唯物論者

唯物論の再構築

日本の防衛問題(2)

2012-05-20 14:48:31 | 政治時評

 日本が対米関係を重視する最大の理由は、在日米軍の存在によって、中国や韓国、北朝鮮、およびロシアによる日本領土の軍事的占有を排除できるのを期待しているからである。しかし本来なら周辺国による侵略を排除する役目は、米軍ではなく、自衛隊が持つべきである。ところが憲法における自衛権規定の不備は、自衛隊から自衛力として機能を奪っている。本来ならこの自衛権規定の不備も、憲法改正により正すべきである。しかしその場合でも、憲法改正が実現するまでの間、日本の自衛力の事実上の欠損は放置される。このこともあって日本は余儀なく、自衛隊の有無に関わらず、米軍という用心棒を雇うことで自衛力の欠損を誤魔化し続けてきた。
 一方でこの対米重視をさらに補強しているのが、アメリカの信頼度の高さである。ただしここで言う信頼度は、契約履行の信頼度ではない。アメリカは韓国による竹島の軍事的占有を排除しておらず、その限りで他国による日本領土の軍事的占有を排除する役目を、必ずしも果たしていない。しかしここでのアメリカの理不尽は、中国や韓国、北朝鮮、およびロシアの理不尽よりずっとましである。ロシアを除いた中国や韓国、北朝鮮は、国是として反日を掲げており、しかもその反日の前提のほとんどが、解決済みであるか、間違ったものである。つまり彼らにおける反日は、現存する未解決問題に由来するものではない。反日は、もっぱら反日であるのを必要とする意識に由来している。言い換えれば、彼らの国是としての反日とは、観念論なのである。ただし実際の最大の障壁は、彼らにおける全体主義的な社会秩序の方にある。ここで言う全体主義的な社会秩序とは、事実関係を確認するための資料の閲覧機能の使用を禁止したり、既定の結論と事実関係の整合性に疑問をもつこと自体を排除したり、そもそも事実関係から結論を推理する理屈を敵視する社会の仕組みを指している。全体主義という点では、ロシアも同じなのだが、そもそもロシアはその全体主義を問題にする以前に、第二次大戦終了時の対日参戦において、日本から見た契約履行の信頼性、すなわち人間的共感の土壌自体を喪失している。逆にアメリカの信頼度の高さは、国是としての反日を実際に乗り越えた歴史にあり、さらには第二次大戦終了後の日本支配で見せた人間性にある。このために、極端に言えば、日本はアメリカに裏切られたとしても、恨みを言えた立場にさえ無い。
 ただし敗戦後の日本の扱いにおいて日本は、アメリカと同様に、中国にも感謝する必要がある。中国は公式に、日本の戦後処理において対日国家賠償を放棄している。かつて田中角栄が日中国交回復を果したとき、そのことの感謝を中国側に伝え、中国への個人賠償の段取りを用意した。しかしこの日本側の申出に対して中国は、個人賠償の代わりに借金を要請し、それに呼応して田中角栄が対中円借款を強行して今に至っている。結果的に対中円借款は、かなりのインパクトをもって中国の近代化に貢献した。ところがそのことをもって日本の反共右翼陣は、借金をしながら反日であり続ける中国の不実さを責めている。しかし戦後日本の再出発を考えたとき、実は中国の賠償放棄の方がよほどインパクトが大きい。そしておそらくそれは、焦土と化した日本への中国の同情の現われであった。筆者からすると、最近はこの中国への感謝を忘れて、反中国宣伝の材料に使うために対中円借款の効能を説くような恥知らずな日本人が目立つ。しかしそれは、問題解決と無関係な、恩着せがましくみっともない姿である。中国批判をする場合、チベット人弾圧や南京虐殺規模などの個別の具体的問題についてその間違いを指摘するのが正しい方法である。日本人は、対中円借款の効能があったことを素直に中国人とともに喜ぶだけで良い。日本人は、対中円借款と引換えに中国に何かを要求するようなことをしてはならない。

 かつてアメリカは、中南米や東南アジア、中東で進行中だった革命に片っ端に敵対し、それらの革命の多くを流産させてきた。中にはベトナムやニカラグアのようにアメリカに勝利した例もある。しかしもっぱらアメリカは軍事独裁政権の成立を演出することで、イランやチリ、インドネシアのように、それぞれの国内の共産主義者のみならず、先進的知識層を根絶やしにしている。日本はこのアメリカの共犯者であり、アメリカが人類に対してもたらした災厄の責任の一端を担っている。北朝鮮が悪徳国家であるのは、北朝鮮が北朝鮮人民に敵対している事実において明らかである。しかしそれは、他国が北朝鮮を攻め滅ぼす理由にはならない。かつて民族の野蛮性を根拠にして、先進国は他民族国家を蹂躙し、発展途上国の政権を崩壊させてきた。この理屈に従えば、中国がチベット政府を責め滅ぼしたことも正当化される。しかしベトナム共産主義が悪徳であるかどうかは、ベトナムの問題であり、アメリカには関係の無い話である。この意味で、アメリカからの日本の独立は、道義的に要請された事柄でさえある。もちろんアメリカからの独立は、アメリカとの敵対と同義ではない。アメリカが悪としてふるまう限り、日本とアメリカの敵対が生まれる可能性があるだけである。

