唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(3.時間論としての「存在と時間」(2))

2019-03-07 21:48:07 | ハイデガー存在と時間

1)ハイデガー時間論の目論見

 ハイデガーにおいて時間と時間性の関係は、空間と環境世界の関係であり、それはさらに客観と主観の関係、そして一般と個別の関係になっている。当然ながら物体と意識の関係も、これらの関係に準じると予想される。そしていずれにおいても、前者は後者から派生すると考えられている。意識の発達を考えた場合、不明瞭な時空間が先行して主観として現れ、それが客観的な時空間に転じると考えるのは、もっともな想定である。「存在と時間」においてハイデガーはこの前者が後者から派生する理屈を、空間と環境世界の関係の解釈から始める。その解釈ではフッサール式プラグマティズムに従い、主観的空間を有意義性全体として捉え、その意義の脱落において客観的空間を現わす。さしあたりそこでの対象からの意義の脱落は、現存在における本来性忘却によって引き起こされる。すなわち無意義空間とは環境世界の抜け殻であり、その無意義化は現存在における対象の怠慢な意義把握によりもたらされる。ただしここでのハイデガーは、知覚の始まりにおいて無意義な延長が既に現れているのを無視している。それはハイデガーにとって不都合な真実だからである。そもそもこの始まりにおける無意義な延長に対して現存在の怠慢を見い出そうとするのは無理がある。一方でハイデガーが進むのは、この主観的空間から客観的空間への派生関係の時間的転用である。すなわち客観的空間が主観的空間から派生するように、客観的時間は主観的時間から派生すると考えられている。当然ながら主観的空間に対して有意義全体性が割り当てられたように、主観的時間に対してもなんらかの時間のプラグマティックな表現が割り当てられなければいけない。ハイデガーにおいて現存在の実存への脱自は、この主観的時間に対応するプラグマティックな時間に対応している。またハイデガー実存論のそもそも織り込み済みの目論見も、時間の有意義性として実存を示すことにある。ハイデガーではこの実存への脱自に基礎づけられた時間こそが、有意義全体性としての主観的空間を基礎づける。


2)ハイデガー時間論の混乱

 ハイデガーは空間論と同じ図式で時間論を組み立てる。そこでは本来の時間、すなわち主観的時間は、現存在の実存への脱自として捉えられ、その実存の脱落において客観的時間が現われる。そしてここでの対象からの意義の脱落を引き起こすのは、客観的空間が現れたときと同様に、現存在における本来性忘却である。その本来性忘却は、より実存的表現において空談・好奇心・曖昧などの頽落として表現される。すなわち無意義時間とは脱自の抜け殻であり、その無意義化もやはり現存在における時間の怠慢な意義把握によりもたらされる。有意義な時間はこれらの頽落の対極に現れなければいけない。そしてそれが本来の時間であるなら、その有意義性は無意義な時間を本来の時間たらしめる意味で、時間の時間性として現れるはずである。ハイデガーはこのような時間性に現存在の決意を見出す。決意が現存在に対し、自らの過去を引き受けた未来を露わにし、現存在を現瞬間の実存に導く。かくして決意は、無意義な時間を本来の時間たらしめる時間性だと示される。しかし既に本来の時間とは、現存在の脱自として示されている。そして時間性とは、本来の時間だとハイデガーは述べている。そうであるなら時間性は、現存在の脱自でなければいけない。この結果が先の記事でも見たハイデガーにおける時間性の決意と脱自の二義性となる。この時間性の二義性は、反省する現存在における無意義な時間経過の先行を露わにする。無意義な時間経過が無ければ、それを本来化する時間性は役割を持たないからである。ところがこの時間性が客観的時間を必要とする役割順序は、客観的時間を時間性から導出しようとするハイデガーの目論見に逆らう。またそもそも時間経過に現存在の決意は不要である。もちろん無意義な時間とは、知覚の始まりにおいて無意義な延長が既に現れていたのを、時間において再現したものにすぎない。しかしこのことにおいてハイデガー時間論を全くの虚妄として切り捨てるのはもったいない話である。求められているのは客観的時間がいかにして主観的時間に潜り込み、そして主観的時間が客観的時間を派生するかの時間論理の発達についての心理的説明だからである。そして決意において時間の意義が露呈することは、時間が持つ意義においてやはり正当な説明だからである。とは言えハイデガー時間論を見直すにしても、その時間論の何が問題だったのかをはっきりさせる必要がある。


