唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(1.発達心理学としての「存在と時間」)

2018-09-23 09:39:05 | ハイデガー存在と時間

1)発達心理学としての「存在と時間」

 ハイデガーは「存在と時間」を存在論として書き、かつ時間論としてそれを展開する。その目論見は、存在と時間、および空間の全体を現存在の実存から導出することにある。この解釈での現存在は、簡単に言えば、現に在るところの人間の個人意識である。したがってそれは、意識の運動に連動して物理的実在が発生し、物体独自の運動が可能となるのを言い表している。当然ながらこの存在解釈は、意識の実在を基本にし、それに派生する形で物体の実在を語る観念論である。しかし現代の日常では、物理的実在を基本にして存在を捉え、それに派生する形で意識の実在を想定する。この存在解釈は「存在と時間」発表に並行する形で20世紀初頭から特に脳神経分野の生物学的および生理学的研究によって検証され、生物進化に先行する生化学進化から想定されてきた。すなわち物体運動に連動して意識が発生し、意識独自の運動が可能となったとのだとそれら諸学はみなす。もちろんそれらがもたらす存在解釈は、唯物論である。そしてハイデガーは、このような存在の事物的解釈を、存在の世俗的解釈だと捉える。ここでの実存論と唯物論の対立は、一方でその実在起源の解釈において深い溝を持ちながら、他方で折衷可能な内容を持つ。それと言うのも、道具を事物に変える理論的態度への転換は、現存在ではなく自然が行うのだとハイデガー自身が「存在と時間」において語っているからである。このハイデガーの唯物論への譲歩は、単独意識の独我論、および共同精神の独我論を回避するためのものだと筆者は見る。しかしこの譲歩はハイデガーの実存論を単なる意識成立に関する発達心理学に変える。と言うよりも、もともとハイデガーの実存論はそのような発達心理学だと解釈した方が判りやすい内容になっている。


2)「存在と時間」における意識の成立

 ハイデガーは、時間や事物および空間の成立を脱自(=時間性)から説明する。時間は意識の先駆的決意を起点にして脱自が時的成熟したものである。そして事物も意識の予期と忘却を通じて道具が頽落したものである。また空間も世の中の有意義全体性が非自己化したものにすぎない。したがって意識は脱自と先駆的決意の両方を起源にする。ないしは脱自と先駆的決意の両方が意識の原型である。脱自が意識の起源または原型であるのは、反省するデカルト的自己が脱自を前提にしているのでまだ判り易い。反省する現在の自己は、反省される過去の自己を脱したものだからである。すなわち反省は、脱自を前提にする。しかし脱自と比べると、先駆的決意が意識の起源または原型であるのは、納得し難い部分もある。まず日常的に先駆は予期であり、次に決意は現存在の投企である。ただし予期も現存在の投企であるのに変わりはない。したがって先駆と決意は投企へと収束する。そして投企は意識が行うものである。予期し投企する現存在が意識の原型であるなら、結果的に意識は在り方として既に意識だと言うことになる。「存在と時間」の記述を見ても、現存在を先駆的決意へと誘うのは不安と良心である。すなわち不安と良心が先駆的決意を規定する。しかし意識の原型が意識であるなら、それは循環でしかない。それゆえにハイデガーは、投げられかつ投企する循環する配慮の在り方を現存在の基体として捉える。唯物論から見るとこのハイデガーの解決は、先駆的決意を人間固有の本能へと転化しただけである。一方でおそらく唯物論でなくとも、哲学の興味はこの本能化した先駆的決意の成立に向かう。またそもそもハイデガー自身が、先駆的決意に続けて脱自論を記述している。ただしその記述構成は、脱自と先駆的決意の両方を意識の基礎に措く二元論的なあいまい決着を露わにするだけである。


3)脱自と先駆的決意

 現存在の日常的な投企は、特段の先駆と決意が無くても、単に現状維持するだけの脱自として行われる。それゆえに投企へと収束した先駆的決意は、さらに脱自へと収束しなければならない。すなわち脱自とは、自らを自由へと投げ込む現存在の投企である。しかし日常的な脱自は、現存在を維持するだけの消極的自由にすぎない。その比較で言うなら、現存在の能力として現れる投企は、現存在の積極的自由である。ここでの先行後続関係は、現存在における投企に対する消極的自由の先行として現れる。人間の基体を成すのは、自由である。しかし消極的自由はエピクロス式自由に見られた物理的偶然に近く、意識による自由の行使と異なる。それはむしろ現存在にとって非本来の受動的物理にすぎない。したがって脱自が自由に先行するのであれば、現存在は最初に自由ではなく、投企を可能にした後、すなわち自由を得た後に人間とならねばいけない。つまりハイデガー時間論は、時間が成熟するために脱自に加えて自由を必要とする。それゆえに上記のことを逆に言えば、現存在は自由を得るまで時間を知り得ない。これらの事象の先行後続関係をまとめるなら、次のようになる。


