牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

11月24日(日) 「渡辺善太全集6<聖書神学論⑭>」

2013-11-24 09:35:26 | 日記

 前回の続きである。

 本からの引用。「正典的聖書神学者とは、聖書正典の「無限なる統一性」を信じ、かつこれに立ち、その点から六十六冊の、そして旧新約の書物それぞれの差異と矛盾とを、神学的に解明するよう努力するところに、その使命を持っている。もし彼が前述の二つの見方のうち、差異面に立って、統一面を見失うとすれば、彼は単なるイスラエル宗教史または原始キリスト教の研究者にすぎなくなるし、反対に、その統一面のみにその目をうばわれて、差異面を全く見ることができないとすれば、彼は単なる一独断者に堕するのである。この意味において、ヨハネの福音書の「キリスト証言的」聖書解釈は、これら二つの誤れる道のいずれにもゆかず、そこに正しき聖書神学建設を可能ならしめるものである。」

 「ただしかしここで注意しなければならないことは、キリスト証言という場合、キリストが「主」であって、証言が「従」であるという一事である。したがってそのキリストによる聖書の「統一性」は、その証言による「差異性」よりは、次元的にはるかに高いものであるということである。そうなればこそ、統一性によって差異性が解釈または解明されるのである。この意味において初代教会の預言的、契約的、約束的および予型的解釈となってきても、なおそれでとどまることをせず、ついにこの「キリスト証言的」解釈を生み出したのであった。これひとえに証言の「まと」または証言せられる者たる「生けるキリスト」による「生命力」の発動によったものである。」

 「さらにつけ加えて言わなければならないことは、この「キリスト証言的」旧約聖書解釈は、他の預言的、契約的、約束的および予型的の四解釈を、置換しまたは否定するものではなく、かえってこれらを再解釈し、それらを深化するものである。前述の預言的解釈が、実はこの点から見れば「証言的」となると言われたのは、この意味においてである。ここにこの「キリスト証言的解釈」の総完的の意義がある。」