3)ハイデガー時間論の概略

 ハイデガーにおいて現存在を本来化させ、脱自をもたらすのは決意である。現存在は自らの有限性を投げられた過去として引き受け、決意において自らを投企する。それゆえに決意は現存在の未来を成す。脱自はその決意の現成である。キェルケゴールの場合、この決意を醸成するのは現存在の絶望であった。しかしハイデガーにとって決意を醸成するのは現存在の不安である。それは現存在の未来に対する情念であり、絶望のような過去に対する情念ではない。またそれは、現存在の自由が情念において現れたものとされている。一方で自由は人間の存在を成す。それゆえに不安は恒常的な情念だとみなされる。ところが実際の現存在は、恒常的に決意をしない。しかし決意の非恒常性は時間の恒常性に反する。この決意の欠けた現在にハイデガーは頽落を充当する。すなわち頽落は、恒常的不安がもたらす現存在のもう一つの時間性になっている。現存在は頽落において不安と決意を忘れ、それから逃避する。それは現存在の非本来の自己を現成させ、現存在を非本来化させる。そしてその非本来化は、やはり脱自である。しかしその脱自は非本来であり、それゆえに現存在は時間に巻き込まれ、その中に落ち込む。またそれゆえにこの非本来の脱自は頽落と呼ばれる。ハイデガーにおける本来の自己すなわち実存は、キェルゴールの考える実存と同様に、時間の中に落ち込むことの無い、無時間的自己だからである。もともとキェルケゴールにおいて示された精神の脱自は、古い精神が自らを脱して新しい精神に生まれ変わる人間意識の運動である。キェルケゴールはことさらにこの運動を時間論として組み立てていない。しかしハイデガーは、この精神の生まれ変わりに着目し、それを時間論へとシフトする。すなわち精神の脱自が、人間意識における時間推移の原型なのだと解釈し、その変異の理屈を時間論として構築した。それがハイデガーの「存在と時間」である。さしあたり精神の生まれ変わりにおいて、精神の自己が目指す実存は未来であり、その脱ぎ捨てた古い自己は過去であり、新しく生まれ変わった自己は現在である。脱自において役割を果たしたそれぞれの自己は、時間推移の未来と過去と現在のそれぞれに対応する。


4)頽落と絶望

 もともと根源的情念として不安を擁立したのはキェルケゴールである。ところがキェルケゴールは、決意をもたらす恒常的な情念から不安を排除し、代わりに絶望をその場に鎮座した。ただしその情念は、啓示をもたらす限界状況として具体的な姿で現れる。したがってその絶望の恒常性は、過去の恒常性に等しい。すなわち過去がある限り、時間は恒常的である。一方でハイデガーは、キェルケゴールにおいて精神を突き動かす絶望を単純に人間意識の有限性の自覚に一般化し、自らの死の自覚へと特化する。しかしハイデガーは、頽落する現存在が死の自覚を関知しないと考えている。そのことはハイデガーにとって恒常的な情念が、絶望ではなく不安であるのを露呈する。そこには過去が現在と未来を規定する実在論的因果に対するハイデガーの不満も見え隠れする。それゆえにハイデガーは、キェルケゴール弁証法で役割を放棄させられた不安を復活させ、それを精神を突き動かす役割にあてがう。このことから時間性が決意と頽落の二分離に帰結したのは、先に述べたとおりである。しかし不安に対する忘却や逃避は、それはそれで現存在にとって一つの決意である。そしてそれが一つの決意であるからこそ、その忘却や逃避において現存在は脱自する。しかし頽落が決意であれば、現存在の在り方における本来と非本来の区別、すなわちそもそもの両者の区別が失われてしまう。それゆえに本来の決意に対して頽落における決意は、決意をしない決意として区別されなければいけない。もちろん決意をしない決意であっても、それは決意であっては困る。したがって頽落には、決意の完全な欠落が要求される。ところがそれは、頽落が純粋な脱自であり、単なる時間経過にすぎないことを暴露する。もちろんその時間経過に決意は不要である。このように決意と頽落がもたらす脱自は、それぞれに現れ方が異なる。決意の脱自は、決意のタイミングにおいて非恒常的に現存在を現瞬間に脱自させる。端的に言えば、決意こそが脱自そのものである。しかし頽落の脱自は、恒常的に現存在が今へと逃避する日常的時間である。時間の恒常性から言えば、この時間性における決意と頽落のダブルスタンダードで、脱自の基本的在り方に現れるのは頽落である。一方で頽落を規定するのは決意の不在である。しかし不在と言う逆向きの規定であるにせよ、頽落は決意に規定されてもいる。決意と頽落の二つの脱自の分裂は、ハイデガー時間論に対し、決意が脱自をもたらすのか、脱自が決意をもたらすのかの選択を突きつける。


