唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第一編 第三章 A 限定存在の推論)

2022-04-03 17:58:17 | ヘーゲル大論理学概念論

 推論は主語と述語のそれぞれに前提判断を含み、そのそれぞれの前提判断がまた同形式の推論で成り立つ。しかしその推論の無限分割は、直接的個物の中間辞をもって終焉しなければいけない。ヘーゲルはこのあからさまな唯物論の対極に、普遍の恣意的限定を擁立する。それと言うのも直接的個物の正当性は、結局のところ経験的偶然だからである。当然ながらその恣意は、現実的正当性に捕らわれるだけの推論の対極となる。しかしそれは一方で恣意的中間辞にしたがう誤謬推理を生む。推論はそれらの反省のもとで、蓋然的推論を経て必然的推論へと進む。それらの諸契機は、悟性の主観が理性の客観に至るための必然的な行程となっている。

[第三巻概念論第一編「主観性」第三章「推論」A「限定存在の推論」の概要]

 推論の一般的諸性格と各種推論の推移の紹介、およびその始まりである直接推論の論述部位
・推論の諸性格
 -推論        …主観に留まる判断を客観として擁立する理性
 -中間辞(媒辞Mitte) …主語と述語の対立する二項の結合の根拠
 -小前提       …推論の主語に対する前提判断
 -大前提       …小前提の述語に対する前提判断
 -推論の全容
 ・限定存在の推論   …質的推論。直接的諸限定と普遍の一致を擁立する抽象的な定言的推論
 ・反省の推論     …量的推論。限定存在の推論の具体的限定を廃棄し、二項の外面的一致を擁立する蓋然的推論
 ・必然の推論     …本質的推論。反省の推論の特殊限定を廃棄し、実体と現象の本質的一致を擁立する必然的推論
・限定存在の質的推論の全容
 -具体-特殊-普遍 …推論の第一格。“この人はアテナイに暮らす。そしてアテナイはギリシャに含まれる。したがってこの人はギリシャ人である”
            恣意的偶然に擁立される中間辞による、恣意的偶然な結論の擁立
 -特殊-具体-普遍 …推論の第二格。“アテナイはこの地であり、この地はギリシャに含まれる。ゆえにアテナイはギリシャに含まれる”
            第一格大命題の恣意的偶然に擁立される中間辞に対し、中間辞に直接的個物を擁立。具体の普遍化
 -具体-普遍-特殊 …推論の第三格。“この人はギリシャ人であり、ギリシャ人はアテナイに暮らす。ゆえにこの人はアテナイに暮らす”
            第一格小命題の抽象的普遍に留まる普遍の限定。普遍の特殊化。恣意的推論
 -普遍-普遍-普遍 …推論の第四格。普遍的な具体と特殊な普遍の同格化


1)理性としての推論

 概念の主観判断は、具体的普遍の自己自身と自己を判断の主語と述語のそれぞれに分離し、それを繋辞により統一した。しかしその判断における統一は表面的であり、最後に現れる必然判断であってもそれは主観に留まる。推論はこの分離した概念を回復する理性である。したがって推論が完全な概念を擁立する。これに対して悟性は、概念の選言的限定だけを行う。その悟性が擁立した概念の自己自身を概念の自己に統一するのは理性である。それゆえに推論は理性的であり、理性的な判断は全て推論である。一方で悟性の概念を擁立する選言は理性とみなされてきた。それに対して理性は推理能力だと理解されている。しかし推理能力なしに悟性の選言は不可能である。理性は神や自由のような無限者の認識にだけ必要なのではない。無限者は無内容な抽象ではなく、充実した具体であり、限定された概念である。そしてこのことは理性自身にも該当する。理性は悟性の限定的理性を包括するだけでなく、それを否定して超越する判断の充実した全体である。


 1a)推論における中間辞(媒辞Mitte)

