことになる。その場合に教養は支配者に対する隷属の証とみなされ、啓蒙は支配への反逆の思想として現れる。もちろん国家と国民の対立が表面化しない状態でも、教養は支配者に対する隷属の意識である。しかしその場合の教養は国民相互に対する隷属の意識でもある。すなわちその教養は、神々の掟だとみなされている。一方で教養と同様の変質は、啓蒙の側にも起こる。啓蒙は国民全体に対する信念の強制として現れるからである。すなわちそこでの啓蒙は、人間の掟にみなされる。そのような変質した両者は、対立することもなく、むしろ相互補完において教養が啓蒙を国民に要求し、啓蒙が教養の内容を充実する。ただしそこで教養が要求する啓蒙は、支配者に対する牙の抜けた科学である。また啓蒙が充実する教養も、諸法の整備を超えない限りでの隷属と反発に分裂した意識である。ヘーゲルはこの両者の折衷思想を透見と呼ぶ。具体的に言えば、それはカント超越論である。透見において真理は到達不可能な物自体として現れる一方で、善は到達可能な真理として示される。その不整合は社会における階級対立の現状を反映したものであり、その現実は真理と善の両者の変質である。なぜならなぜなら善だけでなく、真理も到達可能でなければならないからである。ただし透見における善は、国家および国民が了解している先験法として示される。そこには諸個人間の調停の実現が前提されており、その前提が無ければ善は不可能である。つまり透見における善は、国家権力の維持を前提にする形で外化する。その善の先験性は、国家の先験性により保証される。このような誤魔化しがあるからこそ、逆に真理は到達不可能なものとして現れる。なぜなら透見において真理を保証するのも、国家だからである。しかし真理の先験性を保証するのは、国家ではない。それは自然が保証するのであり、すなわち神々が保証する。真理に対する国家保証は単なる調停に留まる。そもそも真理は、日々の現実生活の諸局面で行動の現実結果において到達するものである。そうでなければ、真理は世界に存在しない。しかも人間が真理に到達できないのであれば、人間は虚偽にも到達できない。透見の理屈は行動の現実において矛盾している。


9d)富と国家

 神々の掟と人間の掟の対立は、一方で富と国家の対立の形で現れる。国家は外化した人間の掟であるが、それに対して富は神々の掟が外化したものである。なぜなら富は、物財として対象化された人間的自由だからである。したがって富は人間を人間たらしめる現実的条件である。言うなれば富は生命の外化した姿である。富を持たない無産者は人間ではない。端的に言えば無産者は物である。したがって富もまた意識一般に対立しており、意識一般から遊離する限りで国家とも対立する。ヘーゲルにおいて自己否定を知らない個別者は、このような自立した富の人的表現である。それは自己肯定する自己意識の直接態である。自己肯定する自己意識において、富はせいぜい内在的理念に留まっており、自己意識と区別されることも無い。そしてそのような個別者が意識の不幸と徳に通じたとき、その自己否定は自らの富の放棄として現れる。この富の廃棄こそが、富の外化である。すなわち富を外在的現実にするのは、自己否定である。もちろんその自己否定は、意識一般や国家による個別者に対する強制であっても同じことである。いずれの場合であっても、富は個別者の否定の上に成立する。個別者が富の放出を通じて人間的自由を喪失する一方で、富の放出先にはその収奪者が現れる。そして今では収奪者だけが人間的自由を謳歌する。富の人的表現はこの収奪者に移っており、収奪者が国家に対抗する神々の掟を体現するようになる。またそのような富の分散が、国家と異なる自由な自己意識を可能にする。しかし現実には個別者が富を放出する最大の相手は国家である。そして国家専制の確立が国家を最大の収奪者にする。しかし国家専制の確立は、神々の掟と人間の掟の対立の暫定的な調停に留まる。なぜなら二つの掟の完全な結合は、国家の長においてのみ実現しているからである。言い換えるならそれは、目的を実現できるのは王族だけであり、物自体を認識できるのも王族だけであり、幸福と善の一致を知るのも王族だけだと言うことである。二つの掟の分裂のもとにある不幸な意識にとって、目的は遙か彼岸にあり、それを認識することもかなわない。
(2017/08/17)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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