唯物論者

唯物論の再構築

唯物論4(超越論)

2012-01-23 00:39:08 | 唯物論

 物質は意識の他在である。唯物論では、この物質を認識の根源的な基礎として扱う。五感の対象を基礎づけるのが物質なのはもちろんとして、悟性の対象を規定するのもやはり物質である。さらに純粋悟性概念としての量・質・関係・様態、または直観の純粋形式としての時空間、存在などの理性概念、はたまた創作概念としての神や魔物のような観念を根源的に規定するのも、唯物論ではやはり物質である。

 さて上記内容が彷彿とさせるのは、カントの先験理論が駆逐した経験論のはずである。上記記述の「物質」を、「経験」や「印象」または「現象」に置き換えれば、上記記述はロックやヒュームの経験論の主張になる。経験論において悟性認識の対象となる概念は、経験的素材を一般化しただけの観念であり、それは常にアポステオリなものであった。例えば椅子の概念は、切り株や腰辺りの高さの石や土台などの経験的素材を元に、その座るに値する大きさや材質を綜合し、一般化した経験的観念としてのみ生れる。この経験的概念は、地に生まれるものであり、天上界からやって来るわけではない。したがってそれはプラトンの言うイデアではなく、アリストテレスの言う形相に近い。
 一方で椅子の概念は、人間の類的な身体形状や生活環境、社会的諸関係に規定される。つまり実際には、個別の諸経験を経ずとも、各人がこの世に生まれ出る以前に、既にこの経験的概念の内容は決定されている。つまり経験ではなく、人間の身体形状のような物理的存在が、椅子の概念をアプリオリに規定する。この概念の規定者は、各人の意識に対し超然としており、意識に対しあたかもアプリオリに君臨する。かくして経験的概念は、地に生まれながら天上に輝くかのごとく振る舞うことになる。

