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ハイデガー存在と時間 解題(第1編第3章 在り方における世の中)

2018-08-27 00:01:38 | ハイデガー存在と時間

 世の中は本来的に物理空間ではなく、道具の適所空間である。物理空間は、平均的日常において世の中が非本来化した姿である。ただしこのような世の中の非本来化は、平均的日常へと堕落する現存在の在り方の一風景にすぎない。ここでは世俗化する人間の分析に先駆けて、世俗化する世の中の姿を分析した第1編の3章の説明部分を概観する。

[第1編 第3章の概要]

 現存在を除けば、世の中の存在者は本来的に道具であり、事物ではない。道具とはその有用性において用途を実現するための手段である。そして手段としての道具を道具の用途に差し向けるのが指示である。指示は道具を材料連繋の開始点として自然へと差し向け、目的連繋の終着点として実存へと差し向ける。手段と用途の連携によって道具的存在者の全体は相互に結び付いている。配視はこのような道具連関を見渡し、指示全体の中で道具に適所を与える。道具としての記号とは、本来的に目立たない道具を目立たせる手段である。有用な記号は、表示を通じて道具の有用性を特定の用途に限定する。適用とはこの有用性の限定である。このときに道具は適用を受けた適具として現れ、同時に道具連関における適所を得る。そして世の中とは、このような適所全体である。道具連関が指示全体を現し、指示全体が適所全体を現すことは、逆に指示の本来の姿を有意義化として現す。世の中の世界性を構成しているのは、この有意義性である。そして現存在における世の中の在り方が、この有意義化を規定する。
 デカルトにおける物理世界と精神世界への世の中の分離は、伝統的実体概念における延長と思惟の両義性に従っている。ただしそれは古代の実体概念における造物主としての神と被造物としての物心世界の分離と異なる。デカルトにおける物理的実体性の自明化は、アリストテレス以来の被造性に傾斜した存在概念の完成した姿である。デカルトも直観において世の中の存在者が有用性を現すのを認めつつ、有用性をその相対性において物体の在り方から排除する。そして数理認識における存在者の在り方を不問にしたまま、数理世界における存在者の実体性、すなわち不断に残留する延長によって物体の在り方を補足した。しかしデカルトの意図に反し、思惟から物体への実体性の飛躍は成功せず、存在の実体性は不可知となったとハイデガーは断ずる。本来なら適所全体であった世の中が実存から切り離れて単なる空間になったと言うのがハイデガーの考えである。


1)世の中の先験的世界性

 世の中は事物存在者が現象する場である。したがって世の中自身は事物存在者ではない。また数理世界のように、事物以外の存在者の独自の世界も可能である。さらに世の中は、異なる現存在が共有する公共世界である。このように世の中は主観や事物世界として限定され得ない。それゆえに世の中は空間としても限定されない。その世の中が持つ世界性は、現存在の先験的な構造である。逆に事物世界の世界性、および空間の空間性は、この先験的世界性によって基礎づけられている。


2)道具(用途・手段)と事物

 現存在を除いた世の中の存在者は、本来的に道具であり、事物ではない。道具はその有用性において用途を実現するための手段である。用途を実現していない道具は、さしあたり製品として現れる。すなわち製品とは、手段に留まる道具である。事物とは、本来の道具性が埋没した非本来的な道具である。もし道具の用途と現存在の目的が整合しており、道具が用途を実現する手段であるなら、存在者の道具性は目立たない。また目立たないからこそ存在者の道具性は、存在者にとって本来的である。しかし道具の用途と現存在の目的に整合せず、道具が用途を実現しない手段であるなら、存在者の道具性は欠落した道具性として目立ってくる。そしてこの目立つことが存在者を道具性の欠落した道具、すなわち事物として区別させる。ちなみに科学にとってこの道具性の欠落は、逆に科学にとっての道具性である。


3)道具における指示と表示

 手段としての道具を道具の用途に差し向けるのは指示である。まず手段としての道具は材料を指示する。材料は道具を実現する指示連繋の始点として現れる。自然はこの材料連繋の開始点である。次に道具の用途は目的を指示する。目的は道具が実現する指示連繋の終点として現れる。実存はこの目的連繋の終着点である。このような手段と用途の連携によって道具的存在者の全体は相互に結び付いている。配視はこのような道具連関を見渡し、指示全体の中で道具に適所を与える。非本来的な道具性が事物性として現れたように、非本来的な指示は「関係づけ」として現れる。それでも関係づけはまだ道具性を得ているのだが、さらに関係づけが事物性を帯びるなら、それは「表示」となる。


4)道具としての記号(言葉)

