唯物論者

唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第2編第6章 脱自と時間)

2018-08-28 23:25:26 | ハイデガー存在と時間

 「存在と時間」の時間論は、脱自としての時間性を世俗時間に連繋する形で締めくくられる。しかしハイデガーにとって世俗時間は、時間性の頽落した成熟態にすぎない。当然ながらその点に無自覚な時間論は、時間論としての不備を抱えていると考えられる。その世俗時間論批判は、ヘーゲルへと向かうことになる。ここではヘーゲル時間論を主題にして動因不在のヘーゲル弁証法を批判した第2編第6章を概観する。


[第2編 第6章の概要]

 ハイデガーは、脱自から時間が成熟する過程を以下の4つの側面から性格づける。

  • 日付の可能化
     「そのとき」…到来における脱自した予期。ここでの意味内容は「その場合なら」で表現される決意する現存在の条件選択。
     「あのとき」…既在において脱自した保有。ここでの意味内容は「昔は」で表現される現存在の原体験。
     「今」   …現在において脱自した現成。予期や保有の忘却において、単なる今へと純化する。
  • 時的間隔の実現
     到来において現存在は、予期される「その場合」の現成、および実現していない「今」の現成の間に、時間的な間隔を挟み込む。現存在は自らに、この時間性のさらなる脱自態を道具として与える。
  • 時間の公共化
     相互依存する現存在の日常的な在り方では、道具としての時間もその本来的在り方を失ない、自己に対してよそよそしく事物化した公共時間として現れる。
  • 世の中での本来的時間
     現存在における配慮に先んじて配慮する在り方は、自ら規定した日付や時的間隔に対して道具連関における適所を与える。この現存在の世の中での在り方に従う時間は、現存在の自己にとって本来的な世の中での時間(世界時間)として現れる。

 公共時間における時間の事物化が、現存在における予期と保有の忘却をさらに進めると、到来と既在を忘却した日常的な「今」が現存在の在り方を支配するようになる。この世俗時間では、同様に予期と保有を忘却した単にまだ今ではないだけの「未来」、単に過ぎ去った今にすぎないだけの「過去」が現れる。時間からの道具性の喪失は、時間を数えられた今へと抽象化し、無限に今が連なるだけの水平化された今時間に変える。ハイデガーはこの今時間の成立の背後に、死と決意を回避する現存在の頽落を見い出す。そしてその時間論批判の対象として精神を時間の中に落ち込ませたヘーゲルを選ぶ。ヘーゲルにおいて時間は、無限な空間的可能性と限定された現実的空間の対立を止揚するために現れた生成と消滅の形式である。したがって時間は外的な純粋意識であり、意識の形式を構成する。意識は純粋意識としての時間において現れ、時間は意識に優越する。それだからこそ意識は、必然的に時間の中に落ち込む。それに対してハイデガーは、時間の外にあった精神を時間の中に落ち込ませる推進力を問題にする。そしてヘーゲルの動因不在の弁証法に対し、その実存論の欠落を非難する。すなわち精神は時間の中に落ち込むのではなく、時的成熟した脱自において自ら世界時間と歴史を生起させると断じる。



1)脱自した予期・保有・現成としての日付

 ハイデガーは到来と既在と現在をそれぞれ「そのとき」「あのとき」「今」として現存在に語らせる。それぞれは現存在の脱自した予期・保有・現成であり、未来・過去・現在に対応する。それらの差異は、現存在にとっての日付を可能にする。ただしここでの「そのとき」は、むしろ「その場合なら」で表現される決意する現存在の条件選択であり、「あのとき」も「昔は」で表現される現存在の原体験を表現する。そもそも到来は既在を伴って現成するので、「昔」と「今」は共に「その場合」の時的成熟から派生する。ところがそれでいて「その場合」と「昔」は、共に「今」において現成する。さらに「その場合」の予期は、保有と忘却を伴って現成する。このために、もし現存在が「その場合」と「昔」のいずれか、または両方を忘却するなら、「その場合」や「昔」を現成しない「今」も現れ得る。


2)時的間隔としての時間

 「その場合なら」について現存在は、「今はまだその場合ではない」のを了解している。もちろんそれは簡単に言えば、未来は現在ではないと言うことである。しかし未来は現在として現成しないので、もともと未来と現在の間に時間的な間隔は無い。「その場合」と「今」の関係は、緑と四角の関係のように異なる次元の関係である。ところが現存在は、未来と現在の間に時間的な間隔があると決め込んでいる。そのことが露わにするのは、時的間隔としての時間が「その場合」と「今」の間で時的成熟していることである。言い換えるなら、現存在の在り方が「その場合」と「今」の間に時間的な間隔を挟み込んでいる。しかもその間隔は、さらに「その場合」と「今」の間に別の「その場合」を挟むことにより細分可能である。そのことは、時間の無限なまでの細分可能性、および時間の無限なまでの増殖可能性を表現する。この時的間隔としての時間は、脱自した脱自であり、すなわち時間性の脱自態である。現存在はこの時間を道具として自らに与えることさえできる。