 判断における主語と述語の統一が繋辞を必要としたように、推論では主概念と述概念を統一する媒辞を必要とする。あるいは繋辞は既に媒辞である。媒辞は二項に対立する中間辞である。そして媒辞は二項を支える根拠でもある。それは中間辞なので、既に二項の並存は前提されている。むしろ二項の分離に執着する限り、推論はおろか判断においても二項は統一し得ない。その統一は、判断の時と同様に最初は直接的である。それゆえに推論は、肯定判断での主語述語の統一の時と同様に、限定存在の推論として始まる。あるいはもともと肯定判断は、限定存在の推論として始まっている。ただしその単純かつ抽象的な限定は、悟性水準の推論である。この限定存在の推論において中間辞は、諸限定の他項との関係をも含む。この点で限定存在の推論は、特殊に成立する限定推論にすぎない。このことの反省は、限定存在の推論を反省の推論に転じる。反省の推論は中間辞を媒介として擁立しており、推論の二項も互いに媒介されたものとして関わる。それゆえに反省の推論では、媒介されていることが推論の一般的姿に転じている。反省の推論は二項の蓋然的一致を擁立する一方で、一致を普遍的に擁立させる概念および中間辞に関与しない。このことの反省は、反省の推論を廃棄し、それを必然の推論に転じる。その推論は、二項を普遍的に一致させる概念または法としての実体を擁立する。
 ・限定存在の推論 …質的推論。直接的諸限定と普遍の一致を擁立する抽象的な定言的推論
 ・反省の推論   …量的推論。限定存在の推論の具体的限定を廃棄し、二項の外面的一致を擁立する蓋然的推論
 ・必然の推論   …本質的推論。反省の推論の特殊限定を廃棄し、実体と現象の本質的一致を擁立する必然的推論


2)限定存在の定言的推論

 限定存在の判断に則って言えば、限定存在の推論も主語の直接的な具体を普遍に高め、述語の普遍を具体化する推論である。ただし推論において主語と述語の二項はいずれも概念であり、具体的な普遍になっていない具体的限定が直接的概念として二項に現れる。したがってここでの推論も判断の開始の時と同様に“これはあれである”の形で始まる。ただしそれが推論として現れるのは、それが小前提“これはそれである”と大前提“それはあれである”を組み合わせた二つの判断の省略形として現れている場合である。この具体的に見える抽象的な推論は、そのまま本来の形式的推論である。例えば“この人はギリシャ人である”が推論である場合、もともと判断の形式上でその主語と述語は、それぞれ具体と普遍である。さしあたり述語のギリシャ人は、具体的主語のこの人を包摂する普遍である。このときに概念は、両者の中間に例えばアテナイ人のような特殊として現れる。例えばそれは“この人がアテナイに暮らす。アテナイはギリシャ国家を構成する市郡である。したがってこの人はきっとギリシャ人である”のようにである。この場合に推論を支える中間辞は、アテナイの概念である。ここでの普遍は特殊を中間辞として包摂し、特殊の中間辞は具体を包摂する。ただし直接的推論は、中間辞をまだ擁立していない。あるいは擁立した中間辞を省略している。


 2a)推論の第一格(具体-特殊-普遍)

 悟性の直接的推論の各項の形式は、直接的な内容限定である。したがってその限定存在の推論は、質の推論である。その一般的な推論形式は、具体-特殊-普遍の3段論法である。具体と普遍の連携は、特殊を媒介にして成立する。例えばそれは“この人はアテナイに暮らす。そしてアテナイはギリシャに含まれる。したがってこの人はギリシャ人である”の推論として現れる。これに対して具体-普遍の2段論法は、推論の余地が無い独断である。例えばそれは“この人はギリシャに暮らす。そしてギリシャに暮らす人はギリシャ人である。したがってこの人はギリシャ人である”の空虚な推論として現れる。しかしこの推論の内実は“この人はギリシャ人である。そしてこの人はギリシャ人である。したがってこの人はギリシャ人である”の独断である。普遍は特殊を包摂し、特殊は具体を包摂する。逆に特殊は具体の内属であり、普遍は特殊の内属である。最初の例から言えば、特殊としてのアテナイは、“ギリシャ国家はこの人を含む”または“この人はギリシャに暮らす”の最終的な独断を論理的結論にするための中間辞であり、媒辞である。接続詞として現れる「だから」「それゆえに」「したがって」は、この特殊の媒介を表現する。一見するとこの媒介表現は、推論の根拠を主観的反省に引き戻す。しかしそれら接続詞の消失は、逆に推論を独断に変えるだけである。逆にその接続詞が独断の空虚を充実し、独断を独断ではないものに変えている。ただしそれだからと言って、推論を単に三つの判断に分解するのは無益である。綜合された判断の分解によって導出される推論は空虚である。推論は綜合されていない判断を綜合する導出において充実する理性である。


