唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第2編第2章 良心と決意)

2018-08-28 07:09:12 | ハイデガー存在と時間

 前章において実在を実存の派生態に扱ったハイデガーは、さらに存在の意味を捉える前置きとして、次に死の先駆と別系統の実存を語る。それは自己を喪失した自らの非を責め立てる良心が喚起する決意である。ここでは脱自(=時間性)として結論される存在の意味解釈に先駆けて、先験的に可能な実存の姿の洗い出しを試みる第2編第2章を概観する。


[第2編 第2章の概要]

 現存在に実存を決意させる良心の声は、原体験的実存が世俗的自己に語る沈黙の声である。それは、世俗が安寧する逃避を全て無力にし、世俗的自己を実存へと引き戻す。この良心の声を基礎づけているのは、現存在の配慮に先んじて配慮する在り方である。すなわち良心の声とは、配慮する現存在の自らを配慮する声である。それゆえにハイデガーは、主観的良心こそが良心の本来の姿だと考える。良心が現存在に自覚させる責めは、投げられつつ投企する自らの不完全性である。現存在の不完全の自覚は、配慮に先んじて配慮する現存在の在り方に従う。配慮の呼びかけが、本来性を喪失した日常的現存在に対し、自己固有の在り方を開示する。その開示において日常的現存在の自己喪失、さらに本来にも非本来にも可能な自由は、現存在の抱える責めとして現れる。ただしハイデガーは責めが良心を規定するのではなく、良心が責めを規定するとみなす。また法秩序や人倫における責任や罪が現存在自らの責めを規定するのではなく、逆に現存在自らの責めが公共的な責任や罪を規定するのだと考える。本来的現存在の自らの責めを了解した自己固有の在り方は、良心を持とうと欲する先験的在り方である。それは情念においては良心を受容する不安であり、了解においては自らの原体験に根ざす自由な在り方への投企であり、語りにおいて自らの分節化を拒否した沈黙である。このように開示された現存在の実存する在り方を、ハイデガーは決意と呼ぶ。決意する現存在は何者にも規定されず、真理ならぬものさえ我がものとする絶対自由を得ている。その投企は自ら世の中と空間を状況として開示する。



1)世俗に対して実存を呼びかける良心

 現存在が実存し得るかどうかとは、現存在が世俗としての日常的在り方を自己本来化し得るかどうかである。ただしそのためには、現存在の決意が求められる。そして現存在がそのように決意するためには、現存在は自己の本来をあらかじめ見い出していなければならない。世俗において現存在に自己の本来を見い出させる役割は、良心が果たす。それは、もっぱら呼びかけや仄めかしとして現れる現存在の語りである。ただし内容のある呼びかけや仄めかしは、もっぱら空談に留まる。良心の語りは、現存在自身の原体験的実存が世俗的自己に語る沈黙の声である。その声は世俗が安寧する逃避を全て無力にし、世俗的自己を実存へと引き戻す。この自己による自己への語りを基礎づけているのは、現存在の配慮に先んじて配慮する在り方である。すなわち良心の声とは、配慮する現存在の自らを配慮する声である。現存在の自己本来化は、良心を通じて初めて可能となる。現存在の在り方に対する過小評価は、良心を世俗の公共的良心に従属させる。なるほど公共的良心は主観的良心を許容すべきである。しかしその許容は、世界精神の出現への期待と失望に逡巡した妥協に過ぎず、世界精神に対する信頼も結局ゆるいでいない。この曖昧な態度に対し、ハイデガーは良心の主観性にむしろ良心の本来を見出す。


2)現存在の抱える責め

 良心は、現存在に自己固有の自らに責めある在り方を覚醒させる。その現存在が抱える責めとは、現存在の有限性であり、非力である。それが現すのは、投げられつつ投企する現存在の不完全性である。ところが現存在の原体験的実存は事物的欠落と無縁であり、したがって現存在はもともと有限性や非力、さらに不完全とも無縁である。その現存在が自らの不完全に覚醒するのは、配慮に先んじて配慮する現存在の在り方に従う。配慮が呼びかける相手は日常的現存在である。日常的現存在は自己の喪失において本来性を欠落している。その非本来に対して良心は、自己固有の在り方をが呼びかける。ここに至って露呈するのは、日常的現存在の自己喪失、さらに本来にも非本来にも可能な自由が現存在の抱える責めとして現れることである。良心は、その自己固有性において本来的な配慮として現れる。一見するとこのことは、責めが良心を規定するように見える。しかしこの見方に対し、ハイデガーは責めが良心を規定するのではなく、良心が責めを規定するとみなす。またさらにハイデガーは、法秩序や人倫における責任や罪が現存在自らの責めを規定するのではなく、逆に現存在自らの責めが公共的な責任や罪を規定すると考えている。


3)良心を持とうとする決意

 現存在の本来的在り方は、自らの責めを了解した自己固有の在り方である。それは良心を持とうと欲する在り方である。その在り方は現存在の本来に規定された先験的在り方なので、世俗や物理さらに宗教に従う取引的良心と区別され、カント式の先験定言として現れる。良心による現存在の実存開示は、情念においては良心を受容する不安として現れ、了解においては自らの原体験に根ざす自由な在り方への投企として現れ、語りにおいて自らの分節化を拒否した沈黙として現れる。このように開示された現存在の実存する在り方を、ハイデガーは決意と呼ぶ。ただしこの決意は現存在固有の自由が規定する在り方である。したがってハイデガーも認める通り、決意する現存在は何者にも規定されず、真理ならぬものさえ我がものとする絶対自由を得ている。それゆえに決意する現存在の自由な投企は、世俗世界や物理空間にも規定されない。その投企は自ら世の中と空間を構成し、現存在はそれを状況として開示する。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第2編3章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第2編1章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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