唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(緒論 在り方の意味への問いかけ)

2018-08-26 22:23:56 | ハイデガー存在と時間

 「存在と時間」でハイデガーは、存在了解から始めて、脱自(=時間性)において運命の悟りに達する現存在の在り方を記述し、存在を現存在の実存から基礎づける存在論を提示した。ここでは、「存在と時間」の緒論における現存在分析の課題的優位の説明部分を概観する。

[緒論の概要]

 存在の意味を問う者は、あらかじめ存在の意味を了解している。それだからこそ存在の意味を問うのが可能である。その問いの形状を見ると、問う者は相手に問いかけ、答えを得る。すなわち問いにおいて問う者は、存在者に問いかけ、問われている存在の意味を得る。それは、問いにおいて問う者が問いの対象を露わにして、問いの答えへと仕上げる現象学手法になっている。ただし存在者は存在ではない。それゆえに問いを問いかける相手も、存在の意味を了解する特異な存在者でなければならない。その存在者とは問う者自らであり、現存在である。諸科学においての存在の意味とは、探求者における在り方として探求の前提である。したがって存在の意味の解明は、諸科学における優先事項である。とくに探求者の在り方は、探求者自らが存在の意味を問う点で、存在であると同時に存在論になっている。実存とはこの探求者の存在であり、実存論とはこの実存についての理屈を言う。実存の構造は「世の中での在り方」(世界内存在)であり、その了解は、「世」と「在り方」の二つの存在了解を含む。現存在はもっぱら世の日常から在り方を了解する。このことから在り方はその本来の姿を隠蔽される。その本来の姿は日常の世俗時間の対極であり、時的成熟する現存在の在り方、すなわち時間性(=脱自)である。ただし存在の意味としての時間性についての古人の見解は既に古いものとなっている。現代において時間性は既に歴史性に通じるからである。そしてこの歴史性もまた、世俗伝統により隠蔽されている。ハイデガーは、これらの隠蔽の起源をアリストテレス存在論に求め、それをもって存在論史の破壊を呼びかける。


1)存在の意味を問う必要、およびその方向

 まずハイデガーは、存在について次の3点を断言する。

 ・存在は概念として不明瞭である。したがって存在は類ではない。それは超越者である。
 ・存在はその普遍性において存在者ではない。ただし存在はそのように定義可能である。
 ・存在は了解されている。しかしその意味は自明ではない。

 不明瞭で自明扱いの概念を論理の基礎に措くのは、哲学の恥である。それゆえにハイデガーは存在の意味を問う必要を訴える。しかし存在の意味を明らかにするための材料は、もっぱら問うべき対象としての存在の意味を前提にする。したがって問う者は、「ある」を前提にして「ある」を定義する循環論証の困難に向き合っている。その困難が問う者に対して要求するのは、循環の外に立ち、自らの有限性を脱した神の視線である。ところがその問いは、既に発せられている。問いを発した以上、問い自体に存在の意味は含まれている。例えば河童とは何かと問う場合、その問いを可能にするのは、問う者における河童についての何らかの了解である。ただし存在についての了解は、河童についての了解のような経験的な了解ではない。その了解は経験に先行しており、先験的である。当然ながら存在の意味は先験的概念であり、それについての問いかけも先験的な存在者の在り方、すなわち存在することとして現れる。そのようなことでハイデガーは、存在の意味への問いを分析することから始める。


2)存在の意味への問いを問いかける相手

 ハイデガーは存在の意味への問いを、存在者に対するその存在についての意味の探究と考え、それを次の3点で分節する。

 ・問われているもの    (問いの対象)   :存在
 ・問いかけられているもの (問いかける相手) :存在者
 ・問い求められているもの (問いの答え)   :存在の意味