5)実存主義における時間の基本的な図式表現

 実存主義における時間は、脱自する自己と脱自した自己の二者の間隙として現れる。日常的な時間表現で言えば、人間意識の脱自先は未来であり、その脱自元が現在である。脱自する自己にとっての脱自先は、実存する充実した自己である。一方で脱自した自己にとっての脱自元は、実存していない卑小な自己である。日常的な時間表現で言えば、人間意識の脱自元は過去であり、その脱自先が現在である。そのような人間意識の脱自の動きを図柄にすると、次のようになる。

  (実存)←←←←←←←脱自←←←←←←(非実存)
   未来     現在     過去

この脱自の流れが時間経過の元の姿であるなら、脱自は本来の時間である。それは時間を時間たらしめるものであり、時間の時間性を成す。したがって時間とは脱自の派生態であり、脱自が一般化して抽象化し、さらには時系列に現れる累算可能な存在者に転化した姿だと理解される。しかし脱自の理想は、非本来的自己から本来的自己への脱自であり、その逆ではない。ところが本来的自己から非本来的自己への脱自は、不可能ではないし、むしろそれは日常的に起きている。しかも本来的自己から非本来的自己への脱自が無ければ、非本来的自己から本来的自己への脱自も、本来的自己にはもうできない。そうであれば時間経過の実現において、むしろ本来的自己から非本来的自己への脱自は、非本来的自己から本来的自己への脱自と同等にその発生を期待される。もし本来的自己から非本来的自己への脱自が無ければ、本来的自己の実現において時間が停止してしまうからである。その場合に恒常的な時間経過は一体何なのかが問われることになる。これらの疑問は、本来の時間から日常的時間がどのように派生するのか、すなわち時間性から時間がどのように派生するのかへの疑問に等しい。この一般的解決を図るためにハイデガーはキェルケゴールを離れて頽落概念を使用する。ただしハイデガーがキェルケゴールを離れるのは、もっと別の理由に従う。それは、キェルケゴール式人生行路だと自我の同一性が失われ、現象学的純粋自我が損壊するからである。キェルケゴールにおいて脱自した古い自我にとっての本来的自己は、新しい自我にとっての非本来的自己であり、古い自我と新しい自我との間の同一性は失われる。また本来的自己から本来的自己への脱自の容認は、本来的自己の本来性も損壊する。そこには本来的自己の量的な登場が、本来性の質的変化をもたらす様が現れている。当然それは弁証法の復活に繋がり、ドイツ観念論における神の視点を復活させる。弁証法を非合理とみなすハイデガーにとって、時間論における頽落概念の登場は、弁証法の復活を防ぐ上での必然になっている。


6)頽落概念の時間論的役割

 時間経過の恒常的実現を説明する上で求められるのは、本来的自己から非本来的自己への脱自であり、すなわち頽落である。それは本来の脱自と異なるが、本来の脱自とともに現存在の時間性を構成し、本来の脱自が関与しない現存在の時間経過を実現する。それは本来的自己から非本来的自己への脱自に留まらず、非本来的自己から非本来的自己への脱自としても存続する。そこでの時間経過は、現在における脱自の足踏みであり、現存在における今の連続である。そして頽落する現存在の脱自先は、実存ではなく非実存である。基本的にその図柄は、出発点と目標が逆転しただけで、理想的な現存在の脱自の図柄と変わらない。すなわち頽落したからと言って現存在は過去に戻ったりしない。