 [脱自が先駆的決意に先行する場合]
   脱自 → 投企 → 先駆と決意 → 反省する自己・時間・空間

この捉え方では、脱自における現状維持するだけの投企は、知らぬ間に先駆と決意へと化ける。すなわち非本来の受動的物理が、知らぬ間に本来の能動的意識、すなわち意志へと化けている。投企を意識の能動とするなら、物理の受動的な投企は、能動性をどこからか入手しなければいけない。それゆえに先駆的決意は脱自に並行して、意識の起源または原型でなければいけない。ハイデガー式に言うなら、先駆的決意と脱自は等根源的に意識の起点でなければいけない。そこでむしろ先駆的決意が脱自を実現すると考え、先駆的決意こそが意識の起源または原型だと扱うと、事象の先行後続関係は次のようになる。


 [先駆的決意が脱自に先行する場合]
   投企 → 先駆と決意 → 脱自 → 反省する自己・時間・空間

上記の先行後続関係は、脱自に対する積極的自由の先行として現れる。自由は脱自に先行しているので、この現存在は最初から自由である。最初から自由な現存在は、同じように最初から時間を知り得る。この場合に脱自は、そのまま現存在が自ら成熟させた時間として現れる。反省する自己を含めて日常的な時間、および空間は、この脱自から派生する。このように見ると、ハイデガー時間論の説明にとってすれば、むしろ先駆的決意を脱自に先行させた方が辻褄を合わせやすい。ただしこれでは、脱自から時間の成立を説明しようとするハイデガーの目論見と異なってしまう。


4)脱自と投企における時間論のジレンマ

 そもそも脱自だけでは時間は成熟しない。それゆえにハイデガーは先駆的決意から時間を説明せざるを得ない。しかしそれでは、脱自が現存在の決意を可能にするのではなく、現存在の決意が脱自を可能にすることになる。それは、現存在の決意が現存在の決意を可能にする循環論へと落ち込む。結局その循環論を避けるためにハイデガーは、脱自から時間を説明する。その場合に問題となるのは、脱自から先駆的決意が生成する理屈である。先駆的決意が生成しなければ、やはり時間は成熟しない。決意の循環論は時間論そのものを循環させる。しかもどのように順序を変えても、この意識の積極的自由の由来は謎のままに留まる。その謎は、脱自を先行させれば物理が意識へと知らぬ間に転換する点に現れ、先駆的決意を先行させれば投企がもともと現存在の能力に備わっている点に現れるからである。ハイデガーはそもそも脱自を投企として捉え、到来させる予期、および保有する既在として説明する。そのことは、ハイデガーが脱自に先駆的決意を盛り込むことで循環の解決を図っていることを示す。この場合、先駆的決意もそれらの現成にすぎず、脱自と投企は最初から分離していない。したがってハイデガーは、脱自を現存在の自由、それも消極的自由ではなく、積極的自由だと考えていることになる。もちろんそうであれば、意識は脱自を止めることもできそうである。しかしそれは本当の可能なのだろうか? それにしてもなぜハイデガーは物理的な脱自を意識の積極的自由と一体化させるのか? おそらくそれは、実存論と唯物論の区別化を謀るためである。それと言うのも、物理的な脱自が意志を生成する考え方はそもそも唯物論だからである。もしハイデガーが唯物論を避けようとするなら、物理的脱自を初めから意識の積極的自由に扱わざるを得ない。結果的に意識は脱自から生成するまでもなく、脱自の前からもともと意識だったことになる。一方で物理から意識が生まれたと考える唯物論なら、この物理的脱自の意志への転換をどのように捉えるのであろうか?


