唯物論者

唯物論の再構築

逆立ちした弁証法(2)

2015-09-21 16:33:23 | 弁証法
 一見するとヘーゲル弁証法の逆立ちを目的論的転倒として理解することは、ヘーゲル自身の記述における次の点に反する様に見える。それは、ヘーゲルにおける目的論的弁証法に対する批判、または概念に対する個別者の規定的優位の承認の二点である。ヘーゲルは目的論的弁証法に対して、媒介を排した恣意的直観のごとく扱っている。当然ながら彼は、目的論的弁証法に対してシェリングの直観主義について行った非難を適用する。すなわち目的論的弁証法に対して、目的自体の擁立経緯の正当性が欠如していることを指摘する。しかし実際にはヘーゲルにおける目的論的弁証法に対する非難は、無媒介に目的を擁立するその恣意性に向いているだけである。媒介を経る形で目的を擁立するなら、弁証法における目的論をヘーゲル自らも排除していない。なぜならヘーゲルにおいて弁証法を可能にするのは、あくまでも意識の能動性だからである。
 一方で、概念に対する個別者の規定的優位を承認するかのごとき彼の言明は、ヘーゲル弁証法の全体を通じて、彼自身により実際には否定されている。最終的にヘーゲルは、形式および概念、さらには法則や歴史性を、現象の実体として扱い、概念に対する個別者の規定的優位を拒否するからである。もともと概念に対して個別者が規定的優位をもつと言うことは、現実存在が本質の実体であると言うのと同じである。したがって実存が本質に先立つことを、最初の段階でヘーゲルも認めている。ところがヘーゲルはこの表現を、精神こそが実体としての物自体であると言うカント式錯誤に同義化させてゆく。ヘーゲルは、物体および現象を外なるものとみなし、意識および実体を内なるものとみなす。そして外なるものは、内なるものに規定されると考える。そして彼はこの考えを推し進めて、現象は概念に規定されるべきであり、その逆ではないと考えるに至る。そのようなことで結果的にヘーゲルは、実存の本質への先立ちの承認を反故にし、本質の実存への先立ちだけを承認したわけである。
 ヘーゲルにおいて外なるものは、内なるものが外化した姿である。すなわち実存は本質が外化した姿だとみなされている。言い換えれば、現実存在は概念が外に現れ出ただけの単なる現象だとみなされている。またそれだからこそヘーゲルにおいて、現象から概念が生成することは、対象が本来あった自己自身に帰ることだとみなされている。しかしもともと対象の概念は、認識過程において感覚及び知覚を通じて、対象が現象した後に擁立されたものである。概念が現象の実体であるなら、はじめに想定された実体と現象の規定関係も逆転してしまう。例えば現実の物体運動は、物理法則が外化しただけの姿にすぎないこととなる。言い換えるなら現実の物理運動とは、イデアとしての物理法則の不完全なコピーにすぎない。この見方での物理運動は、物理世界に実在する物理法則に従っているのではなく、意識に内在していた物理法則が実現した姿でしかない。すなわちそれは、目的論的に物理法則の実現をしたものでしかない。明らかにこのような現象理解の仕方は、彼自身が否定したはずの目的論である。ヘーゲルにおける弁証法の目的論的逆転は、本質と実存の規定関係の逆転において実現されたものである。もちろんその逆転は、一般と個別、意識と物体の規定関係の逆転としても発現可能である。

