唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第2編第1章 現存在の全体と死)

2018-08-28 06:53:33 | ハイデガー存在と時間

 フッサールが純粋自我の実在によって全ての実在を規定したことに対し、ハイデガーは第1編の最後で実在を規定するのは実存だと反論した。この反論を具体的に論じたのが、第1編に続く第2編冒頭に始まる死の実在説明部位である。その反論は実存としての先駆に連繋し、さらに良心と決意、そして脱自(=時間性)への論究へと連って行く。


[第2編 第1章の概要]

 物理的実在と異なり、現存在は投げられた自己を投企し、配慮に先んじながら配慮する自由な在り方をする。しかし現存在が自らを総体として配慮するためには、その全体を区切る死の概念的捕捉が要請される。さしあたり現存在の死は、現存在にとって追い越し得ない自由であり、経験不能である。それに対して共同現存在の死は、他人の死に過ぎず、経験可能である。両者の死の差異は、死が他者に代理不可能な現存在の自己の固有な自由であるのを現す。そして死の経験不可能性は、死に対峙する在り方が現存在の自己に固有な在り方であるのを現す。この自己固有性と経験不可能性が現すのは、生きている現存在だけが死の実在性を可能にすること、そして現存在における死と対峙する在り方だけが、死を実在たらしめることである。現存在の在り方は配慮なので、現存在は死に先立って死を配慮する。死と対峙する在り方は、自己に固有な在り方として自己本来の在り方、すなわち実存する在り方である。それに対して相互依存する世俗は自らの死を他人事にし、自己に固有な在り方から逃避する。実存がこのような世俗を斥けるなら、現存在は単独者とならざるを得ない。ハイデガーはこのような現存在の先取りを先駆と呼ぶ。死から逃避する世俗と自らを乖離した以上、死と対峙しつつ先駆する現存在は死を超越している。なぜなら先駆する現存在は、自らが実存する在り方の一つとして死をも視野に入れているからである。したがって現存在にとって死を可能にするのは先駆である。そして死を可能にすることにより、現存在は固有な実存としての本来の自己、すなわち自由を確信する。その確信は死の確信であるだけでなく、生の確信であり、自らの世の中の在り方の確信である。その確信は情念において不安として現れる。死の可能化が現存在に死を確信させ、その確信が実在を規定することは、全ての実在が死の重み、または生の重みの変様にすぎないことを露わにする。ちなみに自らの死の了解は、自己の歴史的な了解である。その歴史性は良心として現われると予想される。



1)現存在を時間的総体で捉える試み

 現存在の在り方を総体で捉える試みは、その在り方を配慮として捉える形に落ち着いた。それは投げられた自己を投企する在り方であり、配慮に先んじながら配慮する在り方である。この現存在の在り方は、自由において物理的実在と区別された。したがってその全体は、過去の欠けた分だけ実際には全体より常に既に小さい。一方でその全体は未来を含んでいる。したがってその全体は、実際には全体より常に既に大きい。このような無限概念の如き現存在の時間的総体を現存在自らが配慮するためには、死の概念的捕捉が課題として浮上する。現存在の全体の終わりは、死によって区切られるからである。そして現存在の在り方が配慮であるなら、当然のこととして現存在も死を配慮しているべきである。この自らの死の了解は自己の歴史的な了解であり、死の超越可能性を示す。また現存在の在り方を規定するのが実存である以上、実存はその歴史性において良心として現われると予想される。


2)死の概念的把握

 現存在の死の概念は、さしあたり次のようになる。
 a)追い越し得ない自由としての現存在の終焉
 b)現存在の完成ではなく消滅
 c)現存在自身の死は経験不能で、その到来時期も確定不能

 一方で共同現存在の死の概念は、次のようになる。
 a)経験可能で到来と到来時期が経験的に確実な追い越し得る他人の死
 b)共同現存在の死において現存在は彼との共存を喪失する。


3)死の実在性

 現存在自身の死と共同現存在の死の比較により露呈するのは、死が他者に代理不可能な現存在の自由だと言うことである。それは逆に言えば現存在の死を受け止めるのは、現存在唯一人なのを示す。したがって死に対峙する在り方は現存在の自己に固有な在り方である。しかし世俗における相互依存は、他人の死を通じて自らの死まで他人事にする。その自らの死からの逃避が現すのは、自己固有性から逃避する世俗の在り方そのものである。一方で死の自己固有性と経験不可能性は、生きている現存在だけが死の実在性を可能にすること、そして現存在における死と対峙する在り方だけが、死を実在たらしめていることを現す。なお現存在が死から逃避するにせよ、死と対峙するにせよ、現存在は死によって自らの時間的総体を開示する。


4)先駆性

 死と対峙する在り方を可能にするのは、現存在における配慮に先んじながら配慮する在り方である。死との対峙は現存在の自己に固有な在り方なので、その在り方は現存在の自己本来の在り方、すなわち実存する在り方である。死の代理不可能性が示したように、それは現存在に自己の孤立と自律を自覚させ、現存在を単独者たらしめる。一方で現存在の配慮におけるこのような先取りをハイデガーは先駆と呼ぶ。死を先駆する現存在は、自らの世の中の在り方の総体を捉えている。したがってその単独者化も、共存への対人的配慮、および有意義相関全体への道具的配慮へと向いている。しかも先駆する現存在は世俗から乖離しており、自己本来的である。そして死から逃避する世俗と自らを乖離した以上、死と対峙しつつ先駆する現存在は死を超越している。なぜなら先駆する現存在は、自らが実存する在り方の一つとして死をも視野に入れているからである。 


5)死の重みとしての実在

 先駆において自由な現存在は、追い越し得ない自由としての死を可能にする。その可能となった死において現存在が確信するのは、固有な実存としての本来の自己であり、自らの自由である。したがって現存在が確信するのは、死であると同時に生であり、すなわち世の中での在り方そのものである。そして現存在は、その確信を情念において不安として現す。それゆえに不安は、本来の自己の開示であるだけでなく、死の確信でもある。死の可能化が現存在に死を確信させ、その確信が実在を規定することは、全ての実在が死の重み、または生の重みの変様にすぎないことを露わにする。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第2編2章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第1編6章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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