  2a1)悟性の形式的推論の偶然性

 限定存在の推論における具体は無限定な個物であり、特殊はその個物の質的限定であり、普遍はその質的限定の一般的姿に留まる。この個物の無限定に対して特殊は個物の一部を限定するだけであり、その一部がどのような質的限定なのかも不特定である。そこで特殊は偶然な恣意に従って特定され、その特殊に対応して普遍も特定される。したがってこの具体と特殊の偶然な結合は、そのまま具体と普遍の結合を偶然にする。またここでの特殊も具体の質的限定なので、個物と同様に無限定である。そこでその無限定は、具体と普遍の結合をさらに偶然なものにする。この偶然は主語に対する無限な推論を可能にする。経験論では或る場合に主語に対して推論されるものが、或る場合に正反対に推論される。例えばキャンバスに塗られた色は或る時は黄色であり、或る時は赤である。したがってその色に対する経験的推論は、黄色でも赤でも正当である。しかしその推論の正しさは、キャンバスに塗られた色に対する一般的な結論を導出するものではない。すなわち偶然に従う特殊の特定は、そのような推論全体を経験的偶然に変える。ここにカント弁証論に見られたような推論の正反対の結論の余地が生じる。しかし中間辞の偶然が結論を偶然にするのであれば、逆に中間辞の必然は結論を必然にする。悟性の不可知論は推論不能の結論を出すが、それは理性における推論可能の影である。またそうであるからこそ、推論は不能だと推論する悟性の矛盾が可能となる。この中間辞の偶然は、主語に無限定な個物を擁立する形式的推論の形式に従う。


  2a2)形式的推論の形式的純化

 形式的推論は以下の構成になっている。
(小前提)    (大前提)    (結論)
具体は特殊である。特殊は普遍である。具体は普遍である。
・小前提…主語の具体と中間辞の特殊の関係についての前提命題。
・大前提…中間辞の特殊と述語の普遍の関係についての前提命題。
・結論 …主語の具体と述語の普遍の関係について擁立された推論。
推論が含む大小の前提命題は、いずれも判断であり推論ではない。しかし判断自身が主語の具体と述語の普遍の関係であるなら、やはりそれは推論の結論である。このことは形式的推論の形式と対立する。逆にそれらの命題が推論の結論でなければ、それらは主語と述語の等しい無内容な同一命題となる。そこでこの形式的推論を形式的純化しようとすると、大小前提もそれぞれ個物・中間辞・普遍の推論に展開される。そして展開された推論が含む大小前提にも同じことが該当する。
           結論
          /   \
       小前提     大前提
     /(結論)\   /(結論)\
  小前提   大前提   小前提   大前提
 /(結)\ /(結)\ /(結)\ /(結)\
 小前 大前 小前 大前 小前 大前 小前 大前
もともと推論は、質的判断の主語と述語の擁立された完全な一致である。ところがその純化のために展開された推論の無限累進は、その前提命題において主語と述語の不一致を再び現す。しかしそれは、推論を不可知論に引き込む悪無限である。そうであるならこの無限累進は、その展開の終端において推論第一格の具体-特殊-普遍を別様に展開する。ただし各前提ともその推論は、中間辞を特殊とする。そしてその中間辞を擁立するのは、恣意的偶然である。そうであるならその特殊は具体でも普遍でも良い。ただし一つの命題は具体-普遍-具体のように、主語と述語が同じ具体や普遍となるわけにいかない。それゆえに推論第一格は、小前提の具体-特殊の中間辞に普遍を擁立し、大前提の特殊-普遍の中間辞に具体を擁立する。なお以下では、中間辞の登場順にそれぞれを第二格と第三格で表現する。
第二格 …特殊-具体-普遍
第三格 …具体-普遍-特殊