 ヘーゲルにおける現象と概念の規定関係の逆転、または物体と意識の規定関係の逆転は、一見するとただ単に認識の派生経緯に逆らうだけの逆立ちした観念論である。しかしその非合理な逆転は、次の二つの前提からヘーゲルに対して要請されている。第一の前提は、現象が実体に規定されると言う前提である。そして第二の前提は、意識が物体に対して規定的優位に立つと言う前提、すなわち意識が物体から自由であると言う前提である。ちなみにヘーゲルにおいてこの前提は、むしろ意識が物体を規定する形にまで押し進められる。彼において世界の歴史は、自らを開陳する絶対理念の運動に等しいからである。
 第一の前提は、現象をイデアや物自体のような現象の実体から派生したものに扱うものである。もちろんこれは、認識論の一般的な前提である。この前提では、実体が媒介を経て現象する限りで、現象は実体の持つ完全性を失っている。だからこそ現象は、完全体としての実体との比較において、常に不完全体のごとくみなされてきた。ところがこれと同様に、現象が媒介を経て概念として擁立されるなら、概念は現象の持つ不完全性をさらに悪化させることになる。あたかもそれは、既に不完全体である現象との比較においてさえ、概念を一層の不完全体に扱うものである。しかしそのことを認めるなら、認識内容の検討を繰り返すたびに、意識は真理からどんどんと離れてゆくこととなる。したがって遠ざかる真理の元に意識ができるだけ留まろうとするなら、そもそも媒介的な認識を拒否し、認識深化を全般的に否定すべきであるかのようにさえ見えてくる。このような直観主義の誘惑に対してヘーゲルは、逆に媒介的な認識を全面的に肯定し、認識深化を意識が真理に到達する道なのだと明示した。なるほどヘーゲルの考えたように対自的な表象や概念は、必ず自らに対立する媒介者を通じてのみ自らを確立する。明るさは闇を通じてのみ、明るさとして表象されるようにである。このヘーゲルの指摘に従えば、認識深化の先に現れる対象の概念は、認識深化が進むほどにその真性を増さなければならない。当然ながらその認識深化の究極的な終端には、認識の始端に現れた現象の真理を凌駕するような、対象の真理それ自体が現れるはずである。もちろんヘーゲルは、それこそが現象の実体なのだとみなしている。すなわち現象が概念を規定したように見えるのは仮象であり、実際には概念の方が現象を規定したのだと、ヘーゲルは考える。そしてこのようなヘーゲルにおける現象と概念の規定関係の逆転は、先に示した前提を維持するためにこそ要請されている。それは、現象が実体に規定されると言う前提である。ところが概念が現象を規定するものであれば、概念は現象に対して不動の実体として存立すべきである。概念が変動する実体であるなら、概念と現象との間の差異も同時に失われるからである。概念が不動の実体として存立するからこそ、概念は現象に対してその変動する姿の収斂先として存立する。ここでの概念は、不完全な現象が本来あったところの完全な姿だと考えられたからである。そのことは、概念が一見すると静止した姿ではなく、運動し変容する場合でも同じである。蝶が卵から蛹を経て成虫になるとしても、その一連の変動の全体において、蝶の概念は静止しており、相変わらず不動の実体である。したがってヘーゲルにおける実体は、現象にとっての静止的目標でなければならない。つまりそれは、プラトン式イデアと差異を持たない静的実体とならなければいけない。またもちろんそのような静止性は、実体が実体たり得るための必須要件である。しかし明らかに概念は、この静止性の要件を満たすものではない。概念は、認識の始まりから不動の実体として存立し得ないし、その将来も不動な姿を保証されていない。概念は、自らの姿を物理的事実に近似させて、その完全一致を企てるだけの変動する一つの表象にすぎないからである。現象における不動の実体として存立しているのは、意識としての概念ではなく、現象を規定した物理的事実だけである。概念は、物理的事実の代わりに実体の座に鎮座することを許されない。もちろんこの物理的事実とは、カント式の背後的実体ではない。それは現象の中に自らを現わしている現実存在である。
 第二の前提は、意識の本質に自由を見出すことである。スピノザ式の機械的唯物論を除けば、これは哲学の一般的な前提である。むしろ哲学世界では、自由ではない意識を意識として扱わないのが一般的である。しかし物体が意識に対して規定的優位に立つのを認めた場合、意識の自由は物体により奪われる。これに対して経験論は、実体概念そのものを認識論から消失させることで意識の自由を確保していた。この経験論に対してカントは不可知論において実体概念を救済し、実体と意識の間の相関を消失させることで意識の自由を確保した。しかしヘーゲルの場合、スピノザへの回帰に置いて不可知論は既に拒否されている。したがって少なくとも意識は、実体により規定されなければならない。それゆえヘーゲルは、実体を概念だとみなす。すなわち現象は、概念により規定されたことになる。もちろんここでの現象と概念の規定関係の逆転とは、物体と意識の規定関係の逆転である。もともと意識が自らの自由を確保するためには、実体は物体ではなく、意識でなければならない。そうすれば意識は、意識自らにより規定されるだけとなる。かくして不可知論の排除により危機に陥った意識の自由は、簡単に実現可能となる。それどころかむしろ意識の不自由の方が実現困難でさえある。このような自由のレトリックは、ヘーゲルに限らず、後の実存主義を含む現象学にも使われている意識の自由の図式である。そしていずれの哲学の場合でも、意識は絶対的自由を得て、逆に意識の不自由をいかに説明するかの困難に遭遇している。ヘーゲルの場合、意識の自由を許されているのは概念の側だけである。個別的な意識の自由は、概念の自由としてのみ自由であり得る。すなわち本当に自由な意識は、絶対理念だけである。そしてヘーゲルは、個別意識の不自由の不満を認める気も無い。彼は個別者の感じる不自由を、未発達の個別者が絶対理念の前に感じるわがままな憤りのごとく捉えるからである。しかしこのような仕方で確保された意識の自由は、明らかに錯覚である。意識の自由は、誰とも知れぬ絶対理念の自由ではなく、現実的な個別者の自由であるべきだからである。またその自由も、そもそも物体が意識に対して規定的優位に立つのを認めた上で、いかに意識が物体の支配から離脱するかにおいて説明されるべきである。(2015/09/21)



   
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