 先述のように、問われているものは、問う者において既に了解されている。そして問い求められているものは、その問われているものを露わにしただけのものである。つまり問いの答えは、もともと問いの対象と同じものである。問いの答えは、問いの対象を露わにしただけのものである。一方で存在は、存在者を規定するものであり、存在者と区別されている。したがって問う者は、存在者を通じて存在の意味を規定できない。しかしそれでも存在者を通じて存在の意味を露わにしたければ、問う者は或る特異な存在者に対して問いかけを行うべきである。その特異な存在者とは、存在へと先験的に通じており、存在の意味を何らかの形で了解する存在者である。すなわちその特異な存在者とは、問う者自身である。ハイデガーはこの特異な存在者を現存在(Da-Sein)と言い表す。それは問いを発する唯一の存在者である。


3)存在と存在論、および実存と実存論

 諸科学が行う存在者の探求は、存在の意味を前提にして行う。探求は探求者の在り方であり、やはり存在することだからである。探求者が既に存在の意味を前提にして探求していることは、存在の意味への問いが存在論的優位を持つのを露わにする。現存在は自らの存在を起点にし、存在に関心を持つことにおいて自ら存在する。したがってその関わり方は、存り方であると同時に既に存り方論になっている。すなわち現存在の関心は、存在的であると同時に既に存在論的である。言い換えれば、現存在は自らの存在が存在論的なので、自らの存在に関心を持っている。ハイデガーはこの現存在の存在を実存と言い表す。現存在はこの実存との比較で、自らを自己本来的であるか非自己本来的であるかを区別する。ちなみに実存論とはこの実存についての理屈である。また現存在が実存論を構成する実存の構造は実存性と呼ばれる。実存性とは、実存する現存在の在り方の理念である。


4)世の中での在り方(世界内存在)

 ハイデガーは諸科学を存在者に対する現存在の在り方だと捉える。そしてその捉え方を普遍化する形で、現存在の存在構造を「世の中での在り方」(世界内存在)だと断言する。この表現が示しているのは、現存在における存在についての了解が、「世」と「在り方」についての二つの了解を既に合わせ持っていると言うことである。また諸科学を動機づけ、それらの存在論を基礎づけるのも、この現存在の存在構造である。これらのことは、存在の意味への問いが存在的優位を持つのを露呈させる。したがって現存在の存在構造分析は、現存在の実存論的分析として諸学に先だって解明されるべきである。すなわちそれは基礎的存在論にほかならない。先に発せられた存在の意味への問いは、存在了解の徹底化にすぎない。


5)現存在分析の方法

 現存在は自らの在り方を、もっぱら自ら対する世の側から了解する。それが露わにするのは、自らの在り方よりも世界についての了解を優先する現存在が持つ性癖である。またそれだからこそ現存在の実存は、存在的に身近であるのに関わらず、存在論的に隠匿される。現存在分析の困難は、このような現存在の性癖によったものである。前項において諸学による現存在の実存的分析は放棄されている。それゆえに現存在の実存論的分析は、現象学的手法を要する。すなわち存在者が自らを露わにする様に存在者に近づき、解釈することが求められている。このためにその分析は、まず現存在の平均的日常性を露わにする。しかし現存在の存在の意味を露わにするのは、平均的日常性ではない。上述のように、現存在の性癖において平均的日常性も実存を隠匿するからである。平均的日常性とは世俗である。現存在の存在の意味を露わにするのは、平均的日常から離れた現存在である。そこで示される存在の意味は、非日常としての時間性、すなわち脱自である。ただしこれは、存在の意味への問いの答えではない。脱自は、存在の意味への問いの答えに到着するための地盤にすぎない。


6)時間と脱自(時間性)