 日米安保条約は、その軍事的片務性において日本の対米従属を規定する。しかし日米安保条約に、軍事的双務性を与えれば良いわけではない。それは状況を悪化させるだけである。一つの解決策として、日米安保条約を商業契約に変えるというものがある。日本がアメリカに対して国土防衛を業務委託する関係であるなら、現状の対米従属関係は、日本が買い手となり、アメリカが売り手となるだけの商業関係になる。このとき日本にとってのアメリカは、一種の警備会社として現われる。商業関係では、一般に客の方が店側の優位に立つ。同様に、現状の対米従属関係が商業関係に変われば、今度はアメリカが日本に従属するような逆転さえ生まれる。またリスク分散として、業務委託先を日本周辺国と中立なヨーロッパのどこかの国に求めるのも可能である。ヨーロッパにおいて比較的に防衛後発国のトルコあたりに声をかければ、日本の潤沢な防衛費と自国の国防近代化を期待して、この話に飛びついてくるかもしれない。
 一方で、日本の対米従属状況の払拭には、どうあがいても自衛力の確保が必要である。筆者は既に、日本には形式的な自衛権の成立が必要なことに述べた。ここでいう自衛力とは、そのような形式面を指すものではない。自衛力とは、自衛隊の軍事的実力を指している。そしてそれも、現行の自衛隊の軍事力が過大か過少かどうかの話ではない。おそらく自衛隊の軍事力が過大か過少かどうかは、誰にもわからない話である。極端に言えば、中国やロシアが核攻撃をしてきたら、自衛隊があっても無くても関係無く、既に日本は焦土になるはずである。またそのときは、仕返しに中国やロシアに核攻撃をするのも、無意味になっている。日本の原発から流出した核廃棄物が、日本ともども世界を死滅させるからである。筆者の言う自衛隊の軍事的実力とは、どちらかというと自衛隊の日本国内外での権威づけを指している。
 小沢一郎の唱える自衛隊の国連軍化は、国連の大義のもとで国際紛争を解決する能力を自衛隊に与えようとするものである。この案は、平和憲法の理念に抵触せず、自衛隊の軍事的実力を試し、アメリカから独立する自信を日本にもたらそうとしたかなりの妙案だと筆者は考える。またアメリカの国益ではなく、国連の大義のもとに、世界の紛争各地でその解決のために自衛隊が地道に貢献するのであれば、その道義性において日本の軍事力は、アメリカを超えることができる。性善説で考えるなら、そのような道義性自体が、近隣国において日本の自衛力として機能するはずである。

 かつてアメリカが咳をすると、日本は風邪を引くと言われた。これは、日本経済の対米依存を示すことで、アメリカによる日本の植民地状態を正当化する一種のデマゴギーであった。同じ理屈は、現在の日本経済の対中国依存を示すことで、日本の中国への従属を認知することになる。実際には日本経済の対外依存度は、アメリカに次いで世界第二位である。つまり日本は自国経済を、中国や韓国のように、対外依存で支えているわけではない。また対外依存は、双方向の関係である。経済関係の遮断は、例えばアメリカに商品価格の高騰や質的劣化、場合によっては商品そのものの欠如をもたらす。このことは、経済の相互依存が深まるほどに、依存し合う双方の国が戦争するのを内実として不可能にする。ただし内実の不可能は、外見の不可能を意味しない。可能性を言えば、戦前の日本のように、自国の経済破綻を覚悟して戦争に臨む場合もある。このような場合、現在の核兵器時代での通常武装は何の役にも立たない。気がついたときには既にミサイルは発射しており、米軍も自衛隊もそれを防衛することはできないからである。この意味で平和憲法の理念は、対外的軍事緊張を抑止する意味で、現代日本にこそ有効である。そしてその理念の発展を考えるなら、日本は短気を起こして、中国などの周辺国との関係遮断をするべきではない。日本は周辺国との関係緊密化において自国防衛の実現を目指すべきである。田中角栄が日本のみならず東アジアの平和に果した役割は、かなり巨大な功績だったのである。ただしロシアがこの理屈の対象となるのかは、いまだ不明である。
(2012/05/20)


リンク(小沢一郎ウェブサイト(憲法改正論))


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