  (非実存)←←←←←←頽落←←←←←←(実存/非実存)
   未来      現在     過去

本来の脱自に並んで頽落が現れることで、現存在の恒常的な時間経過は可能となる。しかし頽落とは言え、現存在の未来に非実存が現れるのは妙である。現存在が非実存を目指して脱自するなら、非実存にはなんらかの本来性があるはずである。そこでハイデガーは本来の脱自における本来性の抽出を考えざるを得ない。頽落が本来の脱自と区別されるのは、その本来性の欠如においてである。そしてハイデガーは決意に本来の脱自の本来性を見出す。これにより頽落は決意の欠けた脱自だとみなされ、そもそもの脱自から排除される。すなわち頽落は、未来を目指さない。頽落が目指すのは、今である。このようにハイデガーは現存在の日常性分析において頽落を語り、そこから本来と非本来の区別を通じて決意を語る。頽落と決意は車の両輪となって現存在の時間を構成する。しかし頽落が頽落たり得るためには、あらかじめ現存在の在り方についての本来と非本来の区別が先行しなければならない。またそのために「存在と時間」は、環境世界と空間についての分析を先行させていた。しかし環境世界と空間の区分も結局のところ本来と非本来の区別に従い、それについての分析は現存在の時間分析に委ねられたはずである。論証は循環しており、ハイデガーも循環が現存在の在り方なのだと説明する。とは言え、なるほどそうであるとしても、循環の起点を明らかにする必要は残る。


7)ハイデガー時間論における時間の図式表現

 決意する脱自と頽落の二種類の脱自は統一されなければいけない。両者の図柄を統一すると、さしあたり次のようになる。

            ┌→頽落→→→→→→→┐
            ↑       ↓
  (実存)←←←←決意←←┴←←←←←←←←(非実存/実存)
   未来      現在      過去

実存ないし非実存を自らの過去とする現存在は、決意において未来の実存を目指すか、頽落において既に過去となった今の非実存を反復する。キェルケゴール式の実存主義では、現存在が脱自において実存に到達すれば、その現成する現瞬間に永遠が開けて時間の流れが停まる。停止した時間の流れが再び動き出すのは、到達した実存が絶望において虚妄に変わるのを待つ必要がある。ただしその変化には、頽落のような現存在の構造的法則性は無い。絶望は啓示であり、現存在の構造に根差した不安と異なるからである。これに対してハイデガーは、時間の流れがそのまま止まることを許さず、再び現存在を日常の頽落へとひたすらに投げ込む。結果的に現存在にとって未来の実存は、実際には到達不可能な努力目標となる。その努力目標は、到達したと思いきや逃げ水の如く未来に消える。そこに現れる現存在の姿は、目の前にぶら下げられたニンジンをひたすら追いかける馬である。つまり現存在の現在において救済は永遠に果たされない。現存在から未来に進むルートは封鎖され、代わりに暫定的な実存が過去に措かれる。そしてその実存を到来させるのは、現存在の決意である。ただし決意と頽落がもたらす現存在の実存と非実存は、現存在の既在となった上で現存在に現成する。未来・現在・過去の時間の状態的表現は、到来・現成・既在の時間の遷移的表現に置換される。これにより過去から未来に進む日常的時間像は、到来と既在に押し上げられて現成する現存在の時間像に置換される。その時間像は、先頭に現存在の現在を乗せて過去と未来を尾に引きながら実存に向かう彗星のような姿をしている。

           ┌→決意→→→→→→→→→→→→→┐
         到来↑┌→頽落→→→→→→→┐既在 ↓既在
           ↑↑       ↓   ↓
  (実存)・・・・・・・・・現成←←←←←←←←(非実存/実存)
(2019/03/07) 続く⇒(時間論としての「存在と時間」(3)) 前の記事⇒(時間論としての「存在と時間」(1))


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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