牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

4月9日(火) 「栄えに満ちた喜び⑦」 D・M・ロイドジョンズ著

2013-04-09 09:33:15 | 日記

 本からの引用。「私たちが聖霊のバプテスマを祈る時に求めていることとは、聖霊が臨んで、私たちの心をあふれるまで満たし、力強く私たちの内に住まわれ、それによって、私たちを父、御子のもとへ連れて行くことである。これこそ私たちが真に求めていることである。」

 「あなたは渇いて、不毛な霊的状況にあるかもしれない。そこで誰かがくれた伝記を読む。それを読むにつれ、心は温まり、感動し、自分がすっかり良くなって変わったような気がする。それは、この祝福とクリスチャン生活の精励を祈る時期へとあなたを導いていく。しかし、それはしばらくしか続かない。それから、似たような別の本を読み、また同じことが起こる。このようにして、あなたを人生を費やしてしまう。他人の体験を読むことで一時的に満足し、それを糧に生きるようになってしまう。これは実にありふれた状況である。読書に限らない。人が体験を証しする集会でも同様によく起こる。」

 これは大いに起こることである。一時期の私に起こっていたことだと思う。読書の中や集会の中において(これ自体はとても良いと思うのだが)、他の人の体験を読むことと聞くことに満足してしまい、もしくは依存してしまうのである。自分自身の体験や働きにつながっていかない。すなわち過度のインプットになり、アウトプット(実践)が少なくなるという状態だ。これは今でも読書の危険だと思う。読書自体は良いのだが、読書をすること自体に満足したり、本の内容について深く考えたりせずに、次から次へ本を読むだけになってしまい、読んだ内容を消化せず実生活に生かすことができなくなる危険性だ。大いに気をつけたい。実はここに私が読書日記を始めた一番の動機がある。すなわち読んだ本の内容をもう一度まとめ考える時間を持つことの必要性が感じたためだ。すべての本という訳にはいかないが、特に教えられた本に関しては実践に移していくためだ。


 そして著者は、落胆している時、悲しんでいる時、困難に直面している時、特に自分の罪深さを自覚して苦しむ時にこそ、聖霊が注がれる可能性が強いと読者を励ましている。そのことを聖書と神に用いられた人物を引用して説明している。使徒たちが本当に困難に直面している時に聖霊が注がれたことを「使徒の働き」で読むことができる。これは私にとっても大きな励ましとなり慰めとなった。