 2b)推論の第二格(特殊-具体-普遍)

 大前提命題が変様した推論“特殊は普遍”は、中間辞に具体を擁立する。したがってこのときの推論を媒介するのは、個物の直接性である。例えば“アテナイはギリシャに含まれる”の推論は、“アテナイはこの地であり、この地はギリシャに含まれる。ゆえにアテナイはギリシャに含まれる”と進む。小前提“アテナイはこの地である”は包括内属関係が逆転しており、正当な推論関係を擁立していない。しかしここでのアテナイは、限定された直接的特殊である。その限定は、主語の特殊を具体化する一方で述語の具体を拡張して特殊化する。すなわちその述語に現れる具体は、直接的具体ではない。また第一格推論における小前提“具体は特殊”は、具体を既に特殊化している。さらに第一格推論における結論“具体は普遍”は、具体を普遍化している。このような特殊化または普遍化した個物は、特殊を包括する普遍となる。そしてそのような個物は、特殊と普遍の中間辞としての資格も得ている。結果的に第二格の小命題“特殊は具体”の内実は、第一格の小命題“具体は特殊”と変わらない。すなわち第二格は第一格を前提する。したがってそれは主語の特殊の具体化でもある。


  2b1)第一格の前提としての第二格

 一方で推論の第一格における中間辞の恣意的偶然は、個物の直接性に従っている。そしてこの中間辞の直接性が、第一格を構成する第二格を第一格に対して原初的にする。この点でむしろその直接的な中間辞は、やはり特殊ではなく具体である。ところが他方で推論が擁立する主語と述語の関係は、中間辞を介した直接性の廃棄である。それゆえに第二格の中間辞は、直接性を擁立し廃棄する否定的統一になっている。ここでの具体の特殊化と特殊の具体化は、第一格における抽象的な両者の具体的な原初の姿である。それゆえにやはり第二格は第一格を構成し、第一格は第二格を前提する。なお第二格の普遍は、特殊化した具体に対応する特殊化した普遍である。第二格は特殊を普遍に高めることで、普遍を特殊に引き下げている。このような第一格の第二格への推移は、第一格における抽象的な具体・特殊・普遍のそれぞれを具体化する。したがってその推移は、概念の具体化であり、その実在化の端緒である。


  2b2)第二格の推論の直接的正当性

 第二格の前提は、その大小命題“特殊は具体”“具体は普遍”であり、さらに第二格に先行する第一格の小命題“具体は特殊”である。ここでは具体が二度主語となり、普遍と特殊はその具体の内属である。しかし具体は第二格の大小命題において中間辞であるが、第一格では中間辞ではない。起点の主語に特殊を立てる第二格は、第一格の偶然を排除する。そしてこの偶然の排除が、第一格の第二格への推移を根拠づけている。まず第二格は、第一格が擁立した正しい具体を中間辞に立てる。したがって第二格の推論の正しさは、第一格が擁立する。このことを端的に言えば第二格は“特殊は正しく、正しいのは普遍である。ゆえに特殊は普遍である”である。先に小命題が主語に直接的な正しさを付与するので、この結論は常に正しくなる。しかしこの正しさは、どちらかと言うと同一律の虚しい正しさである。次に同じことが第一格にも該当し、それは“具体は正しく、正しいのは普遍である。ゆえに具体は普遍である”として現れる。このときに第一格の中間辞に現れる特殊の正しさを決定するのは、やはり第二格である。すなわち第二格の推論が、第一格の推論の正しさを決定する。その正しさは、第二格の中間辞に現れる具体の直接的な正しさに従う。またそうでなければ第一格の推論の正しさは、無根拠である。このような第一格の第二格への必然的な推移は、第一格の小命題“具体は特殊”を否定し、それに“特殊は具体”を代置する。しかしそれがもたらす第二格の結論“特殊は普遍”は、特殊と普遍を同格にする。このときにどちらを特殊と普遍にするかを決定するのは、恣意的偶然である。