 道具としての記号とは、本来的に目立たない道具を目立たせる手段である。したがって記号の用途は、端的に言えば指示ではなく、関係づけであり、さらに言えば表示である。また記号の目立ちやすさを要請するのも、道具の目立ちにくさである。それにもかかわらず記号自身の目立ちやすさは、記号を有用にしない。なぜなら記号の用途は、記号自身を目立たせることではなく、他の道具を目立たせることだからである。このような記号の有用性が露わにするのは、道具連関の全体である。このことは同時に道具の本来的な目立たなさを説明する。なぜなら記号において記号自身が目立たないのは、道具的配慮が常に他の道具に移ってしまうからである。


5)道具の適所と世の中

 有用な記号は、表示を通じて道具の有用性を特定の用途に限定する。適用とはこの有用性の限定である。このときに道具は適用を受けた適具として現れ、同時に道具連関における適所を得る。そして世の中とは、このような適所全体である。道具連関が指示全体を現し、指示全体が適所全体を現すことは、逆に指示の本来の姿を有意義化として現す。世の中の世界性を構成しているのは、この有意義性である。そして現存在における世の中の在り方が、この有意義化を規定する。なおハイデガーにとって道具の適所は、主観が事物に与えた性格づけではない。南風は農民が気付くなら、もともと恵みの雨の兆候である。ハイデガーは、その恵みの意義を南風の物理的属性ではないと断ずる。適所はアプリオリな道具の在り方であり、世の中は現存在のアプリオリな構造である。主観にできるのはそれを露わにすることだけである。もちろん世の中は物体ではないし、個人の主観でもないと考えられている。したがってハイデガーをプラグマティズムと区別するなら、ハイデガーにとっての世界とは神の恩寵であり、記号とは神の暗号だとみなすのもそれほど悪くない。


6)デカルト二元論における世界の実体性

 世界概念はデカルトにおいて物理世界と精神世界に分離している。この分離において物体と意識の実体性も、それぞれ延長と思惟に分離した。ただし実体概念の物心両義はデカルト以前からの哲学的伝統である。そこでの実体は神と物体と意識の三者で考えられており、空間性が物体の実体性を成している。もちろんこの対比で言えば、ハイデガーにとって意識の実体性は時的成熟する現存在の在り方、すなわち脱自(=時間性)である。このような三義的な実体概念にもとづいて、存在概念も造物主としての神と被造物としての物心世界の両方に適用された。しかしアリストテレスにおいて始まった被造性への存在概念の傾斜は、デカルトでは被造物の実体性を自明化させるに至る。そこでのデカルトの意図は、思惟の実体性を通じた物理的世界の実体的確立である。ただしデカルトにおける思惟から物体への実体性の飛躍は成功せず、物体の実体性は自明性で誤魔化された。その実体性は物体から現象し得ない。そのことはデカルト自ら認めるように、存在の実体性を不可知にした。


7)世の中の物理空間化

 デカルトは直観において世の中の存在者が有用性を現すのを認める。しかし有用性は運動においてのみ恒常性を得ている。それゆえにデカルトは有用性をその相対性において物体の在り方から排除する。むしろ運動での物体の在り方は、不断に残留する延長である。その残留は数理世界における存在者の実体性に適合する。そこでデカルトは数理認識における存在者の在り方を不問にし、数理世界における存在者の実体性によって物体の在り方を補足した。このデカルト的世界観では存在者が現した有用性は、延長する物体に付与された価値へと在り方を変える。ところが延長する物体の在り方が自明なままに留まったことで、存在者の道具的在り方はむしろ不明となったとハイデガーは断ずる。この断定が含むハイデガーの論旨は、本来なら適所全体であった世の中が実存から切り離れて単なる物理空間になったと言うことである。そこで問題となるのは、どのようにして世の中は物理空間となるのか、逆にどのようにして物理空間は世の中へと復帰するのかの両方である。


8)本来的空間としての世の中

 本来的に距離や方向は物理空間ではない。そのような物理的な距離や方向を基礎づけているのは、世の中としての適所または有意義相関の全体である。すなわち道具の使い勝手が、現存在と道具の間の距離や方向を規定する。現存在にとって存在者との距離は、その距離を除外する際に現れる。その現れ方は、大事なものが失われるときに初めて人はその大切さに気付くのと似ている。また現存在にとって方向は、存在者の位置づけである。もともと方向は、天井や床などの間取りや太陽や川などの生活環境の位置である。道具としての記号は世の中におけるそれらの位置を端的に表示する。しかし世の中にそれらを配置するのは現存在である。すなわち世の中は直観の先験的形式ではなく、また経験的な自然空間でもなく、現存在の先天的空間になっている。現存在は地図を描くように、この先天的空間としての世の中に存在者をはめ込む。したがって存在者が居ないとしても、現存在は常に世の中に居る。この本来的空間の適所性および有意義性を除外された姿が、非本来的な空間としての物理空間である。その本来の姿は空間を世の中へと復帰することによってのみ明らかになる。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第1編4/5章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第1編1/2章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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