3)公共的な時間

 日常的現存在では、道具はその本来的在り方を失い、自己に対してよそよそしい事物として現れる。同様に日常的現存在では、道具としての時間もその本来的在り方を失う。ハイデガーは時間の事物化を否定するが、道具としての時間が本来的在り方を失うなら、やはり時間も自己に対してよそよそしく事物化する。いずれにおいても道具を事物化するのは、日常的現存在の頽落である。日常的現存在は、自らの時間を自己から疎外する。それゆえに日常的現存在は、常に本来的な自らの時間不足を嘆くことになる。このような時間の非自己化は、相互依存する現存在の日常的な在り方に従う。この自己に対してよそよそしい時間を、ハイデガーは公共時間と呼ぶ。


4)世の中での時間(世界時間)

 現存在における配慮に先んじる配慮は、個々の道具に対して道具連関における適所を与える。それと同様に現存在は、自ら規定した日付や時的間隔に対して道具連関における適所を与える。なるほど時間の道具化は、最初は自然の陽光に連動する。しかし自然の刻時機能は現存在の世の中での在り方に従うだけである。自然の刻時機能は、現存在の時間性すなわち脱自に劣位する。そのことは、時計の登場が陽光の日付および時的間隔に対する刻時機能を無力化することからも知れる。この現存在の世の中での在り方に従う時間は、現存在の自己にとって本来的であり、自己にとって非本来な公共時間と区別される。この自己にとって本来的な時間を、ハイデガーは世の中での時間(世界時間)と呼ぶ。ただし現存在における本来の時間は脱自であり、世の中での時間は公共時間との比較において本来的であるにすぎない。脱自が世の中の時間を成熟させる。


5)世俗時間

 刻時や時間計測の精度向上による時間の道具性の追求は、逆に現存在に時間の道具性を忘却させ、時間を事物化させる。この場合に現存在における世の中の時間は公共化し、現存在における予期と保有の忘却がさらに進む。現存在の在り方を本来支配していたのは到来であるが、代わりに到来と既在を忘却した現在が現存在の在り方を支配する。現在は現前の場と言うよりも日常的な「今」となる。また予期と保有を忘却した到来も、単にまだ今ではないだけの「未来」となる。同様に既在も、単に過ぎ去った今にすぎないだけの「過去」となる。アリストレテレスによる時間定義は、数えられた運動の数であった。それは道具的な時間を指す正当な定義なのだが、時間からの道具性の喪失は、時間を数えられた今へと抽象化する。ハイデガーはこのような今の連続と化した世俗時間を今時間と呼び、それを無限に今が連なるだけの水平化された時間だと評する。そしてその今時間の成立の背後に、死と決意を回避する現存在の頽落を見い出す。さらにハイデガーはその同じ批判の矛先を、ヘーゲル時間論に向ける。


6)ヘーゲル時間論批判

 世俗時間における意識は、もともと時間の中にある。しかしこの時間論に満足しないヘーゲルは、時間の外にある意識を時間の中へと落ち込ませる。ヘーゲルにおいて時間は、点性と点の対立を止揚するために現れた生成と消滅の形式である。点性と点の対立とは、空間における形式と質料の対立であり、それは無限な空間的可能性と限定された現実的空間の対立として現れる。しかし意識はこの対立を同じ空間の次元内で解消できない。求められているのは「成」の直観である。そこで意識は、空間を超越する形式として時間を樹立する。もともとヘーゲルにおいて空間とは限定を否定した無限性であり、それを否定する時間は否定を否定する絶対的否定として現れる。したがって時間とは抽象化された意識そのものであり、外的な純粋意識として意識の形式を構成している。それゆえに精神は空虚な時間に対応する自己を歴史として生起させることになる。意識は純粋意識としての時間において現れ、時間は意識に優越する。もちろんそれが表現するのは、意識が時間の中に落ち込む必然である。もっぱら観念論が得意気に語る理屈として、物は意識において現れ、意識が物に優越すると言うものがある。ここでのヘーゲルはそれと同じ観念論を、時間と意識の関係において繰り返している。このようにヘーゲル時間論は、空間から時間を導出するものである。しかし脱自から時間を導出するハイデガーにすれば、それは世の中の支配に屈した頽落的時間論である。ハイデガーは、時間の外にあった精神を時間の中に落ち込ませる推進力を問題にする。そしてヘーゲルの動因不在の弁証法に対し、その実存論の欠落を非難する。すなわち精神は時間の中に落ち込むのではなく、時的成熟した脱自において自ら世界時間と歴史を生起させると言う。そして意識が時間の中に落ち込むのは、日常的現存在の予期と保有を忘却した公共時間への頽落にすぎないとしている。


(2018/08/26) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間第2編5章)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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