唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(2.在り方論としての「存在と時間」)

2018-09-30 09:59:19 | ハイデガー存在と時間

1)在り方論としての「存在と時間」

 「存在と時間」の判り難さは、存在概念の判り難さとかぶっている。その判り難さの一つの原因は、存在とは何か?と問いを立てる時点で、問いを立てたハイデガーとその問いを聞かされる読者の間で既に存在了解がずれていることにある。ハイデガーは存在を在り方として既に捉えているのに、読者の方は存在を事物の実在として捉えるのが、ハイデガーの言うところの日常的状態だからである。しかしハイデガーに言わせればその事態は、存在の日常的解釈にはまりこんだ頽落した読者の責任である。したがってハイデガーの記述要領には問題は無いと言うことなのであろう。とは言え、最初にハイデガーは自身が使う存在概念のあらましを簡単に説明しておくべきだと筆者は考える。そう言うことで、筆者が書いた「存在と時間」の要旨記事は、基本的に「存在」を「在り方」に替えている。「存在と時間」における存在が在り方の意味で使われていると判れば、「存在と時間」は一気に読み易くなる。ちなみに筆者が書いた「存在と時間」の要旨記事は、「世界」をもっぱら「世の中」に替え、ハイデガーの好きな「~性」と言う表現からもっぱら「性」の文字を取っ払い、「時間性」ももっぱら「脱自」に替えている。したがって要旨記事は、「世界内存在」を「世の中での在り方」に替えているし、「存在の意味は時間性である」との言い方も、「在り方の意味は脱自である」に変わっている。それと言うのも、そのように我田引水式に捉えていかないとハイデガーを理解できないからである。


2)「存在と時間」における在り方解釈の概要

 「存在と時間」における存在を在り方だと判れば、その全体の構成も見通しがかなり良くなる。本の序盤で現存在は唐突に世界内存在として表現されたが、それは世の中の在り方であり、意識の存在が世の中でどのように生きてゆくのかを規定する理念を指すと判る。端的に言えばそれは人生訓であり、生き方である。意識は既にして生の概念なのである。この時点で実存と言う言葉も、正しく生きること、または正しい生き方を指すのだと解釈可能となる。したがって実存論とは、生き方論を論じる生き方論論だと言うことになる。さらに本は中盤で現存在の存在を配慮として表現する。それは配慮に先んじて配慮する在り方である。すなわち現存在の生き方は、未来と過去を鑑みて現在を規定する在り方なのだとハイデガーは言っている。そしてそこからハイデガーは、存在の意味を時間性と結論する。時間性とは脱自であり、ハイデガーにおいては予期と保有、および忘却がそれから派生する。そしてそれらがさらに未来と過去、および現在を派生する。「存在と時間」における存在が在り方だと判ることで、同様にすぐ気づくのは、日常的解釈での存在、すなわち事物の実在が、事物の在り方を指すことである。それは現状を持続し、現状を変える意志の欠落した物体の在り方である。ハイデガーは、この事物の実在を現存在の頽落する在り方から説明し、さらに生死の重みによってそれを基礎づける。そして自明とみなされてきた事物の実在を説明づけたことにより、哲学世界に衝撃を与えた。ハイデガーの説明は、時間や空間の場合と同様に、事物の実在を意識の発達の側面から生成するものである。そしてそれは時間や空間の場合と同様に、意識の発達を説明する理屈として見事な出来上がりになっている。