  2b3)具体の中間辞の普遍化

 第一格の推論の主語と述語は、特殊な中間辞の恣意的偶然において同一である。これに対して第二格の推論の主語と述語は、具体の中間辞の直接的正しさにおいて即自的に同一である。しかしそこで同一なのは、具体の無限に多様な外面である。したがって第二格の推論の主語と述語は、中間辞の無限に多様な外面を共有する。すなわちその中間辞の具体は、具体自身を超えて普遍化している。ところがそうであるならその普遍は、あらかじめ既に主語と述語を直接的に結合している。このときに第二格の推論は、具体の中間辞を擁立する必要を失う。ただしこの中間辞の擁立の不要は、具体の中間辞を擁立した結果にすぎない。すなわち具体の中間辞は、最初から不要だったのではない。この具体の中間辞を廃棄した主語述語結合の直接性は、具体の中間辞を擁立した主語述語結合の直接性と異なる。それは廃棄された存在の最初の直接性であり、対自した即自的直接性である。それは無限に多様な外面の抽象であり、それゆえに逆にその無限に多様な外面を廃棄している。つまりその直接性は抽象的普遍であり、すなわち“である”である。しかし抽象的普遍が特殊と普遍を直接に結合するのであれば、特殊と普遍はそれらが含む限定から離れて結合されてしまう。このような第二格は、その推論の正しさにも関わらず、具体の中間辞を擁立した経緯を忘却した空虚な結合となる。ただしその空虚を再び具体の中間辞の直接的正しさにおいて充実するのは、悪無限である。それゆえに推論の第三格“具体は特殊”において、中間辞に第二格が擁立した普遍が現れる。したがって第二格における特殊と普遍の同格も、推論の第三格が補正する。


 2c)推論の第三格(具体-普遍-特殊)

 小前提命題が変様した推論“具体は特殊”は、中間辞に普遍を擁立する。したがってこのときの推論を媒介するのは、普遍の直接性である。そうであるなら例えば “この人はアテナイに暮らす”の推論は、“この人はギリシャ人であり、ギリシャ人はアテナイに暮らす。ゆえにこの人はアテナイに暮らす”と進む。この推論の小前提“具体は普遍”は、第一格が正当な推論関係を擁立している。それに対して大前提“普遍は特殊”は包括内属関係が逆転しており、正当な推論関係を擁立していない。したがってアテナイに暮らさないギリシャ人が、この推論を偽にする。ただし否定判断であれば、主語の普遍は具体に転じる。それゆえにこの推論に可能な大前提は、否定判断“ギリシャ人はアテナイに暮らさない”となる。このときに推論の結論は“この人はギリシャ人であり、ギリシャ人はアテナイに暮らさない。ゆえにこの人はアテナイに暮らさない”の必然判断に転じる。ただし否定とは限定なので、大前提の否定は限定でありさえすれば良い。そして第三格の中間辞は、既に最初に直接的普遍として示されている。このために大前提は、普遍の限定を示すだけで良い。それは例えば元の“ギリシャ人はアテナイだけに暮らす。”の事実に反する命題でも良い。このときに大前提の包括内属関係も再び逆転する。したがって推論の結論は、元の“この人はギリシャ人であり、ギリシャ人はアテナイに暮らす。ゆえにこの人はアテナイに暮らす”でも十分に必然判断となる。実はここで“普遍は特殊”として現れた主語述語の包括内属関係の逆転判断は、既に第二格の“特殊は具体”で既に現れている。いずれにおいても限定を通じた主語の否定が、主語の普遍を特殊化し、また主語の特殊を具体化し、判断を必然判断に転じている。


  2c1)第三格における具体と特殊の同格

 第三格“具体は特殊”は、第一格“具体は普遍”と第二格“特殊は普遍”の結論を前提にする。ただしこの第一格と第二格の主語は、限定された普遍として具体である。そして第一格と第二格の述語は、普遍化した具体として特殊である。したがって第一格と第二格は、ともに第三格を前提にする。第一格と第二格の結論に従うと、第三格での具体と特殊はともに普遍である。したがって第三格の中間辞に普遍が現れると、具体と特殊は同格になる。先の例で言えば“この人”と“アテナイに暮らす”は同格である。ただしそれは、普遍の内容が現れない限りの同格である。普遍の内容が現れれば、具体と特殊の包括内属関係も同時に現れる。この場合だと具体と特殊の同格も崩れる。それゆえに具体と特殊の同格は、両者の内容的な無関心として現れる。一方でこの主語と述語の無関心は“この人はアテナイに暮らす”と“アテナイに暮らすのはこの人である”の逆転を可能にする。いずれにおいても中間辞に現れるのは、無内容な抽象的普遍“である”である。この包括内属関係の欠けた推論が、推論の第三格を第四格に転じる。


