牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

11月15日(金) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑪>」

2013-11-15 06:00:17 | 日記

 聖書の「約束」的構造論に続いて論じられているのは、聖書の「予型」的構造論である。

 本からの引用。「新約聖書における予型的旧約聖書解釈」とは、旧約聖書における「人物、出来事、機関、制度」などを「型」とし、これに対して新約時代のキリストを中心とする「人物、出来事、機関、制度」などをその「対型」とし、前者を後者の予表または予型とする解釈方法をいう。」

 「新約聖書の予型的旧約聖書解釈は、一見断片的のそれの散在のごとく見られるが、実はよく見ると、それには基盤的の二つの大きな予型的旧約聖書理解があることが分かる。もちろんこれは、預言的解釈の発達過程と同様、断片的のものから体系的のものへの発達であって、最初から基盤的のものがあったわけではない。この基盤的なる二つの予型的解釈とは、「選民(イスラエル)と教会」および「アダムとキリスト」という対応によって成り立っている。」

 まず「選民(イスラエル)と教会」である。「この対応関係は、全く包括的のもので、今まで述べてきた預言的、契約的および約束的解釈、ことに部分的の予型的解釈など、それらいっさいを含んでいる。教会がイスラエルの特徴をすべて持ちうるということは、イスラエルについて言われていること、またはそれが経験したすべての歴史的事実は、教会のそれらにおいて、対応関係に置かれるのであるから、この意味において前掲の諸種の解釈はすべてこの中に包括されるものということができる。そしてこの考え方こそこの予型的解釈全部の背後にあったもので、それがこの「選民と教会」という対応的表現によって、全面にあらわにされたのである。」 そして第二が「アダムとキリスト」である。

 「預言は新約聖書またはキリストを考えなくても預言であるが、予型は新約聖書またはキリストを知ることによって、それが「初めて」予型たることが知られる。、、、、今まで述べてきた新約聖書における旧約聖書解釈としての預言的、契約的、約束的および予型的の四解釈方法は、その根源に、ひとつの共通した救済史的神学を持っている。換言すれば、上述の四解釈は、それぞれこの救済史的神学による解釈の四側面である。この神学とは、キリストによって旧約聖書に現れている選民イスラエルのいっさいが、より高き次元において全く更改せられるというものである。」

 「この意味において、新約聖書の旧約聖書解釈の根源には、このキリストによるイスラエルの全歴史の「踏み直し」神学があったのである。エミール・ブルンナーは、この点を教義学的にとりあげ、イエスにおける聖なる出来事を、アダムによる堕落によって損なわれた「人と神との交通」を「やり直す」出来事としている。、、、、以上の意味において、キリストは、予型的に、新約聖書においては、イスラエルに対するメシヤであり、全人類に対する救い主であり、教会に対するキリストとして記されていることが分かる。」

 この予型的解釈によって旧約聖書を正しく解釈できると私は信じている。すなわち聖書は旧約聖書も新約聖書も一人の人物(神の御子)イエス・キリストに焦点を当てているということである。だから聖書を読む時、聖書から説教をする時に、イエス・キリストに焦点が当たっていないとすれば何かがずれている訳である。なぜなら聖書の中心はイエス・キリストであるからだ。