3)実在と生死の重み

 なるほど事物の実在は、現存在によって生死の重みを付与される。しかしここで事物は重みを付与されると考えてしまうと、一つの疑問が生じる。重みを付与されるためには、重みを付与される事物は、重みを付与される前に既に対象として現れているからである。そうでなければ現存在は重みを付与すべき相手を知り得ない。またその相手を重みによって実在として表現することもできない。ちなみにここで述べている事物は、実体としての対象を考えたものではない。したがってここでの事物とは、事物の対象的知覚を指す。一方で事物の実在として現れる生死の重みとは、対象的知覚と異なるような現存在の主観的な対象把握であり、端的に言えば対象の情念的把握である。すなわちそれは、生死の重みが現存在の情念として現れるのを言い表している。したがってここで浮かび上がっている疑問も、情念に先行して対象的知覚は既に現れているのではないのか? と言う表現に整理される。実を言うとこれと同じ疑問は、脱自の時間的性格にも現れている。なるほど二つの時間的対象は、現存在によって一方を過去対象、他方を現在作用の役割に区別される。しかしその区別は、過去と現在の役割を付与される前に既に対象と作用に分離して現れているべきだからである。そうでなければ現存在は過去と現在の役割を付与すべき対象を知り得ない。またその対象も過去と現在を時間的に表現することもできない。すなわちここでも対象的知覚は、意識による情念的対象把握に先行しているように見える。いずれの場合でも、対象的知覚は対象の在り方を包括しており、情念的対象把握はそれに包括されるところの対象の在り方に留まる。このように考え直してみると、ハイデガーによる情念の復権は、だんだんとその成否が怪しくなってくる。


4)知覚と情念の先行後続

 先に生じた疑問は、生死の重みを事物と分離し、生死の重みを事物に付与したことから生じている。例えば知覚対象を眼前の肉塊の視覚映像だとみなし、情念を肉塊に遭遇した喜悦だとみなす場合、喜悦は肉塊の視覚映像に付随する価値判断である。そのような喜悦は、肉塊の視覚映像の内に収まる意識の在り方である。しかしこの説明は、対象的知覚を情念に先行させる誘導がもたらしただけかもしれない。ハイデガーの説明も、生死の重みから事物の実在が派生するのであり、事物の対象的知覚を情念を分節化したものに扱っている。ハイデガーに従い、情念を対象的知覚に先行させた場合、情念は突如現れ出る喜悦であり、知覚対象はその情念を詳細化した視覚映像、例えば眼前の肉塊として現れる。ここでの肉塊の視覚映像は喜悦に派生する属性情報に過ぎず、喜悦の内に収まる意識の在り方である。この場合、対象はまず喜悦として意識に現れ、それから現象の詳細を想起する形で、肉塊として詳細化した視覚映像にまで喜悦は分節化される。それはハイデガー式に言えば、肉塊はまず道具として出会われ、次に事物へと派生すると言うことである。したがって対象の在り方を包括するのは情念的対象把握であり、むしろ対象的知覚はそれに包括されるところの対象の在り方に留まることになる。実在の日常的解釈とハイデガー解釈の両者を整理すると、次のようになる。

 【実在の日常的解釈】
   情念は対象的知覚に付与される。具体的に言えば、肉塊はまず事物として出会われ、次に対象的知覚から情念が派生する。

 【実在のハイデガー式解釈】
   対象的知覚は情念に付与される。具体的に言えば、肉塊はまず情念として出会われ、次に情念から対象的知覚が派生する。

なお当然ながらこの先行後続関係における日常的解釈とハイデガー実存論の逆転は、日常空間の捉え方にも波及する。日常空間もまた道具として現れ、次に事物へと派生しなければいけないからである。このためにハイデガーでは日常空間が世の中として現れ、次に空間へと派生しなければいけない。端的に言えばそれは、日常空間を意識から離れた自然世界ではなく情念だとみなし、意識を構成する一要素に扱うことである。