 2d)推論の第四格(普遍-普遍-普遍)

 数学的推論“二つの物または規定が第三者に等しければ、二つは互いに等しい”では、推論の二項の包括内属関係が消失している。ここでの推論の中間辞に現れる第三者は、推論の二項を何も限定しない。そこで二項と中間辞の三者は、全て入れ替わりが可能となる。したがってこの推論は三者の質を廃棄し、三者の関係を量的な同等または不等に転じている。またこの質の廃棄が、数学的推論の第一公理としての貧弱な抽象的自明性を支えている。この質的関係の量的関係への転換は、これまでの推論形式が持つ中間辞そのものの特殊性を廃棄し、それを普遍化する。すなわち第四格の中間辞の抽象的普遍は、第一格の直接的特殊として始まり、第二格の直接的具体を経由し、第三格の直接的普遍まで推移した中間辞の最終形である。つまりその抽象的普遍は、それぞれの格において中間辞が演じて来た抽象的否定の具体化である。この自立した抽象的普遍と比べると、第一格から第三格までの推論はそれぞれが他の格を前提にし、それら全体の統一における即自対自態にすぎない。もともと推論において中間辞に期待されるのは、二項の統一である。しかし二項の統一を他の格が担うのであれば、中間辞は不定な抽象的普遍に転じる。そしてこの質の捨象が量的な数学的推論をもたらす。それは量的同一により二項の具体的同一を擁立する点で積極的意義を持つ。しかし逆にそれは、質的同一による二項の形式的同一を排除する点で否定的役割を果たす。それゆえに第四格は次に、第一格から第三格までの推論のそれぞれの正当性を反省の上で擁立する。


  2d1)第四格における推論の後退

 自然的悟性は、実態の伴わない無内容な反省形式を排除し、その中に論理的理性の研究も含めようとしている。この一つの背景に皮相な三段論法のような形式的推論がある。それは諸限定を抽象的な質に固定し、諸限定の間の中間辞の擁立に対して無関心である。さしあたりそれが排除するのは、二項の質的同一である。この二項の質的同一とは、例えば具体が普遍を内属するゆえに普遍でもあること、普遍が具体を含むゆえに具体でもあることを言う。そこには具体と普遍を否定的に統一する特殊が中間辞として現れる。ところが形式的推論での中間辞は、二項の統一ではない。それはただ単に二項と質的に異なる抽象的限定である。このような形式的推論に対して推論は、対立する諸限定の間に中間辞を擁立する。すなわち推論が二項の質的同一を中間辞として擁立する。二項の質的同一を擁立する推論に対し、形式的推論は二項の質的同一を排除する。このことが示すのは、形式的推論が推論ではないことである。そしてこのような形式的推論を論理的理性の研究に持ち込んだのは、数学的推論である。このような形式的推論は推論形式の弁証法的進展を排除するので、具体-特殊-普遍の推論形式を普遍化する。しかし抽象的限定にすぎない中間辞は、二項の否定的統一を果たせない。その具体的ではない中間辞は、正反対の中間辞に転用できる。それは中間辞の向きに従い、二つの推論の一方と他方を正反対の結論に導く。その恣意性は、例えばYの複次式の微分値がX軸の諸点において正値にも負値にもなることに現れる。そしてそのような概念の欠落した推論が、“全てのキリスト教徒は人間であり、ユダヤ人はキリスト教徒ではない。ゆえにユダヤ人は人間ではない”の皮相な三段論法をもたらす。演算の合理性は、演算を限定する概念に従うのであり、その逆ではない。

(2021/11/25) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第三章 B) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第二章 D)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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