5)物理から意志へ

 媒介を排除して意識を組み立てるシェリングの直観主義を批判するヘーゲルに倣って、マルクスは最初にW(商品)→G(貨幣)→W(商品)の最初の商品循環を組み立てる。それは商品における貨幣を通じた商品の自己認識である。商品は貨幣を通じて自らの価値量を知る。ただしこの商品循環は物体運動の連鎖にすぎない。要するにそれは単なる物理運動である。次にマルクスは循環の主体を商品から貨幣に変えて、商品循環をG(貨幣)→W(商品)→G(貨幣)の資本循環に組み替える。もちろんそれはW→G→W→G…と続く商品循環の始まりの商品を除外してG→W→G…にしただけのものである。先の商品循環は物理的運動に過ぎないだけの意識の消極的運動であった。しかし今度の資本循環は物理的運動ではなく意識の積極的運動である。なぜなら商品循環における商品は貨幣にならざるを得ないのに対し、資本循環における貨幣は、好きな商品に自らを転化できるからである。その貨幣が持つ自由は、貨幣所有者における商品交換の自由に等しい。その変化は、循環する商品交換の起点になる主体の変化に依拠する。結果的に資本循環では、商品循環が持っていた物理性は失われる。もちろん商品循環における商品所有者にも、商品を交換しない選択肢、または貨幣以外の商品との交換の選択肢もある。しかしその限定された自由は、商品を貨幣に転化した場合に得られる自由に比べれば不自由に等しい。ここでの貨幣が持つ自由は、貨幣の物理属性、具体的に言えば不朽性や分割合成可能性などに規定されている。またその物理属性が商品所有者に対し、商品を貨幣に交換させる強力な誘因になっている。このために商品交換において自由を体現するのは、人間ではなく貨幣となる。むしろ資本循環において自由なのは、貨幣だけである。人間はその貨幣に従属する不自由な下僕にすぎない。なるほど貨幣所有者は自由な交換を行う自らの自由を確信する。しかしそれは自らの恣意を可能にする貨幣の特性に従っているだけであり、錯覚である。投げられた石は、自ら空を飛ぶ自由な意思を持つと思うかもしれない。しかしそれは錯覚である。ただしこの錯覚は自律可能な錯覚でもある。なぜなら既に錯覚は、錯覚を可能にした物理と区別されているからである。実体としての物理は、既に新たな実体として意志を生んでいる。


6)脱自から投企へ

 ハイデガーにおけるD(脱自)→T(投企)→D(脱自)の循環は、投げられた現存在が投企する現存在の被投的投企の在り方でもある。この在り方では、物理的脱自に挟まれる形で現存在の意識が現れる。そして脱自した現存在は、意識において自己を反省する。すなわちこの循環は、D(物理)→T(意志)→D(物理)の循環でもある。ただしハイデガーは、脱自を物理ではなく意志にまで格上げしたので、結果的に脱自と投企の間に差異が無い。すなわちハイデガーの循環の実際の姿は、その記述順序に反し、TD→T→Dであり、その内実はT(投企)→D(脱自)→T(投企)である。もともとT→D→T…の循環は、D→T→D→T…の循環の始まりの脱自を除外するならすぐに得られる。そしてその循環が始まりの脱自を忘却するなら、その循環は意識の積極的自由が時空を派生する観念論へと転化する。そこでの始まりの脱自(=時間性)は、脱自の姿をした先駆的決意である。この循環の姿は、D→T→Dで時間発生を説明しようとするハイデガーの目論見と既に異なっている。もともと現存在は、脱自において一切の過去から切り離されて自由へと放り出されている。ただしその自由は単に自由なだけの消極的自由、または物理的偶然にすぎないエピクロス的自由である。ここでの積極的自由としての投企は、現存在が自ら進むべき方向を意志しなければ、現状の持続をするだけのものとして現れる。その場合の時間的循環は、D→T→Dではなく、実際にはD→Dである。したがって自ら進むべき方向の意志は、どのように発生するのかがここで問題となる。マルクスにおけるW-Wの商品循環のW-G-Wへの転化は、G(貨幣)の物理特性が大きな役割を果していた。D→DからD→T→Dへの転化でも、同様の役割を果たすものが現存在に対して必要とされている。ここでハイデガー式に不安や決意を現存在の本能として無造作に立てるのは、問題の隠蔽である。それは意識の起源を先験の彼岸に追いやったカント式のやり方である。