5)知覚から情念への派生

 知覚が情念に先行するのか、それとも情念が知覚に先行するのか、それとも等根源的に両者は並存するのか、または両者の間に先行後続関係は無く、両者の先行後続は偶然に従うのであろうか? 知覚を情念に先行させた場合の困難は、簡単に言えば物理からどのように意識が生まれ得るのかの説明である。同様に情念を知覚に先行させた場合の困難は、簡単に言えば意識からどのように物理が生まれ得るのかの説明である。とは言え物理と意識が異なるように、知覚は情念と異なる。知覚が情念へ、または情念が知覚へと派生するのはそもそも可能なのであろうか? さしあたり唯物論の結論を言えば、知覚から情念への派生は可能であるが、情念から知覚への派生は可能ではない。知覚対象による情念への先行が必要な理由は、情念を知覚に従属する価値判断として扱う哲学的伝統、および意識の実体に物体を想定する唯物論の世界観に規定される。もちろん情念の対象が、空想や過去や未来に現れる非現実の存在者の場合もある。しかしその非現実の存在者を構成するのは、やはり現実的知覚の表象である。非現実の存在者に対する情念は、それを構成する知覚の表象から派生する。蛇を恐怖する者にとって、蛇を構成要素にする存在者は、空想のものでも、過去や未来のものでも恐怖の対象である。ただし派生が可能な以上、知覚には情念が既に含まれなければいけない。しかし知覚が情念を包括するとなれば、知覚対象は情念を属性としており、対象を分析すると情念を抽出できることになる。すなわちそれは、肉塊を分析すると喜悦を抽出できると言うことである。


6)物体における情念

 物体中から意識の実体を抽出するエンゲルスの例えに、花から赤い色を発色させる色素を抽出し、衣類の着色に転用するものがある。同じように唯物論は、肉塊に対する喜悦を、肉塊が含む栄養に帰結させる。特に旨味はグルタミン酸で抽出され得ることは知られている。ただしそこで得られる喜悦は一般の日本人を想定した経験論であり、全ての人に有効ではないし、全ての動物に有効ではないし、全ての存在者に有効ではない。世の中には魚が好きな人もいれば、嫌いな人もいるようにである。エンゲルスの例えは、このような個人の嗜好に関して無頓着な経験論であり、その出来映えは蓋然的で不十分である。とくに不備が気になるのは、知覚対象から抽出される情念の対応要素は物体なのだが、物体要素を詳細に分析しても知覚に留まり、情念にならないことの説明の不備である。この説明が持つ困難は、肉体と意識の因果連繋を説明する場合と同じ困難である。とは言えさしあたり意識は肉体との因果連繋を了解しており、そこに疑いを挟むのは欺瞞である。例え存在しない肉体の痛みだとしても、意識は既にそれを肉体に結び付けて考える。それと同じことは情念と知覚との因果連繋にも該当する。意識は情念は知覚との因果連繋を了解しており、そこに疑いを挟むのは欺瞞である。すなわち恐怖と蛇の表象の因果連繋は、その意識において既に固有の必然を得ている。疑いを挟む余地があるのは、とどのつまり知覚と物体との因果連繋である。すなわち旨味刺激とグルタミン酸の因果連繋である。


7)唯物論における情念の復権

 知覚と物体の因果連繋は意識の了解の圏外にあり、いきなり物理において説明される。すなわちそれは、グルタミン酸が味覚刺激として神経にどのように影響を与えるかの因果連繋として現れる。この物理に対して脱自した意識は、その肉体から離脱において、自らの肉体上の物理をあたかも他人事として捉える。それが他人事ではない因果連繋であるのを意識が知るのは、グルタミン酸の旨味が実際に情念として現れたときである。なお情念が個別の事情に応じて発現することは、情念を知覚対象から切り離す理由とはならない。情念は知覚対象により惹起されたのであり、知覚対象なしに惹起されない。すなわち知覚対象と情念は、因果連繋している。それに対して古典的な観念論は、情念が持つこの経験的偶然性を自由な意識の恣意とみなし、情念を不条理なものとして合理的知性より格下に扱ってきた。しかしこのような情念の扱いは、エンゲルスの蓋然的な例えよりさらに悪い。それは個人の抱える個別の特殊条件を無視するだけに留まらず、個別の情念の発現差異を可能にする条件、すなわち個別の事情を分析し、それに対処する方途を塞ぐからである。このような情念の扱いは、情念の科学的分析の妨げである以上に、一般者による個人の隷属になっている。それは単に非科学であるだけでなく、倫理に反する情念定義として批判されるべきである。情念の復権は、非合理を要求するものではなく、その逆である。