 経験的概念であろうとも、概念は常に全ての存在者を分別する基準である。例えば椅子の概念は、椅子に当てはまるもの、椅子に近いもの、椅子と呼ぶにはほど遠いものに、全ての存在者を分別する。つまり概念とは、その純粋性や経験性と無関係に、常に形式として現れる。この形式は、椅子の概念の場合だと、椅子らしさの大きさや広がりや遠さを表現する。そのような椅子らしさは、椅子に限らずに一般的に捉え直すなら、量として捉えられる。カントはこのような量を、意識のアプリオリな形式に扱った。ただしその大きさや広がりや遠さは、時空間から派生したものにすぎず、アポステオリな形式にすぎない。このことはカントが量概念と並んで純粋悟性概念に扱った質概念が、どうやっても経験的な感性的直観から生まれ出るしかないことにも示されている。
 カントは物体の大きさや広がりや遠さを、感性の先験的形式としての時空間が可能にしており、その逆ではないと考えた。この考えは、同様に観念の大きさや広がりや遠さを、悟性の先験的形式としての量が可能にしており、その逆ではないとする考えに連携する。そのことを逆に見直すなら、量は物体や観念の全ての大きさを表現可能な普遍的な意識の時空であり、それに対して物理的時空間は物体の大きさだけを表現可能な特殊な量となる。これはカントの好む分析的関係であり、物理的時空間が意識の時空によって包括的に規定されるかのような錯覚をもたらす。実際にカントは、時空を意識の他在の形式ではなく、意識の形式と扱っている。物理的時空間も意識の時空も、ともに意識の先験的形式であるなら、両者には包括関係以外に差異は無い。カントもそれをもって物理的時空間の客観性を証明したと考えた。ただし、その結論は正しいにせよ、見方は逆立ちしている。なぜならあるべきなのは、意識の時空を起点にした物理的時空間の客観性の説明ではなく、物理的時空間を起点にした意識の時空の客観性の説明だからである。したがってカントの説明はどこまで行っても、物理的時空間の客観性に到達することはなく、意識の時空の主観性を超えられないものとなっている。
 カントにおいて物理的時空間を意識の形式になり下げたものは、ヒュームにならって物自体と現象の断絶を乗り越え不可能とした不可知論の前提である。結果的に、カントにおいて数学はもちろん物理学でさえ、意識における物体運動の学問になり下がることとなった。意識の時空の主観性は、そこに現れる存在者の客観性と排他的であり、そのままでは単なる主客の折衷に終わる。この折衷の産物が現象の背後にある物自体なのだが、不可知論はこの物自体を人間に知り得ぬものに扱った。ところが物自体を知り得ぬものとするなら、今度はこの知り得ぬものを不可知論者がどのように知り得たのかという謎が生まれる。つまり不可知論には、断絶の乗り越えが不可能なのを知り得た実績が要求される。言い換えれば不可知論者には、人間知性の限界を超えた神の視点に一度でも立った実績が要求される。そうでなければ不可知論者は、不遜にも神になりすまし、それを理性的態度だと宣言したと責められても仕方が無い。一方でこれと同じ理屈は、可知論にも当てはまる。同じ要領で可知論者にも、断絶の乗り越えが可能なのを知り得た実績が要求される。ただし可知論者は、不可知論者が認めないにせよ、実績を山のように答えてきた。しかも可知論者には、不可知論者の場合と違い、不遜にも神になりすましたと責められる理由は無い。可知論者は自らの権利で断絶の乗り越えを知り得たのであり、人間の権利がその断絶の乗り越えを承認するからである。ここで不可知論者は、例えば過去に知り得たものが実は虚偽であった経験において、物自体を知り得ないことの説明に充てようとするかもしれない。この経験は、現在に知り得たことを足場から不安定にし、対象についての知識一般を丸ごと虚偽に扱う口実となる。しかしそれは、ヘーゲルが言うように「逆になぜこの不信に対し不信が抱かれないのか、そして誤りを犯すと言う恐れは既に迷いそのものであることが心にかけられないのか、それがわからない」と言うべき話である。もちろん不可知論者からすれば逆にそれは、なぜこの信に対し不信が抱かれないのか、そして誤りを犯すと言う恐れがやはり迷いではなかった経験を心に留めないのか、それがわからないと答えるところであろう。可知論と不可知論の対立は、平行したまま交わることがなさそうに見えるかもしれない。ところがここでの不可知論者の懐疑は、対象の虚偽に対抗して、新しく対象の真理が定立されたことを承認した上での懐疑である。つまりその不可知は、可知を承認した上での欺瞞的な不可知である。またそれぞれの論理に従うなら、可知論者は不可知であるのを知る権利を持つが、一方の不可知論者にはそもそも不可知であるのを知る権利さえ許されていない。なぜなら不可知であることそれ自体が、不可知論者にとって不可知でなければいけないためである。
 不可知論者は、不可知論が不可知を知り得るという論理矛盾について、不可知の結論自体を可知な理念として扱い、物自体を不可知な物体として扱い、対象の切り分けで誤魔化す。すなわち先験的悟性概念および先験的感性形式を不可知の対象から除外することで、かろうじて不可知論者は物自体の不可知を可能にする。このことが示すのは、経験論批判の上に構築されたカント超越論とは、ヒューム不可知論の持つ不合理を補填し、その完成を目指しただけの体系にすぎないことである。しかしそもそも意識は、自らの内に現れる対象が観念なのか物体なのか、形式なのか質料なのかを、どのように区別するのだろうか? 実際にはここでの区別が持つ先験性は、経験を通じて得られている。そのことは、意識に現れる対象が先験的形式であっても同じである。

 カントは、感性と悟性、直観と概念の区分けを整理することで、不可知論の暴虐の範囲を狭める巨大な功績を残した。もちろんそれは同時に、経験論に代表される可知論の可視範囲も狭めるものであった。それどころか経験論の系譜は、一旦カントにより哲学的に死滅させられたと言っても良い。ところが経験論における概念の経験的生成の理屈は、ヘーゲル弁証法に形を変えて再生する。ただし実際にはヘーゲル弁証法においても、カント超越論と同様に、自体存在は相変わらず観念である。素直に見るべきである。物理的時空間は、意識の認識形式ではない。それは意識の他在としての物質の存在形式なのである。
(2012/01/23)


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