7)物理・生命・意識

 さしあたり脱自と投企における自由の比較を言えば、脱自の無方向な自由に対して、投企の自由は自己限定されたものである。脱自の無方向な自由は、現存在に対して物理からの離脱の錯覚を与える。この錯覚を規定するのは、離脱の自由が持つ物理属性、具体的に言えばそれは自由の不朽性や分割合成可能性などである。もちろんそれは意識の物理属性でもある。したがってこの物理属性は、現存在に対し自らを意識として自覚させる強力な誘因になる。現存在における自らを物体ではなく意識だとする自覚は、ここに始まると言って良い。ただしこの錯覚が現存在に自らを物体ではないと自覚させ、さらに意識と物体の区別をもたらすのは、もっと後の話である。なにしろ脱自するのは現存在だけではなく、全ての存在者が脱自しているからである。脱自の自由はそのまま存在者を意識にするわけではない。現存在を意識にするのは、やはり投企の自由である。一方で投企において自由に限定を与えるのは現存在である。現存在が意識であるためには、現存在にそのような限定を行うだけの能力が無ければならない。しかしそのような能力が意志であるなら、現存在は最初から意識であり、最初から先駆的決意をしていることになる。結果的に先に見たジレンマは、ここでも再浮上する。しかしもし意識が物体と等根源的に現れるなら、または意識が物体に先行して現れるなら、投企もまた全ての存在者に見られる事象だと言うことになる。なるほど投企する能力が現存在固有のものでもないのは、他の存在者を見てもうなづけそうな話である。生物は日々の生活を営み、無機物も化学反応をする。したがって意識は物体と等根源的に既にあり、投企も脱自と等根源的に既に行われていたかのようである。しかしここまでハイデガー式に考えたところで、思考は踏みとどまらざるを得ない。なぜなら無機物の化学反応は無機物の意志ではないし、生物における生活を営みも化学反応のごとき本能に従っている。ハイデガーは先駆的決意の時間性を予期と保有で説明した。予期と保有が現存在に未来と過去をもたらし、現存在に日常的時間を成熟させるのである。このような時間は、少なくとも無機物にとって無用な能力である。なぜなら無機物は生きていないからである。このようなことでD→DをD→T→Dに転化させ、現存在に意志をもたらす現存在の物理特性も見えて来る。すなわちそれは現存在の生きた肉体である。しかもその肉体は、現存在に予期と保有を可能にするような特殊な肉体である。ただし現存在は脱自において肉体から常に離脱する。それゆえに現存在は自らを肉体と異なる意識だと錯覚する。この肉体と意識の分断が現存在に対し、自らの意志する能力の由来を謎にさせている。この分断は脱自において発生している。それは過去と現在の分断、さらに言えば志向対象と志向作用の分断である。しかしこの分断が無ければ思考は成立しない。肉体と意識の分断は思考の必然になっている。


8)意志・本能・化学反応

 現存在の無方向な自由を可能にするのは脱自であり、現存在の限定された自由を実現にするのは肉体である。したがって脱自と肉体の二つの材料が揃って、現存在の投企は可能になる。しかし材料が揃えば現存在の投企が始まるわけではない。それらは投企を実現するための前提や道具であり、投企そのものではないからである。言い換えれば、それらは物理的前提に過ぎず、意志ではないからである。一方で現存在の意志は、明確に目的を目指す場合もあれば、苦痛な現状からの逃避の場合もあるし、特にこだわりの理由も無い偶然な恣意の場合もある。それらの意志は、目的の明確さが弱いほど本能的欲求、さらには単なる化学反応と近くなる。このことを逆に言えば、意志とは無機物にも見られる化学反応の特異な形態にすぎない。あるいは、意志とは各種の環境条件に応じて複雑な経路で発露した化学反応だと言い得る。ただしそのような化学反応の成立は、生化学や生物学などの研究対象であり、ここでの検討の対象外である。ここで問題とするのは、化学反応と意志の間に現れる物理と意識のギャップである。意志として現れるこの化学反応は、反応する自己自身を作用対象にし、その作用対象を作用としての自らと区別する。物理と意識のギャップはここで既に始まっている。さらにこの化学反応は自らの自由を確信しており、また自律するが故に、自らを物理と区別する。その自由の確信を支えるのは、脱自における消極的自由、および作用として現れた投企における積極的自由である。ただし化学反応における消極的自由と積極的自由は、実際にはいずれも単なる物理であり、意識ではない。化学反応における意識の如き物理は、あたかも自由において化学反応をしていると言う錯覚を持つかもしれない。しかしそれは錯覚である。