8)情念から知覚への派生の可能性

 ハイデガーは事物を道具性を喪失した道具に扱い、そこに意識の頽落を見い出す。この道具と事物の派生関係と同じことは、情念と知覚の間に現われなければいけない。ただし派生が可能であるなら、情念には知覚が既に含まれなければいけない。しかし情念が知覚を包括するとなれば、情念は知覚対象を属性としており、情念を分析すると知覚対象を抽出できることになる。すなわちそれは、喜悦を分析すると肉塊の視覚映像を抽出できると言うことである。当然ながらそれは、喜悦が肉塊の空間的延長を内に含むことを表現し、喜悦から道具的要素が洗い流されれば、後に肉塊の空間的延長が現れ出るのを期待させる。あるいは旨味成分が喜悦を惹起するように、喜悦が肉塊の物理構造を現成させるのを期待させる。しかし肉塊の物理構造が喜悦を惹起するのと違い、喜悦が肉塊の物理構造を現成させるイメージは難しい。なぜなら喜悦は空間的延長から離れた存在者だからである。意識は肉塊から喜悦を派生させる場合、喜悦の姿を好きな情念の在り方に染められる。それができるのは、喜悦にはもともと定められた在り方が無いからである。そして在り方が無いゆえに、意識が喜悦にいかなる在り方を与えたとしても、困ることは起きない。実際に個々人の趣味は異なる。ところが逆に喜悦から肉塊を派生させる場合、意識は肉塊の姿を好きな形や色で染めるわけにいかない。肉塊にはもともと空間的な姿があるからである。そして空間的な姿があるゆえに、意識が肉塊に出鱈目な空間的姿を与えれば、困ったことが起きてしまう。それは個人の思い込みの空間的姿に留まっており、共存する他者が持つ空想的姿と不整合を起こす。もちろんそれは、思い込みの空間的姿が肉塊の物理的実在と乖離しているからである。知覚から情念への派生が意識の自由になるのに対し、情念から知覚への派生は意識の自由から離れている。それは情念から知覚への派生はできないこと、あるいは情念は知覚に包括されてのみ発現することを表現している。しかしこのように意識による空間の恣意的構成が不可能であると述べても、それを証明することは困難である。もちろんこの困難は、独我論の困難であり、別途に独我論批判をする必要が生まれる。逆にさしあたり独我論に承服しないのであれば、情念から知覚への派生の不可能も既に説明されている。


9)実在と実在性

 意識の自家撞着を避けるためには、情念から知覚への派生が必要であった。しかしハイデガー式に実在を生死の重みとして捉えると、その情念の実在は物理的実在と不整合を起こし、実在は物体と生死の重みの二つの姿に分かれて現れてしまう。なるほど生死の重みは物体に現実感を与える。しかし物体は現実感を与えられずとも既に現実にある。結果的に実在は、物体の現実と意識の現実感とに分かれたままになる。それが表現するのは、実在と実在性の乖離である。ハイデガーはこのことに気づいており、急遽「存在と時間」第三編発表を中止し、「現象学の根本問題」の形で「存在と時間」の続きを書いている。そこでハイデガーは実在と実在性の乖離を取り上げ直すのだが、そこでの物理的実在は頽落から離れて現実的に捉えられている。内実として「存在と時間」で目指した情念から知覚への派生は放棄され、ヘーゲル存在論と癒合を始めている。それは唯物論に対抗し、意識による物理的実在の支配をもって意識に実在を与える存在論である。しかしこの存在=所有の視点は、「存在と時間」でハイデガーが示した存在=在り方の優れた視点と整合していない。ハイデガーはむしろ存在=在り方の視点を維持したまま唯物論に転じて、「存在と時間」を発達心理学として確立した方が良かったのではないかと筆者は考える。
(2018/09/30)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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