牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

11月26日(火) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑮>」

2013-11-26 05:58:17 | 日記

 前回の続きである。著者はヨハネの10章を引用しながら説明している。 

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。、、、、、わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1、8)

 本からの引用。「 「門から入らないで他の所を乗り越えて来る」「わたしの前に来た者」というのは、「受肉」せる神の子イエスを「経ずして」来たりし選民の指導者、すなわち「ユダヤ人の解したかぎりにおける」旧約聖書とその指導者全体をさしている。換言すれば単に「十字架なきメシヤ」を預言するものと見られた旧約聖書全体と、その著者全体とを意味した言葉である。しかしこれら旧約の人々が、すべて「イエスの日を見て喜」んだ人々であると解される時、旧約聖書「全体」は神の啓示の書であり、神の言葉であるということになる。このとき初めて、「その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)と言われているごとく、「キリスト証言の書」となるのである。、、、、、叙上の理解をもって見る時、ユダヤ人の聖書なる旧約聖書が、キリスト教会の聖書となるのは、「イエス・キリストの御霊」によって再解釈せられるからである、という言葉の意義が明瞭になってくる。 」

 この章の最後で著者はこのように書いている。「今や我々は新約聖書解釈の輪郭を展望し、その終わりに到達した。そしてこの「キリスト証言神学」によって次の四つのことが成し遂げられたことを見ることができた。
 その一は、新約聖書の旧約聖書解釈にあらわれた四つの解釈が、それぞれこの「証言的解釈」によって再解釈され、そして深化されたことである。
 その二は、原始教会の人々が求め続けた教会とキリスト教との会堂とユダヤ教とに対する優位性、先行性、否、その絶対性が、この「証言的解釈」によって、遺憾なく立証されたということである。
 その三は、「キリスト証言」と見ることによって、旧約聖書のキリスト化が、完全に成し遂げられたということである。すなわちこれによって旧約聖書は、もはやユダヤ教の聖書ではなく、キリスト教会の聖書となったのであった。
 その四は、上述のすべてが、教会を創設なしたまいし聖霊によって成し遂げられたということである。かくしてキリスト教は教会の創設者たる聖霊によって、そのいっさいが成り立たせられているということの解明であった。
 ここにおいて初めて聖書神学ひいては旧約神学と新約神学との基礎条件が明らかにせられたのである
。」

 今まで組織神学(教理)は自分なりに学んできたつもりだが(もちろんまだまだ不十分だが)、それと比べて聖書神学はあまり学んでこなかったように思う。この1-2年を通してこれからは聖書神学(旧約神学と新約神学)の学びが大事になってくると感じている。その学びによって聖書から語る説教も深みを増していくと思う。