9)意志の成立

 ヘーゲル「精神現象学」での始まりの生命は、自己自身に喰いつくだけの自己である。この喰いつきは認識の端緒であり、食欲であるだけでなく知欲そのものである。その始まりの生命は、食餌対象に限らず、光も音も全て喰いつきの対象にする。つまりその生命は、自己自身としての世界に喰いつく自己である。当然ながらデカルト的な自己自身を反省する自己も、ヘーゲルにおいては世界に喰いつく精神として始まっている。この本能的な喰い付きは、それを化学反応として見れば、単なる物理でしかない。それが単なる物理を超え出て、化学反応を意志にするためには、化学反応の自律を必要とする。すなわち化学反応が先行事象に従うだけの作用を脱し、自らの恣意的反応を実現することで、ようやく化学反応は意志となる。そうでなければ化学反応は先行する運動の持続、ないしはその特異な発露形態に留まる。化学反応が意志となる方法は、二つある。一つは化学反応が先行事象の影響を自ら遮断することである。一見するとこのような外界刺激からの自己遮断は、化学反応の自律を既に表現しているように見える。そうだとすれば、自律をするために自律を前提する循環が起きてしまう。それゆえにそのような遮断は、偶然に化学反応が遮断を特異な発露形態の一つに加える場合に起きなければいけない。ただしその特異な発露形態の発生は、偶然を装いながら実際には必然であるかもしれない。一度の雷は偶然だが、連続する雷は原始大気における有機物の生成を必然にするようにである。二つ目は化学反応が先行事象の影響を自ら遮断するまでもなく、外界刺激が消失することである。外的誘因が消失すれば、化学反応に残るのは自律だけである。この外的刺激の消失は、偶然に外的刺激が消失するか、または偶然に化学反応が外的刺激を消失させるような特異な発露形態を持つ場合に起きる。自由の実現方法における前者の外的刺激の自己遮蔽は、化学反応自らの宗教的自覚であり、自己否定や判断停止などの観念論的方法である。そして後者の外的刺激の消失は、化学反応による外界への物理的働きかけであるか、本当に偶然な出来事である。それは科学にもとづく唯物論的方法である。いずれにおいても自由の実現は化学反応の自律をもたらし、化学反応を意志にする。その場合に化学反応における自由の錯覚は、本物の自由の自覚になる。


10)日常的時間と脱自に関する時間論のジレンマ

 脱自が過去と現在の分断であり、志向対象と志向作用の分断であるなら、その分断は、何らかの形式に従う対象の区別である。ただしそれが過去と現在の分断であるなら、脱自は既に時間内の出来事になってしまう。その場合、時間内における脱自から時間を成熟させる試みは、最初から頓挫せざるを得ない。そうであるなら、脱自とはただ単に志向対象と志向作用の分断である。しかし時間軸が不在の中で二者を区別するなら、自ずとそれは空間的であるように見える。もちろん過去と現在は同一空間に並存しない。それらは意識の内における此岸と彼岸としてのみ並存する。そのような並存は、意識における過去の保有を前提にするかのようである。そしてその前提は再び決意を脱自に先行させるジレンマに引き戻す。しかしこの場合に意識における過去の保有は不要である。なぜなら視覚を通して眼前に現れる肉体は、同じ現瞬間において現れた現存在の過去だからである。意識は既に肉体を離脱しており、なおかつ離脱された肉体は眼前にあり、ともに同じ現瞬間に現れている。したがって再び決意を脱自に先行させる必要も無い。決意が無くとも、すなわち意識が無くとも、現存在は脱自し得ており、その脱自の自由において現存在は投企し得る。もちろんその投企を可能にし、また必然たらしめるのは、現存在の生きた肉体である。肉体のある現存在だけが投企し得るし、また投企を必要とする。このことは、ヘーゲルのように時間を空間が基礎づけるように見える。また筆者もそのように考える。しかしハイデガーのように空間を時間によって基礎づけようとするのも不可能ではない。ただしその場合に空間を基礎づけるのは、時間ではなく時間性であり、すなわち脱自である。しかしそれは上記で述べたように時間的である必要はなく、空間的でもある。むしろ時間性としての脱自は時間と空間のどちらかではなく、両方の原型になっている。そのように考えるなら、結局ヘーゲルもハイデガーも同じことを別様に述べただけに終わる。
(2018/09/23)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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