 脱自は世俗時間によって基礎づけられない。逆に脱自が世俗時間を基礎づける。もちろん現事実として世俗的現存在は、時間の中に存在する。それだからこそ時間は、現存在にとって自明的である。ところが存在者の在り方は、無時間的でも超時間的でも在り得る。このことは世俗時間の自明性が持つ非自明性を露わにする。すなわちこの現事実は、脱自が世俗時間を基礎づけているのを露わにする。現存在の存在構造分析は、この脱自の解明を通じて存在の意味への問いの答えにひとまず到着可能となる。そこで露わになるのは、次のことだけである。古人が示した存在の意味は既に古く、それは時間の地平において再度問い直されるべきだと言うことである。この指示が存在の意味を問う者たちに期待するのは、自らの紆余曲折が持つ必然性の自覚であり、時的成熟する脱自(時間性)についての悟りである。


7)歴史と歴史性

 時間を基礎づけるのが時間性としての脱自であるように、時間の中に在る歴史を基礎づけるのは非時間的な歴史性である。歴史性とは現存在の時間的在り方であり、脱自がこの歴史性を基礎づけている。現存在は到来において生起する既在としての過去である。したがってその過去は、現存在の世代として現存在に先んじている。過去を歴史にするのは現存在における問いであり、その問いを基礎づけているのは現存在の歴史性である。当然のことながら問いに示された歴史性は、問いの歴史的解明を要請する。そしてこれにより存在の意味への問いも、脱自だけではなく、歴史性において基礎づけられる形で完成する。逆に過去が現存在の問いを隠蔽する伝統であるなら、その伝統は現存在にとって世俗でしかない。それは世俗時間と同様に、頽落した世俗の歴史である。伝統は歴史における問いを自ら忘却しており、現存在に対しても忘却を強要する。その場合に問いから遊離した現存在の歴史的興味は、事象の羅列を追うだけの好奇心となる。


8)存在論史の破壊

 ハイデガーは、存在の意味への問いに関する哲学史でも、この忘却がギリシャ哲学の時代に既に起きていると考えている。そしてその存在論史の暴露と補正を、存在論史の破壊と名付けている。ハイデガーによると、カントはこの点について自覚しており、カント自らの時間論が世俗時間に埋没する一方で、脱自の解明を哲学の課題として捉えている。そしてカントにおける現存在の存在構造分析の欠落は、デカルトにおける存在の意味への問いの欠落を引き摺ったものとみなされている。さらにハイデガーは、デカルトの存在概念の根拠を中世スコラ存在論を経由する形でアリストテレスにおける被造性まで辿る。ただしアリストテレスより前のギリシャ哲学では、存在了解を自然世界から得ており、その了解では脱自が意識されている。忘却はプラトン弁証法とアリストテレス存在論において発生したとされる。プラトンにおける語りを通じた存在の現前は、アリストテレスにおいて存在の被造物化として現れ、それにより脱自の出番は失われる。そして時間もまたアリストテレスによって脱自から遊離した世俗時間になった、とハイデガーは考えている。


9)現象学について

 先に現存在の存在構造分析は現象学によって進められる、と宣言された。そこで諸論の最後にハイデガーは現象学についての説明を行う。
 まず「現象」は、次のように分別される。aの「自らである現象」はもちろんとして、これらの現象は全てもともとの自らである現象に基礎づけられている。

  a.自らである現象
  b.自らではない現象
   ba.自らを指し示す現象
   bb.仮象(歪んだ現象)
    bba.埋没(自らを隠蔽する現象)
    bbb.擬態(別の現象に化ける現象)

 一方で「学」は、次のように分別される。ただしハイデガーは古代ギリシャにおける本来の学をaの「語り」だと断ずる。なぜならそこでの真理は、異なる真理との一致によって確認されるものではなく、隠蔽を解いて確認されるものだったからである。

  a.語られているものを露わにする語り
  b.対比と承認を行う判断

 存在の意味への問いの分析で示されたのは、隠蔽されているのは存在者の存在であり、それはギリシャ哲学的表現では現象である。したがって現象学は存在論の手法であるだけに留まらない。ハイデガーによると、存在論は現象学であるよりほかにない。さらに学は本来的に語りであり、語りは「解釈」である。それゆえにハイデガーは、自らの現象学を解釈学と呼ぶ。
(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第1編1/2章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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